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【1】

 いったいどうなってるんだ。


 目が覚めた時にまず思ったのがこれだった。

 目の前には直視し難いほど完璧に整った顔があった。密に生えた長い睫毛はぴったりと下ろされ、白皙の表に影を落としている。形の良い唇からはささやかな呼吸音が一定のリズムで漏れていた。彼が眠っているということを伝える、寝息。


(本当に、いったいどうなってるんだ)


 おれはもう一度考えた。混乱のあまり脳みそがバカになったようで、いつも以上に働きが悪い。冷静に物事を考えなければ、と自分に言い聞かせるのだけれど、全身に嫌な汗をかくほど動揺している今、落ち着いて思考するなどという芸当はほぼほぼ不可能だった。

 とりあえず現状を把握しなければ。おれは深呼吸をして、辺りを見回した。

 知らない部屋だった。狭くもなく広くもなく、いたって平均的な広さの部屋だ。洒落っ気もなく、無駄なものが一切ない。あるのはガラステーブルと、その上に置かれたパソコン、テレビにクローゼット。黒い色のカーテンの隙間から灰色が覗き、今日の旻が曇天であることが察せられる。部屋の隅には学生鞄がふたり分まとめて放り投げてあった。


 その中でも一番目を引いたのは、ベッドサイドに無造作に散らばる服だった。

おれは自分の体を見下ろした。おれはどういうわけか、服を身につけていなかった。要するに、裸だ。そしてそれは、目の前の男も同様らしい。布団をまくりあげて下まで確認する勇気はなかったが、惜しげもなくさらされた筋肉質な上半身には一切の服をまとっていない。


 ありがちな状況だな、とハトが飛んでいるような頭でおれは思った。そう、ありがちな状況だ。ご都合主義の安っぽいドラマの中でよく見る光景。主人公が朝目覚めるとホテルのベッドのうえで、隣には見知らぬ異性が裸で眠っているというシチュエーション。今おれが置かれている状況はその手のシチュエーションにそっくりだった。だが残念なことに、大きく異なる点がふたつある。

 ひとつは、おれも彼も男であること。もうひとつは、おれ達が顔見知りだということだ。

 男の名前は結城将臣。学年がひとつ上の先輩で、おれが最も関わり合いたくないと思っていた相手だった。

 そんな大の苦手な人物とおれは昨夜なにがあったのか?そんなことは状況と、自分の身に降りかかる猛烈な違和感を考えれば一目瞭然だった。お互い裸で、おれのあらぬところが恐ろしい程痛いとくれば、答えは単純明快だ。おれはどうやら―――死ぬほど認めたくないが―――この先輩と一夜の過ちというヤツを犯してしまったらしい。まったく思い出せないことも驚きだが、将臣が男を寝られたということも驚きだった。いつも無表情で、性欲なんて微塵も感じさせない人だったのに、意外に節操がないタイプなのだろうか。


 おれは痛む体を叱咤しつつ、急いで制服を着込んだ。将臣を起こさないように細心の注意を払うのも忘れない。鞄を抱えて静かに部屋を出ると、今まで自分がいた場所がマンションの一室だったことに気づく。この先輩は一人暮らしだと聞いていたから、恐らく彼の自宅なのだろう。

 体が痛いことを理由にエレベーターで一階まで降り(先輩の部屋は五階にあった)エントランスを出たところで、スマホを操作して地図アプリを呼び起こす。知らない町の名前に一瞬焦ったが、幸い駅の方向が表示されていたのでほっとした。時刻は午前六時半をすぎている。もう電車は動き始めている時間だった。


 おれは地図アプリに示されるがままに駅に向かって歩きながら、必死に昨夜のことを思い出そうとした。確か昨日は友人の悟に引きずられて慣れない飲み会に参加し、これまた慣れないアルコールに酔って最悪な気分になった覚えがある。しかし幸か不幸か途中から記憶がぷっつりと途切れていた。いったいいつ将臣と接触したのか、彼の部屋に連れ込まれるような事態になったのかさえ、ちっとも分からない。


(とりあえず、はやく家に帰って寝よう)


 今日は火曜日で普段通り学校があるが、そんなことに構っていられないほど体調は最悪だった。体のあちこちはギシギシと軋むし、下半身が鉛でも飲み込まされたかのように重い。一歩あるくたびに股関節が悲鳴をあげ、全身を言いようのないだるさが包んでいた。こんな最悪な体調で学校に行こうと思うほど、おれは真面目な生徒ではなかった。

 今度からいったいどんな顔をして将臣と会えば良いのかとか、どうやって昨日のことを悟から聞き出そうかとか、考えなければいけないことや不安なことは山ほどあった。

けれど、今は何も考えたくなかった。ただとにかく、はやくシャワーを浴びて自宅のベッドにもぐりこみたかった。

 駅につくと、会社に向かう人や部活の朝練に参加するらしい生徒たちで電車はいっぱいだった。閉まる寸前のドアに滑り込む。銀色の手すりにもたれ、大きく息を吐く。このまま眠ってしまいそうなのを堪えるのにひどく難儀した。




 学校に行けたのは金曜日だった。

 行かなければと思えば思うほど体が動かなくなってしまった。しぶる心と体を奮い立たせることに成功したのは、あの悪夢のような出来事から、三日も経ってからだった。


「由希、具合はどうだ?」


 放課後、さっさと帰ってしまおうとしたおれを遮るように悟がズカズカと近寄ってきた。おれは普段通りの表情を取り繕いながらも内心頭を抱えた。悟につかまる前に帰ってしまいたかったのに。


「大丈夫だよ。問題ない」

「本当に? 飲みに連れてった翌日から休むからさー、あの日何かあったのかとちょっと心配しちゃったよ」


 おれは表情を崩さないようにするので精一杯だった。


「賢一先輩も心配してたんだ。元気な顔、あの人にも見せてやろうよ」


 悟はおれの手を引いて、邪気の無い顔で笑った。おれは何といって逃れようか足りない頭をフル回転させたが、良い案が思いつく前に悟がさっさと歩き出してしまったので、仕方がなく後をついていった。

 悟はおれがこの高校でできた初めての友達だった。四月に転校してきてからもうすぐ二ヶ月が経とうとしているいま、引っ込み思案なおれにもさすがに何人かはなしをする友達はできたけれど、悟だけは特別だ。一番一緒にいて楽な相手だし、波長も合う。ふたり揃ってチビで童顔なためちびっこコンビなどとからかわれることも多く、その度に悟は歯を剥いて怒るが、おれ自身は悟とセット扱いされるのは嫌いではなかった。おれ達の仲の良さを周りにも認めてもらえているようで、ちょっと嬉しい。

 

 髪も染めておらず制服も着崩さないおれとは対照的に、悟は全体的にヤンチャな印象を見るものに与える。明るい茶色に染めたツンツンの髪に、両耳に二つずつ開けたピアス。そのくせ、授業には真面目に出席するものだから人は見掛けに拠らないものだ。すぐに授業をサボることばかり考えているおれとは正反対。周りにも「由希と悟は外見と中身があべこべだ」とよく言われる。一見真面目に見える不真面目なヤツが一番厄介だ、と言ったのはいったい誰だったか。


「ねぇ、悟」


 おれは悟の隣を歩きながら話しかけた。廊下の窓から降り注ぐ陽光に、悟のツンツンした髪がところどころ金色に見える。


「なに?」


悟は気楽に応じた。その濁りのない目に一瞬ひるんだが、おれは何とか自分を奮い立たせた。


「あの、さ。実はおれ、あの日のことよく覚えてなくて……」

「あの日?」

「飲み会があった日のこと」

「ああ。ほんとにごめんよ。由希がああいうノリ苦手だって知ってたのに強引に連れてっちゃったこと、後悔してるんだ。もう絶対にあんなことはしないから!」


 悟は力強く言い切った。その約束はとても嬉しいし魅力的だけれど、おれが聞きたいのはそこじゃない。


「それは別に良いよ。まさか自分があそこまで酒に弱いなんて思わなかったし。……ただ、おれ、悟に迷惑かけたりしなかったかな? 結構記憶が曖昧なんだ」


 恐る恐る切り込むと、悟は目を瞬かせた。それから、にやぁと猫みたいな顔で笑う。おれは嫌な予感がした。


「え、まさか本気で覚えてないの?本当に?」

「……だからそう言ってるだろ」

「マジかー。じゃあムービー取っておけば良かったなぁ。いつもスカしてる由希の赤面する貴重なシーンが見れたかもしれないのに、惜しいことをした」


 いつもスカしているとは失礼だ。悟はむふふ、と面白そうに笑った。


「あのね、酔っ払った由希はちょー可愛かったよ。おれに頭撫でられて顔を真っ赤にしたままうれしそーに笑うんだもん。由希が女の子だったらおれがお持ち帰りしてたよ、絶対。……ちょっと、冗談だからそんな怖い顔しないでよ」


 睨みつけると悟は肩をすくめた。まぁ、と続ける。


「実際お持ち帰りしたのは将臣先輩だったけどね。あの人の場合、由希を連れ帰ったのは飲み会から抜け出す口実だったっぽいけど」


 足が止まった。悟が不思議そうに振り返る。心臓がばくばくと嫌な音を立てて、冷や汗が背筋をつたった。


「どうかしたの?」


 悟は訝しげにおれを見た。おれは首を横に振って、また歩き出した。

 実際に目が覚めたとき将臣の姿を見たし、ふたりの間に起こった出来事もちゃんと把握していたつもりだったけれど、第三者の口からそれを裏付けるような発言を聞くと、堪えた。やはり夢ではなかったのかと絶望的な気持ちになる。すべてがおれの妄想や夢の中の出来事だったのではないか。そんな風に甘く馬鹿げたことを考えていた自分を、思い切り殴りつけられたような気分だった。



 生徒たちでごった返す下駄箱で、二人の背の高い男子生徒がおれたちを待っていた。賢一先輩と、そしてもう一人、将臣だ。彼を視界に入れた瞬間、胃がひっくり返るような気分の悪さに襲われた。今すぐこの場を去りたい衝動が嵐のように湧き上がる。しかしここで変な行動を取ったら悟と賢一先輩に不自然に思われてしまう。その一念で、何とか我慢することに成功した。

 壁に寄りかかって缶コーヒーを飲む将臣と、一瞬目が合う。将臣は眉をひそめた。それはわからないくらいの、些細な変化。瞬きをする間に、普段通りのシラっとした無表情に戻る。おれは、見間違いだったのかもしれないと思った。


「由希!」


 将臣を相手に話していた賢一先輩は、おれを見るとぱっと表情を変えた。精悍な男前の顔を気遣わしげにひそめて、検分するようにおれの顔を見つめた。


「三日も学校を休むから心配したんだぞ。欠席の理由は体調不良だと聞いていたけど、もう大丈夫なのか?」

「はい。大丈夫です。心配かけてすいません」


 賢一先輩は嬉しそうに頷いた。その人の良さそうな顔を見ていると、誤魔化している自分がひどく罰当たりな人間に思えてしまった。


「元気になったのなら良かった。由希がいないとつまらなくてさ」

「賢一先輩はほんと由希のこと好きだよねー」


 笑う賢一先輩に悟が呆れた表情でツッコミをいれる。おう、大好きだぞ!と爽やかに返す賢一先輩はさすがとしか言い様がない。

 賢一先輩は優しく親しみのあるいい人だ。初対面の時から奇妙なほどおれのことを好いていてくれて、あれこれと構ってくれる。

 悟とは従兄弟という関係らしく、そのせいか二人はよく似ていた。目新しいものが好きなところとか、お節介なところとか。

 いつものように、賑やかに喋る悟と賢一先輩の話に相槌を打ちながら二人の後をついて歩く。これからゲーセンに行こう、と悟が提案している。うるさいところは苦手だけれど、おれはめったに反対したりしない。


 歩いている最中、ずっと将臣の視線を感じていた。その視線から逃れるようにずっと下を向いて歩いていた。内心、いつ何か言われるかとビクビクしていた。

 将臣は苦手だ。最初から苦手だった。いつも無表情で何を考えているかわからないし、無口だし、そのくせ常に人に囲まれている。彼が廊下で女子生徒に囲まれている姿を何度も見た。口数が少ないのに人に好かれるからくりが、おれにはさっぱりわからない。


 初めて会ったときからおれは彼のことが何となく怖かった。嫌いというわけではないけれど、積極的にかかわり合いになりたいタイプではない。おれの苦手意識は彼にも伝わっていたようで、四人でいるときも、あまり話しかけては来なかった。そのくせ、ときどき、気が付くとじっとおれを見ていることがあった。そういう時の目は、おれの何もかもを見通してしまうかと思うほど鋭く、遠慮がなくて、見えないものまで見ようとするかのごとく強い力があった。おれはその目がとても恐ろしかった。すべてを暴かれてしまいそうな気がするからだ。


「賢一、悟」


 急に将臣が立ち止まって前の二人に呼びかけた。呼びかけながら、おれの腕を掴んだ。


「今日は俺たち用があるから、ゲーセンには二人で行け」

「え、将臣!?」


 賢一先輩が引き止めるのも聞かず、将臣はおれの腕を引いて進路とは別の方向に歩き出した。彼の歩調は大股ではやく、ほとんど引きずられるようにしてついていくのがやっとだった。


「先輩、何なんですか! はな、離してください」


 驚きと恐怖ではりついた喉からやっとのことで声を絞り出す。と、氷のごとく凍てついた目で睨まれた。


「話がある」


 将臣はそれきり口をつぐみ、足早に歩を進めた。どこへ行くのか、と聞きたかったけど、聞く勇気が持てず、おれは項垂れながら引きずられるままに脚を早めた。何の話、なんて尋ねる必要もなかった。あの夜のことに決まっている。

 連れてこられたのは将臣のマンションだった。エントランスに入る前、少しだけ抵抗する意思を表すべく立ち止まったが、苛立ちのこもった目で睨まれておれは白旗を上げた。

 一度来たきりの部屋は赤の他人のおれを拒んでいるように感じられた。生活感の極めて乏しい空間は居心地が悪く、身の置き所がない。

 将臣は学生鞄とブレザーをベッドに放り投げてから、壁際で小さくなっているおれを振り返った。


「で?」


 切れ味の鋭いナイフみたいな声で将臣が切り出した。


「俺に一言もなく帰ったのはなぜだ?」


 無表情で、声も淡々としているのに、彼が怒っていることが全身から伝わってきた。おれはますますうろたえてしまって、頭が真っ白になった。何か言わなきゃ、と思うのに、ふさわしい言葉がまるで出てこない。


「釈明する気もないのか」


 たっぷりと間をおいてから、将臣が言った。明らかにトゲを含んだ言い方だった。おれはここで、今までこうして将臣と相対して話をしたことが無いという事実に気がついた。いつも悟なり、賢一先輩なりが間にいた。将臣と二人きりで話をするという状況はこれが初めてだった。


「で、できたら」


 おれはつっかえながら言った。じんわりと嫌な汗がにじむのを感じた。


「あの日あったことは、誰にも言わないでください。もっといえば、忘れて欲しい、です。おれ、実はあんまり覚えていないんですけど……酒のせいで、すごく酔っていて……あの日のことは、ぜんぶ間違いだったと思うから、無かったことにしてもらえれば……」


 嬉しい、と最後まで言えず、おれの拙い弁明は尻切れトンボで止まった。

 将臣は腕を組み、じっとおれを見つめたまましばらく黙っていた。長い指先が忙しいスピードでトントンと腕を叩いていた。


「ぜんぶ間違いだった、か」


 将臣は不思議な調子で呟いた。


「おまえ、今までに男と寝たことは」

「……あります」

「相手は」

「前の学校の先輩、です。恋人では……無かったけど」

「……つまりおまえは、相手が男なら誰にでも脚を開くホモ野郎、ってことか」

「っ男なら誰でもってわけじゃない! そんなことおれ、一言も言っていないじゃないですか!」

「でもおまえは、恋人でもない男と寝たんだろう? それは、男なら誰でも良いってことなるんじゃないのか?」


 おれは怒りと羞恥で顔が真っ赤になったのがわかった。

 おれには男と寝た経験が確かにある。でもそれは、今のこの状況となんの関係もない話だ。


「誰でもいいから、俺とも寝られたんだろう?」


 反論する前に、将臣に機先を制された。

 それを言われると弱かった。おれ自身なぜ将臣とそういうことをするような事態に陥ったのかさっぱり覚えていない以上、下手なことは言えない。

 将臣の様子から、彼があの日おこったことすべてを覚えているだろうことは明白だった。せめて忘れていてくれたら、と願わずにはおれなかった。そうすれば、どっちも忘れているのではしょうがない、この件はなかったことにしよう、と簡単に片がついてしまうのに。


「言っておくけど、誘ったのはおまえだからな」


 将臣が蔑むようにおれを見下ろして、恐ろしい一言をつきつけてきた。


「おまえが誘ったんだ。俺は止めたけど、おまえは聞かなかった。自分から服を脱いで、こんなこと慣れてるからだいじょうぶ、つって、おまえが笑ったんだ。酒で真っ赤になった顔で、笑いやがった」


 将臣の語る人物像が自分を指しているなんて死んでも認めたくなかった。


「まるで――――」


 将臣は何か言いかけ、不意に言葉を切った。おれは、そのあとにつづく言葉が何なのか分かる気がした。

 将臣がおれの腕を引き、強引にベッドに押し倒した。なめらかで冷たい、真っ白なシーツ。


「おまえから誘ったくせに、何も覚えていないなんて、フェアじゃないと思わないか」

「……誰かに、言いふらすつもりですか?」


 おれは一番気になっていたことを、自分でも惨めなほど弱々しい声で訊ねた。


「おれが男を誘うようなヤツだって、言いふらしますか? 悟とか、賢一先輩に、話しますか」

「……あいつらに言ったら、どうなるだろうな」


 おれは片手で顔を覆った。恐ろしい想像がぐるぐると脳内を駆け巡った。

 決まっている。おれのことを軽蔑し、蔑んで、拒絶するに違いない。もう二度と口を聞いてくれないかもしれない。もう二度と目を合わせてくれないかもしれない。もう二度と、もう二度と……優しく笑いかけて、くれないかもしれない。

 そんなの、耐えられない。


「なんでもしますから、お願いだから、誰にも言わないで」


 目を瞑って、ぎゅうと自分の体を守るように抱きしめた。ふるふると肩が小刻みに震える。やっとできた友人たちをまた失うのかと思ったら、怖くて涙が出そうだった。

 数分間は、どちらも口を聞かなかったように思う。

 やがて将臣がするりとおれのネクタイを外した。ブレザーも脱がせ、シャツのボタンを一つずつゆっくりと外していく。足の先からスラックスが抜けて床に落ちる、どさっ、という音がやけに大きく聞こえた。


「おまえが俺の言うことを聞くなら、誰にも言わねぇよ」


 むき出しになったおれの内腿をするりと撫でて、将臣が呟いた。その一言だけで、おれには彼の言わんとしていることも、この先自分に降りかかるであろう出来事も、完璧に理解できた。


「なんでもするから、お願い……」


 将臣の広い背中にゆっくりと両腕を回し、銀色のピアスが光る、形の良い耳に、縋るように囁いた。全身が屈辱と羞恥とほんの僅かな安堵のせいで熱く火照っていた。


「なら、俺とセックスしろよ。男とセックスできるんだろ」


 こめかみに唇が触れた。柔らかい感触。でも、かなしいほどに冷たい。

 うん、と頷く以外にどんな選択肢があったというのだろう。

 将臣がどんな意図でおれをもう一度抱きたいと言ったのかわからない。単なる暇つぶしなのだろうけれど、同じ性欲を満たすのであれば女相手に発散すればいいのにと思う。それとも、一度男を抱いてみて男に目覚めてしまったのだろうか。どうせ一定期間だけだろうけれど、物珍しさでおれに手を出そうと思ったのかもしれない。


 どうだっていい、と思い込もうとした。どうだっていい。彼が、誰にも言いふらさないという約束を守ってくれるのであれば、男に抱かれるくらいどうってことない。好きでもない相手とのセックスは苦痛だけれど、我慢できないほどのことじゃない。友達を失う痛みと比べれば、些細な苦痛だ。

 将臣の長い指が、乾いた肌の間をゆっくりとたどっていく。おれは来るであろう快楽と苦痛を覚悟して、ぎゅっと拳をかたく握った。



 改めてセックスしたあとも、おれと将臣の関係は大して変わらなかった。おれは相変わらず将臣のことが苦手だし、将臣はおれのことなど気にも止めてないって感じの無表情。廊下ですれ違っても言葉も交わさない。セックスの合図はLINEに送られてくる。『今夜うちに来い』、たったそれだけ。この短すぎる短文にいちいち返事を送ってしまう自分の馬鹿さ加減にも呆れかえる。本当に、なんて堕落したことをしているのだろう。高校生同士のLINEのやりとりがセックスをするための確認だけだなんて、ただれている。


「由希、明日将臣先輩の家行くのー?」


 背後から急に話しかけられて飛び上がるほど驚いた。振り返ると、口にソーダ味のアイスをくわえた悟がおれの手元を覗き込んでいた。


「ひ、人のケータイ覗くなよ!」

「そんなにびびらなくてもいいじゃん。えっちぃやりとりしてた訳じゃないんだし」

「プライバシーの問題だよ」

「ていうか、びびりすぎ。なんかやましいことでもあんの?」


 悟はアイスをしゃりしゃりと咀嚼しながら胡乱な目でおれを見た。


「最近みょーに将臣先輩と仲良いみたいだし……二人でおれの悪口でも言ってるんじゃねぇだろうな!」

「馬鹿かよ。そんなわけないだろ」

「ええー。でも、二人が仲良いのはマジだろ? おれだって将臣先輩の家に泊まったことなんてねぇぞ。羨ましい~」


 本気で羨ましそうな声を上げて、悟は机に勢いよく腰を下ろした。放課後の教室にはまだ教師が残っていて、こら!と悟を叱るもどこ吹く風だ。おれは苦笑しながら、スマホの電源を落とした。

悟は将臣に憧れている。ずっと前から憧れの人なのだそうだ。それこそ小学校からの憧れだと笑っていた。

彼曰く、将臣は完璧なのだという。顔も良い、頭も良い、運動神経も良い、そして性格もクールで知的でカッコイイ、のだそうだ。おれは大部分に賛成できるけれど、性格の部分にだけは素直に賛同できない。クールというよりは無感動って感じだし、表情筋が死んでいるんではないかと疑ってしまうほど常に無表情だ。おれは昔から、表情の乏しいタイプが苦手だった。心の内を読ませてくれないから、接していてとても疲れる。たいていは些細な仕草から喜怒哀楽を読み解くことができるのだけれど、将臣は決して読ませてくれない。だから苦手だった。


「あ、そういえばさ。由希って今週の日曜日暇?」

「日曜日? 明後日か。なんの予定もないけど」

「おーまじか。じゃあちょうどいいな」


スマホの大きな画面をおれに見せながら、悟が笑顔で言った。


「今週の日曜日にさ、映画見に行く予定だったんだけど急にいけなくなったんだよ。今からキャンセルするのもアレだし、由希が代わりに見に行ってくれないか?もうひとり誰か誘ってさ」

「見に行くのはいいけど……誰かって、誰を誘えばいいんだ?おれが友達少ないの知ってるだろ」

「賢一先輩に声かければ、喜んでオッケーしてくれそうなもんだけど」


ちょうどそのとき、教室のドアをがらりと開けて賢一先輩が入ってきた。遅いおれたちを迎えに来たのだろう。珍しく、将臣と一緒ではなかった。


「おまえらー、今日カラオケ行く約束してただろ。おっせーよ」

「ちょっとだらだらしてただけだよー。それよか、将臣先輩はどうしたの?」

「あいつは用事があるとかで今日はパスだってさ」


賢一先輩はまるで自分の教室のように、堂々と手近な椅子に腰を下ろした。こういうフランクさが後輩たちに人気だ。賢一先輩は将臣とともにバスケ部に入っているのだが、バスケ部の後輩たちがよく賢一先輩のあとを嬉しそうにくっついて歩いている姿を見かける。将臣の場合はいつも女子マネにばかりまとわりつかれているけれど。


「賢一先輩さ、日曜日暇?」

「あー悪い。その日は生徒会の用事があるんだ」

「なんだぁ。せっかく由希とデートできる機会だったのに、残念だったね先輩」


賢一先輩は本気で残念そうな顔をした。別の日にはずらせないのかーなどと悟に駄々をこねている。それを軽くあしらって、悟はおれに向き直った。


「無理に行かなくてもいいよ。気が向いたら、誰かほかの友達と行って。意外に将臣先輩が大穴だったりして。誘ってみたら?」

「無理だよ。あの人はきっと、忙しいさ」

「ああ、部活とかで?」

「それもあるけど、女の子との予定で忙しそうじゃないか」


賢一先輩が首をひねった。


「あいつ、いま彼女とかいたっけ?」

「いないって言ってましたよ。先週、三年の女子が将臣先輩に告ってるとこ盗み見したんすけど、その時はっきり今は彼女いないって答えてましたもん。その上で振るなんて、よっぽどいま女要らないでしょーねー先輩。おれだったら、一も二もなくオッケーしてたのにっ」

「将臣はおまえと違って女にがっつく必要がねーんだよ。むしろ入れ喰い状態でうんざり気味って感じだろ」

「ううう、刺し殺したいほど羨ましい……」


悟が大げさに嘆く横で賢一先輩が肩を竦めてみせた。


「な?だから一応誘ってみる価値はあるよ。あいつも、由希から誘ってくれたら喜ぶと思うぜ」

「え、どうしてですか?」


びっくりした。素っ頓狂な声で訪ね返してしまう。おれの大げさな反応に賢一先輩も驚いたように目を丸くした。


「どうしてって、将臣が由希のことを気に入ってるからに決まってんじゃん」

「気に入っている? まさか」

「……ああ、まぁ確かに将臣はわかりにくいよな。いつもしらーっとした顔してて感情ってもんを表に出さないし。でも、相当気に入らないとあいつ自分から誰かに話しかけたりしないし、そもそも関わろうとしないから。将臣は由希に連絡取ったり、話しかけたりしてるんだろ? それってかなり気に入られている証拠だよ」


賢一先輩は大きな笑顔でいい、ぽんとおれの背中を叩いた。先輩の手は大きくてあたたかい。


「由希が将臣のことを苦手に思ってることは知ってるよ。でも、大丈夫。あいつは見かけよりずっと優しいから、安心して話しかけていいよ」


真実厚意から言ってくれているとわかるからこそ、つらかった。おれ達の関係はそんな綺麗なものじゃないんです、と暴露してしまいたくなる。将臣がおれに関わるのはセックスが目的だし、おれが将臣を怖がるのは、彼がおれの弱みを握っているからだ。そう、すべてを話してしまいたくなる。

もちろん、なるだけで、本当にそんな馬鹿げた真似はしない。


「お気遣い、ありがとうございます」


作り笑顔でつまらない返事をする。賢一先輩は眉をひそめたが、何も言わなかった。

日曜日の映画の件が、ずしんと心に重くのしかかった。



その夜、おれは母の働いているクラブに寄った。母は歌舞伎町で小さなクラブでママとして働いている。小さな箱で、在籍している女の子は二十人から三十人ほどだ。しかし夜のお店ということもあり、女の子はくるくる変わる。半年もてばいい方だった。


「それじゃあ、なぁに? あんた、また男の子のセフレに成り下がったっていうわけ?」

「小さい声で頼むよ」


あおいがピンクのグロスを引いた唇から、大きく煙を吐き出した。目には呆れとも諦めともつかない色を浮かべている。おれは気まずさに首を縮め、オレンジジュースのグラスを傾けた。


「由希も懲りないわね」

「今回のは、おれがすすんでそうしたわけじゃない。その……酔った勢いってやつだよ」

「さくらさんがあんたに頑として酒を飲ませなかったのは、正解だったわけだ」


さくらとはおれの母の名前だ。源氏名でなく、本名だ。あおいも本名だった。

将臣との間におこったとんでもない出来事を、今しがた彼女に打ち明けたばかりだった。あおいは口がかたいし、何よりおれの親友だ。ほかの誰にも離せないようなことでも、彼女にだけは話すことができる。

あおいは灰皿にとんとんと煙草の灰を落とした。今日の彼女は薄いブルーのタイトなミニドレスで、真っ黒なピンヒールを履いている。赤と黒にネイルされた爪は攻撃力が高そうだ。引っかかれたらひとたまりもないだろう。


「ちょっと脅されたからって、ほいほい言うこと聞くなんて、どうかしてるわよ。男でしょ、殴ってでも黙らせなさいよ」

「あいにくおれは君ほど無謀でも勇敢でもないんだよ。しかも、相手は年上で、バスケ馬鹿だぜ? 勝てるわけがない」

「小心者」


ふん、と鼻を鳴らし、あおいは細いグラスに入ったビールを一気に飲み干した。拍手を送りたいほど男らしい。

あおいは従姉妹で、今年十九歳になる。この店のキャストのひとりだ。母の姪っこで、高校を卒業すると共にこの店で働いている。特別売れっ子というわけではないが、場を盛り上げるのが上手で歌がプロ並みにうまい。身長はすらりと高く、指の形がとても綺麗だ。頬骨の高い顔は可愛いというよりは美人という感じで、私服から露出の激しい派手なものを好む根っからのギャルだ。テイラースウィフトを神と崇め、聴く音楽は洋楽ばかり。そのくせアニメと漫画が大好きという、なかなかパンチの効いた女の子だ。付き合いは幼少の頃からで、おれのことを弟のように可愛がってくれている。

おれはこの、年上の親友のことがとても好きだった。彼女と話がしたいがために、こうして店を訪れることは多々ある。母もわかっていてくれて、おれが来たときはできるだけあおいと話をさせてくれる。彼女に指名が入ったときは別として。


「あたしはあんたのためを思って言っているのよ、分かっているの?」

「そりゃあもう」


おれは大げさに頷いてみせた。あおいは、本当かしらという目つきでおれを睨んだ。


「以前にも、同じような話をした気がするわ。それも、うんざりするほど」


新しい煙草に火を点け、あおいが言った。


「その時も、あんたはわかってるって言った。だけど、あたしの忠告を無視した」

「今度は違うって。ほんとだよ」

「信じられないわ」

「だって、将臣はただの先輩だ。付け加えるなら、苦手な先輩さ。おれはその人に、好意のかけらももっちゃいない。マジだよ」

「ふーん」


あおいはまだ疑わしそうな顔をしていた。おれは二杯目のオレンジジュースをボーイに頼みながら


「問題は、日曜日だよ」


と言った。


「ねぇ、君、本当に日曜日は暇じゃないのか?」

「もう、何度も言わせないでよ! 日曜は溜まったアニメを消化するんです! それを楽しみに、今週頑張ったのよ」

「親友よりアニメを取るのか?」

「ええ、取るわね。だってあたし、その映画に興味がわかないんだもの。タイトルからしてつまらなそう……アメリカ映画って、派手なだけで凝っていないから好きじゃないの。それに、その将臣とかいう先輩を誘うんでしょう?」

「君がオーケーしてくれていたら、誘うつもりじゃなかったよ」


おれは顔をしかめて溜息をついた。


「まったく、君の友情には感謝するよ。あおい」

「将臣って人がただの先輩に過ぎないなら、一日ちょっと出かけることくらいどうってことないでしょ。ただの先輩ならね」


あおいが意味ありげに言い、デンモクを操作してカラオケを入れた。カラオケは普通お客がリクエストをして入れるものだが、あおいはおれの席では自分が歌いたい時に勝手に曲を入れて歌う。本日はアリアナ・グランデの気分らしい。

日本人とは思えない発音で完璧に歌い上げるあおいの歌声を聞きながら、おれは明日のことを考えた。誘うとしたら、明日将臣の家に行った時だ。考えるだけで憂鬱だった。




翌日の土曜日、おれは将臣のマンションに行った。

セックスのためだけに部屋を訪れる。まるでデリヘルそのものだな、と自分を哂った。

将臣とのセックスでおれは、いつも奉仕に力を入れてしまう。というか、それ以外のセックスの仕方を知らない。


「……っ、あ……」


将臣の腰にまたがって、自分で腰を振った。いいところを将臣のもので擦りあげると、全身がびくびくと痙攣した。強すぎる快感は、怖い。


「……腕、つかまれよ」


シーツに爪を立てて懸命に快感を和らげようとしていると、じっとおれの好きにさせていた将臣が口を開いた。


「……別に、いい」

「なんで」

「……爪のあと、ついちゃうから」


本当は将臣の肩に触れることに気後れしていた。おれなんかが触っていいわけがない、と、ほとんど本能的な畏怖を覚える。

額から流れてきた汗を手のひらで拭って、立てた膝をわずかに動かした。ぐちゃり、と水音がして、じんじんと尻の間が熱を持っているのがわかった。顎をつたい落ちた汗が、将臣の割れた腹筋に沿って流れた。


「……動けよ」

「あ!……ちょ、うご、動く、から、やめ……っ、」


おれの腰を掴み、将臣が急に突き上げた。がくがくと膝が震えて、こらえきれなかった悲鳴が開いた唇から漏れた。その声を塞ぐかのように、将臣の唇がぴったりと下りてくる。ぬるぬると動く舌に呼吸までも絡め取られて、息苦しさに喘いだ。

将臣のセックスは丁寧だけれど、おかしなことに、あまり欲望が感じられなかった。性的な欲求を満たすための行為のはずなのに、彼からは動物的な本能による衝動が感じられない。どちらかというと、しなければいけないからする、といった風な、義務感のようなものが感じられる。愛撫も律動もすべてに無駄がなく、かつ、規則的。ひとりでどんどん乱れていってしまう自分がバカみたいだった。おれは快感に弱い。

セックスのあと、将臣はおれを腕に抱いてじっと目を閉じている。寝ているわけではないことは、腕から抜け出そうとすると阻むことから分かる。シャワーを浴びたいから離して、といっても、彼は聞こえないふりをする。


「明日、何か用事はある?」


切れ長の目がぱっちりと開いた。おれを見下ろして、微かに首を傾ける。続きを促すように。


「悟から映画のチケットもらって、明日見に行くんだけど、良かったら先輩も見に行かないか?」

「………おまえと?」

「うん」

「他に誰がいる?」

「誰もいないよ。おれと、先輩の二人」


将臣は黙った。おれは焦り、どう誤魔化せばいいものかと頭を悩ませながら言葉を続けた。


「男二人で映画っていうのも虚しいかな。チケットふたり分譲るから、女の子を誘って見に行ってよ。先輩とならデートしたいって女子は山ほどいるだろうし」

「明日、何時から」

「え?」

「映画は何時からなんだ」

「た、たしか、午後二時すぎくらいからだったと思うけど……」

「なら、正午に待ち合わせでいいな」


将臣は眠そうに長いまつげを伏せながら言った。そう経たないうちにすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえて来る。本当に眠ってしまったみたいだ。

おれは途方に暮れた。名前のつけられない感情がむくむくと心の中で広がり、心臓を押しつぶした。


自分で誘っておきながらどうかと思うけれど、おれは将臣がまさか本当に誘いに乗ると思っていなかった。どうせ断るに違いないと思っていた。悟と賢一先輩の手前、一応将臣に声をかけたけれど、実際に一緒に出かける気はなかった。最悪ひとりで見に行こうとさえ思っていた。それがまさか、こんなことになるなんて。

おれはしばらく呆然としていたが、終電が近いことに気がついて慌ててマンションを飛び出した。マンションから駅まで大した距離ではないけれど、少しの振動が下半身に響いた。目頭がかぁ、と熱くなって、鼻の奥がツンとしみた。ぐす、と鼻水をすする。情けないような、惨めなような、ぐちゃぐちゃな気分だった。

明日のことを考えると胸が塞ぎそうなほど憂鬱だ………。


明日世界が終わってしまえばいいのに。ひどく中二くさいことを考えながら、とぼとぼと駅へ向かって歩いた。駅前のコンビニで、おれと同じ制服を来た男女のカップルが座り込んでいた。どちらもつまんなそうな表情で、それぞれスマホをいじっている。二人でいるのに、彼らはまるでひとりぼっちみたいだ。ああそれとも、二人でいるのに、ひとりぼっちみたいだから、つまらなそうな顔をしているのだろうか。見ていると、彼女のほうが小さなあくびをした。もう一回。彼氏のほうは気づかずに、自分のスマホをしきりにタップしている。彼女はますます退屈そうな顔になる。


その姿が、ふと、以前の自分と重なった。


前の学校でつるんでいたヤツも、あの彼氏みたいに、おれをほうっておくタイプの人間だった。彼の暇つぶしの相手はもっぱらスマホで、おれなんて眼中にないって感じだった。そのくせ、おれが帰ろうとすると、怒って引き止めた。ばか、なんで帰ろうとするんだよ、一人じゃつまんねーだろ、そう言って。

二人でいても孤独を感じるなら、そこに二人一緒にいる意味があったのだろうか?

いよいよ我慢の限界を迎えたらしい彼女が、彼氏の肩を乱暴に叩く。彼氏がはっと顔を上げる。彼女はひとしきり文句をまくし立てると、勢いよく立ち上がった。彼氏は慌ててスマホを鞄に放り込んで、彼女に追いすがる。ばかみたいにありふれた、ばかみたいな痴話喧嘩。

どうしておれはそれを、こんな妬ましい気持ちで眺めているのだろうか?

駅のプラットホームは閑散としていた。重い体を座席に預けて、じっと目を閉じた。ここから自宅の最寄り駅まで数駅ある。この数駅間だけでいいから、将臣のことは忘れたかった。



どれほど呪ったところで翌日というものは容赦なくやってくるもので。

おれは寝不足の頭を手で押さえながら待ち合わせの場所にやって来た。既に将臣は先についていて、知らない女の子たちからナンパされていた。


「五分の遅刻だ」


女子の猛攻から辛くも逃れた将臣は、憮然とした表情でおれを責めた。


「五分くらい勘弁してください」


遅刻の理由は口が裂けても言えない。着ていく服が決まらなくて散々悩んでいた、なんて。

私服姿の将臣の隣に立つには、ものすごく勇気がいる。なにせこの男は家が金持ちということもあり、身に付けるものはなんでも一流、かつ洗練されている。要するにおしゃれってことだ。本人はファッションに興味はない、なんて言っているけれど、腕を通したものはなんでも美しく着こなすという芸当の持ち主なのだ。ぜひファッション業界で活躍すべきだ。宝の持ち腐れだろう。

完璧な八頭身の持ち主の横に、おれみたいな小柄のちんちくりんがならばなければいけないなんて、拷問に等しいと思う。新手のいじめだ。

新宿の映画館は、休日ということもあって、すさまじく混んでいた。人波に流されて迷子にならないようにと、将臣がずっとおれの手首を握っていた。


「映画、何見るんだ?」

「ええーと、アレです。あそこの大きなポスターのやつ。SFものかな」

「悟からチケットもらったって言ってたよな? あいつらしい趣味だ」


恋愛ものじゃなくて良かった、と心の底から思った。男二人で恋愛映画なんて、ひどすぎて目も当てられない。

早々に座席を見つけて腰掛ける。そこでようやく繋いでいた手が離された。


「何か食べるか?」

「え?」


離された手をぼんやり見つめていたおれは、将臣の問いかけにすぐ反応できなかった。


「何か食べたいものはあるかって、聞いたんだ」

「……キャラメル味のポップコーン、食べたい、です」

「飲み物は?」

「……コーラです、けど。ちょっと待って。おれが行きますよ」


さっさと歩き出そうとする背中にあわてて追いすがった。黒いTシャツの裾をぎゅうと握る。


「あんたは先輩なんだから、後輩のおれが買ってくるのを待っていればいいんだ」

「……めんどくせぇな」


将臣は顔をしかめ、おれを座席に押し戻した。座って待っていろ、と淡々と命令する。将臣は反論を許さず、すぐに人波に消えていった。おれは仕方がなく、受付のところで渡されたパンフレットを開いて時間を潰すことにした。

映画館の中は徐々に混み始めていた。おれ達の席の周りには若い女性客が座っていた。将臣が戻ってくると、彼女たちはたちまち色めき立った。


「高校生なのー?」

「誰と来てるの?彼女?」

「あたしたちそこのT大に通っているんだけど……」


あっという間に逆ナンの嵐だ。将臣は姦しい声を涼しい顔でスルーしておれの隣に腰を下ろした。ポップコーンとコーラが手渡される。

沈黙。

男二人が黙ってポップコーンをつまんでいる。シュールな光景だ。シュールすぎる。


「あの……ありがとうございました」


とりあえず、沈黙を埋めるべくお礼を言ってみる。将臣は、ああ、と頷いた。それだけ。終了。会話を広げる気皆無。


「………可愛い子、いました?」

「はぁ?」

「ついさっき、逆ナンされてたでしょう。可愛い子いたかなって」

「さぁ」

「さぁって、あんたね……」

「興味ないから見てない」


これが逆ナンを受けた男子高校生の反応なのだろうか。女が苦手なおれでさえ、自分に声をかけてきた女の美醜ぐらいは覚えているものだけれど。将臣の場合、声をかけられる率がおれの比ではないからいちいち覚えてられないってことなのかもしれない。それはそれでむかつくもんだ。


「映画」


唐突に将臣が言った。


「え?」

「映画、好きなのか?」

「好きってほどでも………話題作とかを、たまに見に来るくらい」

「誰と」

「誰って、友達とか。さすがのおれも、一人じゃ見に来ないですよ」

「へぇ」


自分で聞いたくせに、興味のなさそうな調子で将臣が頷く。瞳はいつものごとく半眼で、口はつまらなそうに引き結ばれている。不機嫌そうというわけじゃないけれど、決して愉快そうにも見えない。おれなんかといても退屈なんだろうな、と思って、自分で自分の思考に凹んだ。すぐ自虐的になってしまうのがおれの悪い癖だ。


「おまえも休日に友達と遊んだりするんだな」

「……おれは付き合い良い方ですよ」

「でも、進んで付き合ってるわけじゃないだろ。誘われたから仕方なくって顔、いつもしてる」


ぎくりとした。図星だったからだ。


「嫌なら断ればいいのに。おまえももの好きだな」


瞬時に反感が胸にきざした。そんな簡単に言うな、と思った。

反論しようと口を開いたとき、照明が落ちた。映画が始まる。おれは口を引き結び、背もたれに深く背中を預けた。

映画は面白かった。アメリカ映画らしく壮大で派手な脚本と演出だった。お決まりの、勧善懲悪でハッピーエンドなストーリーだと分かっていても、やっぱりわくわくした。

おれ達は映画のあと、手近なカフェに入り、ひとしきり映画の批評をした。あの銃撃戦のシーンは派手で良かった、とか、女優が美人だった、とか。


「好きな俳優が出てて」


おれが敵役だった俳優の名前を上げると、将臣は頷いた。


「去年オスカーを取ってたな」

「そうだったの? 知らなかった。前に見た映画ですごく格好良くて、その映画は友達と見に行ったんだけど、」


言いかけて、おれは口をつぐんだ。当時一緒に見に行った友人のことを思い出してしまったのだ。

急に話をやめたおれを、将臣が訝しそうに見る。おれは慌てて話題を変えた。その友人のことは考えたくなかった。


「この後、どうします?」


腕時計に目をやりながら、おれはごくごく自然に言った。将臣は不審そうな目をしていたが、追求することはなかった。


「そうだな……何か食べに行くか?」

「そうですね。どこかゆっくりできる店が良いですよね。行きたい店とか、あります?」


将臣は一瞬考えるように視線を落とした。それから、スマホを操作しながら言った。


「この近くに知り合いがやってる店があるんだ。バーだけど、簡単な料理くらいなら出してくれる」

「バー?この時間から?」


おれは時計を確認した。午後四時半。バーの開店時間には少々早い気がする。


「少し待ってろ」


将臣はスマホを持っていったん席を離れた。五分と経たず戻ってくる。スマホをジーパンのポケットに突っ込みながら、


「行くぞ」


と、簡潔明瞭に言った。おれはそこで初めて、テーブルから伝票が消えていることに気がついた。将臣が支払いを済ませてしまったらしかった。


「待って、先輩。自分の分くらい払うよ」


大股で店を出て行く将臣の後を慌てて追いかけた。将臣は聞いているのかいないのか、返事をしない。コンパスの差なのか、必死で追いかけなければ距離が開くばかりだった。

将臣の言っていたバーは新宿の端っこにあった。細い路地を抜けた地下にあり、看板も出していない。窮屈な階段を下りて、将臣が重そうな木製の扉を押し開ける。おれはあんぐりと口を開けた。

狭く汚れた路地にはおよそ似つかわしくない店だった。間取りは広くもないが、狭くもない。柔らかいオレンジ色の照明が、洒落た内装をあたたかく照らしている。ごく絞ったボリュームで洋楽がかかっていた。ギターをつま弾くような伴奏。カントリーだ。


「よう、来たか」


カウンターの奥から背の高い男性がひょっこりと顔を出した。続いて、すらっとした線の細い女性が現れる。艶のある黒髪を優雅に結い上げた妙齢の女性だ。女性は完璧な形の柳眉を釣り上げ、


「将臣! あんた、わがままも大概にしなさいよ。いきなり電話してきた挙句店を開けろとか、何様のつもり……、」


すこし癖のあるアルトの美声が、ふと止まった。ふさふさの長いまつ毛に縁どられた形の良い目が、おれを穴が開くほど凝視する。おれは居た堪れず、思わず将臣の影に隠れた。


「初めて見たわ」


女性が心底びっくりしたように言った。


「将臣が誰かを連れてくるなんて。驚天動地よ」

「大袈裟だな」


将臣は肩を竦め、カウンター席に座った。おれもおっかなびっくりスツールに腰かけた。やたらと高くて、座るのに苦労した。

二人がまじまじとおれを見るので、ひどく落ち着かなかった。突然舞台に引っ張り出された気分だ。


「俺の兄貴とその嫁」


二人を顎で差し示し、将臣が至極何でもないことのように言った。おれは驚いて、スツールから落ちそうになった。


「お兄さんと、その奥さん?」


おれは思わず詰問した。


「何が、『知り合いがやってる店』だよ!ご家族の方だなんて、一言も言わなかったじゃないか」

「知り合いには違いないだろ」

「大間違いですよ」


憤然と将臣を睨む。女性がクスクス笑った。


「初めまして、私は香奈。こっちは夫の智弘よ」


差し出された、すんなりとした白い手にドギマギした。続いて智弘さんも手を差し出した。こんがりと日焼けした顔は整っていて、将臣との血のつながりを感じさせた。だが、無表情な弟とは違い、こちらは感情豊かな人柄らしく、あたたかみのある笑顔が魅力的だった。


「由希です。初めまして」


智弘さんの手を軽く握り返しながら言った。香奈さんが興味津々に話しかけた。


「由希くんていうの? いくつ?」

「あ、えと、今年で17になります。高二です」

「将臣の一個下ね。部活の後輩とか?」

「違います。将臣先輩とは、その……」


おれはちらりと隣の将臣を盗み見てから、急いで言葉を繋いだ。


「同じクラスの友人を通して、親しくなったんです」


嘘ではない。悟を介して将臣と知り合ったのは事実だ。それだけの関係ではないというだけで。


「ふぅん」


香奈さんは信じていない目つきでおれと将臣を見比べた。おれは後ろめたい気持ちになった。


「挨拶が済んだのならさっさと飲み物を出してくれ。あと、食事も」


鬱陶しそうに片手をひらひらさせながら将臣が言った。香奈さんはギロリと将臣を睨めつけたが、おれに顔を向けたときは表情を一転させ、明るく話しかけた。


「飲み物は何が良い? なんでも良いわよ。ジュースでも、お酒でも」

「酒はダメだ」


間髪入れずに将臣が言った。眉を寄せ、不機嫌な表情をしている。

おれはむっとした。


「なんでそんなこと、あんたに言われなくちゃならないんだ」

「おまえは酒に強くないだろ」

「強くはないけど、飲めないってことは無いですよ」


実のところ、自分がどの程度酒に耐性があるのかわからなかった。本当のことを言えば、悟に連れて行かれた飲み会で飲んだのが初めてだ。高校生なんてそうそう酒を飲む機会などあるはずもない。

将臣の口元がくいっと上がった。


「ああ、飲めないってことは無いだろうよ。カルーアミルク一杯で前後不覚になるほど酔っ払っちまうのが『飲める』ってことになるのならな」


顔が熱く火照った。智弘さんと香奈さんが苦笑するのが見え、ますます恥ずかしくなった。


「……おれがどんなに酒が弱かろうが、そんなことは先輩には関係ないだろ!」


おれは歯を食いしばって言った。将臣はますます不愉快そうに顔を歪めた。

しばしの沈黙のあと、将臣は仕方がないと言わんばかりに肩を竦めた。智弘さんに、


「……適当に甘めのカクテルを。度数はできる限り抑えて」

「了解。おまえはいつものでいいのか?」

「ああ」


智弘さんは頷くと、棚に並んだリキュールの瓶からいくつか選んで、シェイカーに入れた。彼がシェイカーを振る姿は堂に入っていて、思わず見惚れた。


「いつものって、何?」


興味を惹かれてつい尋ねた。将臣はつまらなそうに


「ソルティドッグ」


と、答えた。ソルティドッグ。名前は聞いたことはあるが、飲んだことはない。


「どんな味がするの?」

「おまえはやめとけ」


将臣は言いながら、煙草に火をつけた。おれは面食らった。堂々と酒を飲もうとしているおれがいう資格も無いが、高校生のくせに煙草をふかすのはどうなんだろう。立派な校則違反だ。

おれの視線をどう受け止めたのか、将臣は僅かに眉根を寄せて、言い訳がましく言った。


「煙草だけはやめられねぇんだよ。もう癖になってる」

「高校生の分際でヘビースモーカーって、どうなんだ?」

「高校生の分際で酒を飲もうとしているヤツに言われたかねぇな」


それを言われてしまえば反論の余地などない。

不機嫌に黙り込んだおれの前に、すっと淡い色のカクテルが置かれた。顔を上げると、智弘さんが優しそうな顔でにっこり笑っていた。


「どうぞ。甘くて飲みやすいと思うよ」

「あ、ありがとうございます」


淡いオレンジ色をしたカクテルだった。こわごわ一口飲んでみる。甘酸っぱい、爽やかな味が口腔を満たした。後味もスッキリとしていて飲みやすい。おれはすぐに気に入った。


「これ、なんていうカクテルなんですか?」

「んー、名前は無いよ」

「え?」

「俺が今適当に作っただけの、いわばオリジナルカクテル。だから、名前はないんだ」


言い換えれば、即席で作ったカクテルということか。おれは驚嘆した。こんなに美味しいものを「適当に」作れてしまうなんて、すごい芸当だ。


「リキュールは度数の低いものを選んだし、飲みやすいように杏のフレーバーも入れてみたんだ。どう? 気に入った?」

「もちろんです」

「それは良かった」


智弘さんは感じよく頷いてから、おれの前にメニューを開いた。軽食のメニューがずらりと並んでいる。どれもこれも、酒のつまみにはぴったりだけど、食事って感じではなかった。

どれを選べばいいんだろう、と悩んでいると、将臣が勝手にメニューを閉じた。


「こいつにはオムライス、作ってやって。俺は本日のオススメ? ってヤツでいい」

「………オッケー。由希くん、ちょっと待っててね」


智弘さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐににっこり笑った。


「オムライスなんて、メニューにあったかな?」


おれはメニューをぱらぱらめくりながら首を傾げた。


「ねぇよ」


煙草の煙を吐き出して、将臣が気のない返事をした。


「ない?でも、作ってくれるって……」

「裏メニューってヤツだ。常連の客だけが特別に食べられるっていう、あれ」

「けどおれ、常連でも何でもないのに、そんなの食べてもいいのかな」

「兄貴の作る料理はどれもうまいけど、オムライスは格別だ。食って損は無いと思うぜ。それとも、オムライスは嫌いか?」

「ううん、そんなことは無いよ。だけど……」

「ならごちゃごちゃ言う必要はないだろ。大人しく食え」


傲慢に言い切り、彼は、まだ随分と長い煙草を灰皿に押し込んだ。

その様子をぼんやり眺めながら、彼はどうしてこの場所におれを連れてきたのだろうと考えた。おれとしては、将臣の家族の方たちとはなるべくかかわり合いになりたくなかった。断っておくが、それは智弘さんと香奈さんのせいではない。むしろ二人はとても良い人のように思えたし、親しくしてもらえたらそれこそ光栄というものだろう。だが、将臣とのただれた関係を考えれば、将臣の家族に近づくべきではないと思った。気まずいし、何より後ろめたい。

やがて開店時間になった。ぱらぱらとお客がやって来ては、顔見知りらしく、将臣に声をかけていく。おれはそんな彼の横でオムライスをスプーンでつつく。オムライスはとてもおいしかった。


「将臣が誰かといるなんて珍しいな」


モデル風の洒落た若い男が笑って声をかける。うるせぇ、と将臣が返す。みんながみんなおれを物珍しげに見るものだから、おれは場違いな気がした。

でも、この店のアットホームな空気は不思議とおれを安心させた。雰囲気は全然違うのに、母がママをしている店にいるような気分だった。自分のホームにいるような、そんな錯覚。

カクテルを三杯ほど飲んだところでとろとろと瞼が落ちた。体から力が抜けて、隣にあった、何かあたたかくてがっしりしたものに自然と寄りかかる。


「由希?」


大きな掌で肩を包まれたような気がしたのを最後に、おれの意識はぷっつりと途切れた。





「由希、将臣先輩と何かあったのか?」


翌週の金曜日。昼休みの教室で本を読んでいると、悟が出し抜けに尋ねた。狭い椅子の上で膝を抱えて、手には発売されたばかりの漫画雑誌を持っている。


「なにが?」


おれはあえてとぼけて見せた。しかし悟はそんなことはお見通しだとばかりに、しかめっ面をした。


「この一週間、ずっと将臣先輩を避けてるだろ」

「……別に、避けてなんか」

「無い、なんて言うなよ。先輩が来ると途端に黙り込むし、話しかけられてもろくすっぽ返事しないし。賢一先輩も気づいてるぞ。おまけに」


悟は雑誌を机の上に放り出し、重々しく告げた。


「将臣先輩の機嫌が過去最高に悪い。天井知らずだ」


これで決まりという言い方をした。おれは本に集中するふりを五分ほど続けたが、ついに悟の視線に根負けした。


「ちょっと気まずいだけだよ」

「喧嘩したのか?」

「まさか」


首を横に振り、窓越しに校庭を見下ろす。カンカン照りの陽光が降り注ぐ中、一周200mのトラックを陸上部の連中が走り回っている。今日は風もほとんど吹いておらず暑さもひとしおだというのに、よくやるものだと思った。


「訊かれたから白状するけど、おまえに譲ってもらったチケットで先輩と映画を見に行ったんだ。その帰りにその――なんというか、まぁ、酔いつぶれちゃって」

「なんだ、そんなことかよ」


悟は肩透かしを食らった顔をした。しかし、おれにしてみればとんだ赤っ恥もいいところの醜態だったのだ。

あの後、バーで酔いつぶれて眠ってしまったおれを将臣はわざわざ起こさずに自分のマンションに連れ帰ってくださった。おかげでおれは翌日のお昼すぎまで将臣のベッドで寝こけた挙句、二日酔いで学校を休むハメになった。将臣に「それみろ」と言わんばかりの態度を取られたことも羞恥を煽った一因だった。

その日以来、おれはろくすっぽ将臣と会話をしていなかった。自分でも器が小さいと思わざるを得ないが、たかだかカクテルの二、三杯で泥酔したという事実は非常にプライドが傷つく事案だったのだ。


「そんなつまんないことでヘソを曲げてるのかよ。おまえ意外に、というか、やっぱり繊細なんだな」

「はぁ? やっぱりって、どういう意味だよ」

「そのままだよ。顔と体型と同じように、心も線が細い。儚―いって感じ」


おれは怒って本を悟に向かって投げつけた。同学年の連中と比べて(ヘタをしたら年下のやつらより)未発達な体型は最大のコンプレックスだ。

頭にコブを作った悟は、嫌がるおれをバスケ部が練習している第二体育館に引っ張っていった。大会が近いとかで、この頃やたらと練習に熱が入っている。うちのバスケ部は都内でもなかなか強いらしい。いわゆる強豪校というやつだ。中でも、将臣と賢一先輩は優秀なプレイヤーらしく、ダブルエースとかなんとか呼ばれて女子に騒がれている。

体育館にはギャラリーがずらりと押しかけていた。大部分が、というより、ほぼほぼ女子生徒ばかりだ。スタメンに入れなかったらしいバスケ部員の連中が鬱屈とした表情で鼻の頭に皺を寄せている。おれは同情した。気持ちは非常によく分かる。


「やってるやってる」


だんまりを決め込むおれに構わず、悟は喜々として言った。ミニゲームの真っ最中らしい。将臣と賢一先輩は別チームのようだ。激しくボールが行き交う様は見ていてわけがわからなくなる。


「いいよなぁ、背が高いってさー」


悟が羨むように呟いた。ちょうど将臣がダンクを決めたところだった。


「おれもバスケ部、入りたかったなぁ」

「悟はわざわざバスケをやらなくても、スポーツならだいたい何でもできるじゃないか」


運動神経が人並み以下の身としては、口を挟まずにはいられなかった。悟はちょっと気をよくしたように鼻の頭を掻いた。


「そりゃそうだけどさー」

「……くそっ、なんか腹立つな」

「由希だって、縄跳びは得意じゃん。やたら」

「人生において縄跳びのスキルが役に立つ機会があると思うか?」

「ないねぇ」


今度は賢一先輩がレイアップを決めた。スコアを見ると、72対68となかなかの接戦のようだ。

ちなみに、おれはバスケットの知識は皆無に等しい。某有名バスケ漫画を読んだことはあるが、文字通り読んだだけでちっとも頭に入っていない(ちなみにおれが読んだのはごくごくまっとうなプレイヤーたちの熱血漫画であり、最近はやりの超次元バスケ漫画ではない)。

しかし、そのまるっきり素人のおれの目から見ても、うちのバスケ部の選手たちが優秀なプレイヤーであることは分かった。なにより、どの選手も心から楽しんでプレイしている。自分の運動神経の無さは重々承知だしもう諦めの境地に至っているが、それでも羨ましいという気持ちが湧き上がるのは禁じ得なかった。

ミニゲームは将臣のいるチームが勝った。珍しく笑って賢一先輩と何か話している。その目が、ふとおれを捉えた。一瞬で将臣の顔から笑みが消え、おれは慌てて視線を逸らした。


「よう、おまえら!」


群がる女子生徒を軽く制して、賢一先輩が明るく呼びかけた。まるで踵にバネがついているように景気よく床を蹴って走り寄ってくる。


「どうしたんだ? めったに練習を見に来たりしないのに」

「少し観戦したくなっただけっすよ。それより先輩、将臣先輩に負けちゃってましたねー。いつも、俺の方が上手い! とか言ってるのに」


悟がここぞとばかりにからかった。賢一先輩は気分を害した様子もなく、にこにこ笑いながらおれの頭をぐりぐりとかいぐりした。


「由希が見に来てくれるって知ってたらもっと頑張ったんだけどな! けど、試合になれば俺はもっとすごいぞ。本当だからな?」

「………まるでさっきは本気を出していなかったみたいな言い方じゃねぇか」


賢一先輩の後ろから将臣が唸り声を出した。これ以上ないってくらいの渋面だ。いつも将臣の傍をうろちょろしている女子生徒達も、瘴気のように不機嫌なオーラを撒き散らしている彼に話しかけるほど猛者では無いようだ。おれはますます顔を上げられなくなった。


「なんだよ、おい。勝ったっていうのに、やけにご機嫌斜めじゃんか」


賢一先輩が面白そうに言った。将臣はふん、と鼻を鳴らした。


「おまえら、何しに来たんだよ」

「や、ただ観に来ただけで……」


悟がたじたじと後ずさりした。肘でおれの横っ腹をつつく。どうにかしろ、ということらしい。しかしおれにだってどうしたら良いのかわからない。


「ほら、謝っちまえよ」


耳元で悟が囁いた。おれはちょっと顔を上げかけたが、すぐにまた俯いた。例えおれより勇敢な人間でも、将臣の竜の息の根さえも軽く止めそうな眼光には尻尾を巻いて逃げ出したことだろう。


「悟、もう行こうよ」


おれは悟のブレザーの裾を引っ張ってその場から立ち去ろうとした。しかし、大きな手がおれの肩を掴んで引き止めた。ふわりと、将臣の香水のかおりが鼻孔をくすぐった。


「部活が終わるまで待ってろ」


有無を言わせない口調だった。おれは躊躇ったが、肩にくい込む指の力の強さに負け、ギクシャクと縦に首を振った。

将臣は冷たい一瞥をおれに投げつけ、さっさと選手たちの元に戻っていった。


「あ、ちょっと待てよ!――二人共、また後でな」


おれと悟の頭を順に撫でてから賢一先輩も後に続いた。


「……なーんか、ケンカしたカップルみたいだな。おまえら」


悟がぽつりと要らんことを呟いた。おれは、悟の向こう脛を嫌というほど蹴って鬱憤を晴らした。




部活が終わったのは七時すぎだった。おれは校門の横に腰を下ろし、イヤホンで音楽を聞きながら将臣を待っていた。すっかり陽が落ちて、あたりは暗かった。生徒たちはほとんど帰ってしまったようで、人通りは少なかった。組んだ腕に頭を乗っけてぼんやり座り込むおれの姿はそうとう目立ったようで、見回りの教師に二回もはやく帰るよう注意された。

やがて女子生徒を数人周りに侍らせた将臣が足早にやって来た。女子生徒たちはぺちゃくちゃ声を上げながら、地球の周りをまわる衛星のように将臣にまとわりついていた。


「おい、行くぞ」


将臣はおれを強引に引きずりあげると、抗議の声を無視してずるずる引っ張った。おれは女子生徒たちの恨みつらみがこもった呪詛のような視線の集中砲火を浴びた。


「いい加減、手を離してくださいよ!」


万力のような力で手を握り締められ、おれは苦情の声を上げた。


「逃げないから!」


将臣はまるまる三十秒はおれを睨みつけてから、ようやく手を離した。

おれたちはしばらくどちらも口を開かなかった。おれはシャツの袖を無意味に引っ張ったりしながら、苦痛の沈黙をやり過ごした。繁華街はギラつくネオンで眩しいほどだった。水商売風の派手なカップルが楽しげに通り過ぎていく。淫靡な夜の匂いが立ち込める通りに、学生服を着たおれ達ははっきりと浮いていた。


「何が不満だったんだ」


出し抜けに将臣が言った。


「え?」


おれはぽかんとして彼を見上げた。その時の将臣の苦々しい表情と言ったら!凶悪犯を証拠不十分で放免しなければならない裁判官はきっとこんな顔をするに違いない。鋭く細められた目つきやぎゅっと引き結ばれた唇が、彼の心情をありありと物語っている。


「日曜日」


返事をしないおれに苛立ったように、将臣は剣呑に声を尖らせた。


「何か不満があったんだろう。兄貴が何か言ったのか? 香奈か? それとも……俺が、何かしたのか」


一言一言に、不本意だという気持ちが篭っている。おれはようやくそこで、彼が譲歩しようとしているのだということに気がついた。自分が悪いと明確に決まったわけでもないというのに。

将臣が譲歩! 将臣に最も似合わない単語だ。おれは途方に暮れた。


「不満なんて、そんなもの、無いよ」

「嘘だな」


将臣は容赦なく切って捨てた。


「不満が無いならあんな態度は取らないはずだ」


あんな態度、がいったい何を指しているのか、おれは頭を巡らせた。ろくに口を聞かなかったことだろうか、彼の顔を見ようとしなかったことだろうか、LINEが来ても無視したことだろうか………きっと、全部だ。

おれは突如、津波のような羞恥に襲われた。自分の振る舞いがいかに子供っぽいものだったのか、まざまざと突きつけられた気分だった。今すぐこの場から全力で逃げ出したい衝動に駆られた。


「ごめんなさい」


口早に呟いた。ローファーの爪先を睨みつけて、意地でも顔を上げまいとした。


「何に対しての『ごめんなさい』だ?」


一拍おいて、将臣が尋ね返した。その声にわずかな狼狽と恐れが混じっているように聞こえたのは、きっとおれの気のせいだろう。


「おれ、ただ、恥ずかしくて」

「恥ずかしい? なんのことだ」

「……先輩に注意されてたのに、酒飲んで、泥酔したから」


沈黙の妖精が一分ほどおれたちの周りを飛び回った。急激にボリュームが上げられたかのように周囲の喧騒が大きくなった。おれは歯を食いしばり、爪先を穴が開くほど凝視した。


「……そんなことかよ」


将臣が脱力の極みのごとき声で言った。ふっと、空気が柔らいだ。


「馬鹿馬鹿しいの一言だな」


すっかりいつもの傲慢さを取り戻して、将臣が鼻で笑った。むかっ腹が立ったが、言い訳のしようもなく、おれは足元の小石を思い切り蹴飛ばした。


「先輩にはわかりませんよ、酒にめちゃくちゃ弱い人間の気持ちなんて」


我知らず拗ねた口調になってしまった。将臣は喉の奥で笑い声を上げたが、その件に関しては何も言わなかった。ふと立ち止まり、腕時計を確認した。


「今更だけど、この時間まで帰らなくてもおまえの親は何も言わないのか?」


そういえば、といった風だった。眉を寄せて小難しい顔をする。おれは首を竦めた。


「本当に今更だな……。別に、何も言われませんよ。帰ってもどうせ誰もいないし」

「一人暮らしなのか?」

「いえ、母と二人暮らしです。でも……まぁ、母が家にいることはめったにないし、いても、おれが家にいるかどうかも頓着しない人なので」


将臣は問うようにまっすぐおれを見た。


「母は……つまり、あんまり子育てに興味がないタチで」


母の興味の対象はもっぱら男だ。面食いの気質もあるらしく、おれの「父親候補」はみんな美形ばかりだった。しかし生粋のダメ男好きらしく――古い言葉で言うところの、ダメンズウォーカーというやつだ――中身を伴うカレシをおれは見たことがない。

母の好きなタイプはとてもわかりやすい。一言で説明できる。ズバリ、ホスト系だ。顔が良くて、スタイルも良くて、女の扱いがわかっていて、たまに母性をくすぐる弱さを見せるような、そんな男。

こうして上げ連ねてみれば、とてもひどい母親のように聞こえるけれど、おれは決して母のことが嫌いではなかった。良い母親じゃないかもしれないが、だからといって、疎んずる気持ちにはなれない。ダメな人だなぁと呆れつつも、いつまでも少女のような母を、憎むことはできなかった。


「今夜、帰っても母親はいないのか」


将臣が尋ねる。おれは返事の代わりに小さく笑った。

将臣はおれの手を掴んだ。そのまま黙って歩き出す。おれの家とは反対方向だ。付け加えるならば、将臣のマンションがある方向だ。

彼のマンションのエレベーターの中で抱きしめられ、強引にキスをされたとき、恋人でもない男の口づけに応じながら、おれは確かに母の血が自分にも流れている事実を認めないわけにはいかなかった。


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