芸術家
「お届け物ですー!」
僕が無言でドアを開けると、宅配便の兄ちゃんがいた。
僕は顔を見ることなく、荷物を受け取る。
「サインお願いします。」
無言で差し出された紙に名前を書く。
「ありがとーっしたー!」
荷物は…僕の嫌いなおばさんからだった。
そういえばあのばあさん、絵具を送るとか言ってたな。
「はあ…めんどくさい。」
僕はため息をついて…ドアを閉めた。
僕は孤独な芸術家をしている。
現代美術アーティストを目指して20年目、年に何度か個展を開きつつ一躍有名になる日を夢見ている。
食うために描きたくないイラストを描いて小銭を稼いでいるが、その時間が必要になるせいで自分の描きたい絵が描けず、いつまでたっても貧しい生活から抜け出すことができない。
本来であれば、僕はキャンバスに絵の具を塗りつけて世界を表現するタイプなのだが、時代の流れでデジタル作品も手掛けるようになった。大学ではデジタルなんか教えてくれなかった時代だ。全部自己流で、テクニックを身に付けた。だが、所詮自己流。デッサンとデザイン、構図、センスにには自信があるが、どうしても納得のいく塗りができない。
小さな苛立ちが、僕を蝕んでゆく。
色が僕の思うように踊らない。
色が僕をあざ笑う。
色が僕を置き去りにする。
日々の小銭稼ぎに必死になって、自分の描きたい絵が描けない。
日々の小銭稼ぎがうまくいかなくなって、自分の描きたい絵を描く時間が取れない。
日々の小銭稼ぎをする気力がなくなって、自分の描きたい絵を描く道具すら買えなくなった。
絵具が無いから描けないとばばあに愚痴ったら、ご丁寧に絵の具を送ってきた。
箱を置けると、絵の具のチューブが12本。
なんでこんな色送りつけてくるんだろう、相変わらず色選びのセンスがないな。
…まあ、タダだしもらっといてやるか。
僕は段ボールを持って、キャンバスの前に向かった。
僕の目の前には、色の入っていない線画が一枚。
表面にうっすらとほこりがかぶっている。
もうずっと、色を乗せることをあきらめていた。
この絵は、ただ線画が完成したそれだけで十分じゃないか、そう思い始めていた。
色をのせなくても、こんなにできの良い作品じゃないか。
このキャンバスに線を乗せきることができた、その喜びにだけ、浸り続けていたのだが。
…絵具もらったからな、色をのせないとまずいかな。
…めんどくせえな。
でも、色をのせないと、あのババアが江口さんに告げ口するかも知らないからな。
まったくめんどくせえことばかり持ち込むんだよ、あのクソババアはさ。
思えば、あのババアと出会ったのは本当に災難だった。
エロ雑誌の立ち上げの時に打ち合わせで印刷会社に行ったら、クソへたくそな絵を描くババアがいてさ。
こんなんで金取るのかよってくらいのレベルの絵をいかに褒めたらいいのか、知恵を絞りに絞って盛り上げてやったんだよ。あっちは僕の絵を見て相当感動したらしくて、終始べた褒めしてくるんだけど…うっとおしいのなんのって。
食うために仕方なく美少女描いてるって言ったら、現代アートも見たいなんて言うから見せてやったら騒ぐ騒ぐ。あれからずいぶん経つが、やれ新作は描けたのか、早く色が入ったところが見たい、会わせたいイラストレーターがいる、イベントで絵を描いてみないか、本当に…癪に障る。
僕は僕のタイミングで、僕が描きたいと思うときに描きたいものを描きたいんだ。
食うために仕方なくエロい絵を描いてやってるけど、本当だったらこんな小銭稼ぎじゃなくて…未完成の絵に金をじゃぶじゃぶつぎ込めるような、完成するのを待ちわびる金持ちのパトロンがいていいはずなんだ。貢がれた金で暮らすべきなんだ。簡単なデッサン、適当な線画、そこに僕が気が向いたときに色を入れてやる、その色の入る瞬間をただひたすらに待ち続けるような、余裕のある金持ちがいつまでたっても僕の前に現れないのが問題なんだ。
へたくそな同業者なんか知り合う必要もない。僕のレベルが下がったら困る。僕の作風がパクられたら困る。人付き合いなんか必要ないのに、ババアがどんどん僕の領域に踏み込んでくる。おせっかいも甚だしい。人の生きる道筋に遠慮なくずかずか踏み込んでくる図々しいババアは、本当にどうしようもない。
…くさくさする。
ゲームでもするか。
僕は最近ハマっているゲームを起動して、明け方まで楽しんだ後、カップ麺を食べて寝た。
目が覚めて、スマホをチェックする。
…DMは無しか。最近はなかなか飛び込みの仕事がやってこない。一時期は僕の絵を求めるやつらが殺到したもんだが、今はデジタル主流だからか、ずいぶん肩身が狭くなった。
今だったら時間も余裕があるし、まあまあ手の込んだ絵を描いてやってもいいんだけど、タイミングが合わないな、腹立たしい。
イライラしながら、ツイッターを開く。
今月発売のエロ雑誌のイラストの線画のいいねとリツイートの数が伸びていない。全然拡散していかない現実に、また苛立ちを覚える。
…ババアのツイッターは最近おとなしいな。
先週これ見よがしのリア充ショット連投しててむかついたけど、おとなしくしてりゃそれほど気にならない。ババアのはしゃいだツイートなんか何度も見たくないんだ、こっちは。
ま、とはいえ心証が悪くなるのもまずいからな、DMで絵具のお礼を言っておこう。
僕がDMを送った瞬間、着信が入った。…江口さんか。
「はい…おはようございます。」
「おい!!締め切りもう過ぎてんだぞ!!どうなってるんだ!!!」
ああ、しまった。気がのらなくてほったらかしてたやつだ。
「すみません、どうしてもあごの角度が気に入らなくて。もう少し待っていただけないでしょうか、申し訳ないです。」
「あのなあ!!!締め切りを守ることも原稿料に入ってるってわかってんの?プロとして最低限のマナーってもんがあるだろう!!!お前の納得する絵をこっちは求めてないんだ!!!ラフのOKが出たら、それを期限内に仕上げて渡す、それができないのは困る!!!」
めんどくさいこと言うなあ…僕の絵ありきのエロ雑誌なのに、よくこんな強気発言できるな。印刷所なんかさあ、ちょっとぐらい締め切り遅れても徹夜で刷ればなんとかなるだろ。同人誌の印刷所の超特急便とか知らねえのかな、このおっさん。
「ご迷惑をおかけします…言い訳するようでホント申し訳ないんですけど、やっぱりデジタル塗って難しくて。筆ならできるグラデーションが、どうしても決まらなくて。あと塗るだけなんで、今日中には、なんとか。」
「絶対だな!!!今日中に来なかったら、来月からもう依頼しないからな!!!」
ふん。そんなこと言っって脅してるつもりかもしれんがな、どうせほかに絵師もいないんだ。江口さんは僕を頼るしかない。あの雑誌に僕以上の絵師は存在していない。
「わかりました、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。」
「頼んだぞ!!!」
…めんどくせえなあ。適当に色付けて流すか。
いつもだったらエロイラストの依頼が来る時期になっても、僕のもとに電話が来ない。
…もう15日だぞ、今からラフおこししても月末の納品に間に合わなくなるじゃないか。どっかのへたくそな絵師と違って僕の絵はラフ出しに一週間は欲しいし、線画出しにも一週間無いと困る。色を付けなくてもいいならなんとかなるか、もしかしたら今月はモノクロにするつもりなのかもしれない、一応確認しておくか。
「もしもし、江口さんですか。今月のイラストなんですけど。」
「…ああ、今月はもう決まったからいいわ。また依頼あったら連絡する!ごめん、今ちょっと打ち合わせ中!」
今月はいい…?
「えっと、良いんですか?」
「ごめん、またあとで電話するわ!」
忙しそうな江口さんは、電話を切ってしまった。
「え、それは、どういうことです?」
「今月から絵師が変わることになった、つまり君にはもう依頼しないってことだ。…さっきもらった絵が来てるんだ、次に描いてくれるイラストレーターさんはね、筆が早いんだよ。」
毎月5枚描いていたイラストの仕事が…なくなる?!まさか、そんな!!!
「でも、連載だったじゃないですか?イラストレーターが変わると、読者の皆さんも面食らうと思いますよ、今から描きますよ。」
「もう色まで入って上がってきてるんだ。絵柄は…そこまで読者が驚くほど変わるとは思っていない。今から送るから、見てみろ。大人しめの線は、よく似てると思っているんだ。」
パソコンのメールを開くと、へたくそなイラストが…送られてきた。うまく描けない部分をぬいぐるみで隠すような構図が…僕と変わらないだと?!デッサンの狂ってる、あり得ない筋肉、あり得ない骨、あり得ない髪の流れありえないポーズ、あり得ない体型が僕の絵に似ているだと?!
「今からでも描けますよ、もう少し繊細な線と奥行きのある構図の方が読者さんも引き込まれるんじゃないでしょうか。」
「あのなあ、君の締め切り破りのひどさ、俺は良く知ってんだよ。今からなんて絶対無理だろう。先月だって、あれほど遅れるなって言ったのに結局日付跨いで朝十時納品だったのおぼえてる?」
電話がかかってきたのが朝11時だったんだから、日を跨いだとは言わないだろ。まあ、でも…江口さんの言い分に同意しておかないとまずいよな。
「すみませんでした、でも…。」
ああ、なんて言おう、不満が口から飛び出しそうだ。もっと金積めば急いでやるよとかポロっと口走りそうで怖いな。
「とにかく、今月は…依頼はしない。また依頼することがあれば連絡するから。」
言いたいことはたくさんある。だが、ここで感情をぶつけて心証を悪くしては…今後の人間関係に支障が出る!僕は、人当たりの良さには、定評が、あるんだ。…ここはいったん、引いておこう。
「わかりました、またお願いします。」
毎月連載していた絵の仕事がなくなった。
毎月の入金が、なくなる。
単発の仕事にかける。
あまり変わり映えしない発注数に、気力がなくなっていく。
貯金は、ない。
単発の仕事をだらだらとこなしながら、金策に走る。
フリマサイトに、自分の描いた絵を出す。
まったく売れない。
単発の仕事の数が減ってきた。
金が足りなくなってきた。
手あたり次第に、換金を始めた。
売れるのは、未使用のキャンバスとイラストボードと画材のみだ。
ババアの送ってきた絵具は1800円にしかならなかった。
現代美術ではないイラストを描いてフリマサイトに出した。
僕の描いた直筆イラストは、二束三文で売れた。
二束三文のエロイラストを描いて売って、生活をする。
ぎりぎりの生活が続く。
公園の片隅で、自分の描いた絵を売った。
個展で10万の値札を下げた絵を、十分の一以下の値段で手放した。
僕の部屋の中から、僕の描いた絵が一枚もなくなった。
僕の描く絵が古臭いと言われるようになった。
フリマサイトにイラストを出品しても、飛ぶように売れなくなった。
売れ残る自分のイラストを見るのがつらくなり、出品することをやめた。
売れるものがほとんどない。
古い液晶タブレットを二束三文で売った。
古いスキャナーを二束三文で売った。
古いペンタブを二束三文で売った。
車を二束三文で売った。
いよいよ売れるものがなくなって、僕はハローワークに向かった。
年齢がネックになって、なかなか仕事が見つからない。
就職歴がないのがネックになって、なかなか仕事が見つからない。
イラスト作成の仕事について、作業に時間がかかり過ぎると言われて首になった。
警備の仕事について、体力がなくて倒れてやめた。
清掃の仕事について、掃除がへたくそだと言われて首になった。
介護の仕事について、ぎっくり腰になって動けなくなりやめた。
食品工場に入って、ようやく仕事に慣れてきたころ、右肩を壊した。
スピードを要するケースの入れ替え作業は、僕の肩をいつの間にか蝕んでいたのだ。
右腕をあげることが難しくなった。
また仕事をやめることになるのかと思ったが、部所を変更してもらえたので助かった。
右腕をあげなくてもいい、製造ラインに入った。
別に大したことはないと思っていた。
右腕をあげる事なんて、日常生活ではそんなにないと思っていた。
ある日、有休をもらったので、久しぶりに絵を描いてみようと思った。
時間はある、力の入ったエロイラストを描いて一儲けしようと考えたのだ。
久しぶりにイラストボードを買い、アクリル絵の具を買いそろえる。
僕の手描きイラスト、しかもカラー、渾身のデザインと構図でオークションサイトに再び降臨して賑わせてやるつもりだった。
だが。
手が震えて、線が、描けない。
思うように線が引けない。
思うように真っ直ぐな線が引けない。
思うように魅力のあるキャラクターが描けない。
僕は、絵が、描けなくなってしまったのだ。
描きたいときに、描きたい絵を、描くと決めていた僕は。
描きたいと思ったときに、描きたい絵が、描けなくなっていた。
僕はもう、絵が、描けない、ただの、人になってしまったのだ。
僕は買ったばかりのアクリル絵の具を二束三文で売り払い、ぐちゃぐちゃに線の描きこまれたイラストボードを真っ二つに折って、ゴミの日に捨てた。
僕は、今日も真面目に、仕事に、向かう。
痛む腰をさすりながら、椅子に座って、ラインの仕事をこなす。
高いところに手を伸ばせない右腕を伸ばして、ラインの仕事をこなす。
昼休憩の時間、同僚が連絡用ホワイトボードの隅に絵を描いて遊んでいた。
ああ、アニメのキャラクターを描いているのか。
へたくそだな。
休憩時間が終わろうというとき、同僚は皆食堂から出ていった。
周りに誰もいない。
僕は、へたくそな絵の横に、上手にアニメのキャラクターの絵を描いた。
右腕が上がらなくても、下の方に描けば、大丈夫。
多少線が震えても、デッサンがしっかりしていれば、大丈夫。
僕は満足して、食堂を後にした。
次の日、食堂に向かうと、僕の絵はまだ残っていた。
絵の横に、「うまい!!」の文字。
夜勤の人が描きこんだのだろうか、やけにへたくそな絵が増えている。
食堂で、同僚たちがこの絵を描いたのは誰だろうと話している。
優越感に浸る、僕。
そこに、所長がやってきた。
「ここは連絡事項をかく場所です。落書きは禁止、いいですね。」
僕の絵は、へたくそな落書きとともに、一瞬で、消された。
僕の絵が、躊躇することなく、何のためらいもなく、消されたのだ。
ああ、そうか。
僕はもう、絵描きでは、ないのだ。
僕はもう、ただの一般社員なんだ。
今日も僕は、誰も待っていない、冷たいアパートの一室に帰る。
季節は冬、仕事の終わる5時には、もう真っ暗だ。
鍵を開けて入る自分の部屋は、真っ暗だ。
電気をつけて、明るくなった自分の部屋には、何もない。
かつてあった、キャンバスも、絵の具も、パソコン周辺機器も、雑誌も、テレビも、棚も、作品も、イラストレーターだった証拠も、画家を目指していた証拠も、夢も、希望も、やりたいことも、何かを考える心も、生きる意味も、何も、ない。
なにも、ないけれども。
僕の腹は減っている。
僕の手には、カップ麺が一つ。
コンビニでお湯を入れてきたから、今が、食べごろだ。
僕には、食欲を満たしてくれる、カップ麺が、ある。
何一つ持ち合わせていない、すっからかんの僕を満たしてくれる、唯一の、存在。
僕は冷たいこたつの中に足を入れ、スイッチを入れると、手を合わせた。
「いただきます。」
勢いよく麺をすすりあげた僕は、盛大にむせこんでしまい…。
むせこんで、しまい…。
あれ、どうしたんだろう。
右腕が、動かない?
体が、動かない?
僕は、そのまま…倒れて。
二度と、起き上がることは、なかった。