田にし
「ああ、疲れた。旦那の碁の相手もこう毎晩ではやりきれないな」
最初はしどろもどろに言った嘘も毎晩になると、罪の意識が薄れて当たり前のようになってくる。おたねの方も、それに慣れてしまって、
「どうしたの」
とか、
「心配してたのに」
とも言わなくなった。夫は遅く帰るものと思っているらしく、火鉢に薬罐をかけておいて、吉三の顔を見るとすぐに茶をいれた。六畳一間の家だ。夫婦の床が敷いてあって、枕元には仕立物の縮緬が派手な色を見せてひろがっている。おたねが縫いかけの針を抜いて、八分通り仕上がっている着物を片寄せるのを、吉三は冷たい目で見ていた。
ふん、亭主が帰って来たって座る場所もないじゃあないか。こんなことならもうも少しお吟のところにいてやるのだった。
「ねえ、まだ来たばかりじゃあないの。帰る帰るって、あんた、おかみさんがそんなに怖いのかい。ええ、いいよ、帰っとくれ、帰れ、帰れったら」
拗ねて泣いてみせるお吟を宥めながら、こうしている間にも、おたねが疑いはしないか、小吉が泣いていないかと気もそぞろに半里の道をとぶように帰ってきたのだが、戸口をまたいで、針仕事をしているおたねを見た途端、息せききって帰ってきたのが馬鹿馬鹿しくなり、こんな女に気がねしている自分にも腹がたってきた。
「いい加減にしろ。食うに困るわけでもないのに、よその物まで縫えと誰が言った。甲斐性のない亭主だとおれが世間の笑い者になるのがわからんのか」
おたねはみるみる泣きだしそうな顔になって、 御免なさいと、かすかに言った。 「この着物は明日の朝、着ていくのですって。 もう少しだから待って下さい。大急ぎで縫ってしまうから」
はなをすすって、おたねは帯の間からちり紙を出してはなをかんだ。
吉三は舌打ちをした。お吟への未練が形を変えておたねに当たってしまうのだが、その後気まずい思いをするのは自分だ。うつむいてせっせと針を運んでいるおたねには梃でも動かぬ強さがある。亭主という武器をふりかざして喚いている自分を意識すると、何ともやりきれない惨めな気分だ。まだ湯気の立っている茶に見向きもせず吉三は帯をといた。おたねの布団をのぞくと、五か月になる小吉が無心に眠っている。可愛い寝顔に救われた心地がして、頬をつっついてみた。柔らかい感触と甘い乳の香がいらだった心を和ませた。
「それはそうと、なあ、おたね」
自分でも思い掛けぬやさしい声でおたねを振り向いて、吉三は苦笑した。おたねはきょとんと顔をあげて、夫と目があうと赤くなって下を向いた。恥ずかしいのか、やたらにおくれ毛をかきあげた。
油でもつければいいのに、どうしてこんなだ ろうと、吉三は思う。よく見れば鼻筋の通った、いい顔立ちなのに色が黒い上、面倒なのか化粧もろくにしたことはない。
「あの反物はどうしたんだ。早く縫って着ろ」
もう十日ばかり前、織り元から届けられた紬の中に織りむらが二反あった。吉三は女房と田舎の妹にやるのだと言って、安く譲ってもらい、お吟に一反、地味の方をおたねに持って帰った。お吟は、嬉しい、嬉しいと手放しで喜んだのに、おたねは迷惑そうな顔をして、
「こんな高価なものをもったいない。お店に返して下さいよ」
と手を出さなかった。これがお吟ならば、
「まあ、そう言うな。折角買ってやったんじゃあないか、ちょっと肩にかけてみろ」
というところだが、相手がおたねだと、どうして気にさわるのだろう。
「いらなきゃあよせ」
と部屋の隅に投げてしまった。それでも次の夜、帰ってきたら、おたねはその袖を広げて物しを当てていた。
......それみろ、はじめから素直に有り難うと言やあいいものを......
吉三は内心にやりとした。仕事の早いおたねのことだ。次の日にはもう仕上げている筈なのに、相変わらず洗いざらしの縞木綿の着物に前掛けを結んでいる。
「あの紬はもう仕上がっているだろう。どうして着ないのだ。」
「ええ、でもあんまりいい物だからもったいなくて」
おたねは吉三の顔色をみながらおずおずと、
「秋の祭りに実家へ行かせてもろう時、着ようと思って」
「そん時はまた買ってやらあ」
「だって絹物を普段に着ては冥利が悪いから」
遠慮そうに言うが、決して譲らぬ顔つきだ。かすかに湧きかけた優しい気持ちがふっと切れて、おたねの黒い顔が醜く見えた。こんな女と一生を共に暮すのかとげっそりして、吉三は背を向けたまま床にもぐりこんだ。
布団を引きかぶって寝てしまった吉三に、おたねは唇を噛んだ。襟をつかんで引き起してやりたいと思いながらも、指は休みなく針を運んでいる。ちくちく動く針の先を見つめながらおたねは声に出せない怒りに胸が張り裂けそうになってくる、
......あんたのお給金を考えてごらんなさい。いくら呉服屋の番頭だって、女房が絹物を着て通れると思っているの。小吉のためにお金をためる気にはならないの。でもいくら言ったって駄目。あんたとあたしは住んでいる世界が違うんだから......
「おたね、どうしたえ、お前が好きだから、女衆が朝から大いそがしで鮨をつけたのに、えらくおとなしいな」
「さっきから食べてるよ。とてもおいしいよ。兄さん」
口では言うものの、田舎の太い巻き鮨を、おたねはもてあましていた。胸の中に固くしこっているものがある。それが口まで出かかってい て言葉にならないのだ。 「兄さん、わたしは吉三と別れてこの家に帰っ てきたい」
たったそれだけのことなのに、言ってしまったあとが恐ろしくて、今度こそ言おう、今度は言おうと、幾度も唾をのみこみながら、兄夫婦の顔色ばかり伺っていた。あの女のことなど聞くのではなかったと思う。
「いちゃいちゃして、とても見ちゃあいられないとさ、しっかしおしよ、おたねさん」
近所のおかみさんに背中をたたかれ、膝がが くがくふるえたのが忘れられない。その時から嫉妬の苦しさを知った。何をするのもいやで、ぼんやり座ってただ泣いていた。小吉に乳を吸われ、おしめを洗うのさえ物憂く、情けなかった。そのくせ吉三には何も言えなかった。
「いやなら出ていけ」
と言われそうな気がしてそれが怖くて身内を焼かれるような苦しみに耐えていたのだ。
「でももう我慢できない。兄さん、わたしをここに置いてください」
心の中で幾度か叫んだが、仲のよい兄夫婦を見ている、どう説明したらこの苦しみが兄達にわかってもらえるのか、おぼつかなくて、口まで出かかってはためらうのだった。
「おたねさん、元気がないけど、また、あとがきたんじゃあない」
兄嫁がにやにやしながら言う。小吉ももう七ヶ月だったね。早い人は半年くらいで、あとがあるって言うよ」
おたねは黙って首を振った。顔がゆがんで涙がこぼれそうになるのをこらえていた。母が生きていてくれたらと思う。毎夜、背を向けて寝る夫のことを話せただろうに。実家へ帰っても 心を固く閉ざしている自分が哀れだった。
「今年もつぼを持っていってやるぞ」
兄の言葉におたねははっとした。秋の田に蓋を固く閉じてころがっている汚い田にしが、今の自分の姿に重なった。
「器量は悪いし、強情で、一生の不作だ」
いつか言い争いをした時、吉三が言った。それが悔しく身にしみて覚えていたが、やっぱりわたしは田にしのような女だろうか。町に嫁に行くのではなかった。最初から間違っていた。
「兄さん」
さりげなく、おたねは切り出した。
「わたしがいないと困るでしょう。農のさかりに手が足りなくて」
「仕方がないから、人を頼むさ」
兄の言葉に兄嫁が被せるように、
「心配したこたあないよ。あんたが居る時あ、まだ役にたたなんだ子供達も、今年あたりぼちぼち人並みの仕事をするからね」
兄嫁は何気なく言ったのだろうが、
「そう、よかった。わたしも安心した」
おたねは寒寒しい風が身の回りを吹き抜けていくのを感じて、腕の中の小吉を強く抱きしめた。この家にもう自分の居場所のないことを悟らないればならなかった。
「どうだい、鎮守様へお参りに行かんか。小吉はおれが抱いてってやろう」
兄に従って立ち上がりながら、おたねは日の暮れぬうちに帰ろうと思った。角帯に前掛けを結んで出ていった今朝の吉三がとても気になっ た。泣いても悶えても、憎悪はまだ見たこともない若い女に向けられて、吉三が恋しいのはどうしてだろう。早く帰ろう。帰ってあの人を待っていよう。
一年も前から楽しみにしていた村祭りだった。秋のすがすがしい空気をふるわせて村中に鳴り渡る太鼓の音がなつかしく、涙ぐんだことさえあるのに、今日は何の感慨もおこらない、おたねの耳には、ただ、単調な響きとしか聞こえない。かえって帰りたいと思う心を急かされるようだ。
空は青く眩しく晴れて、おたねの嫁入りの日と同じような巻き雲が軽やかに浮かんでいた。