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◆◇◆
冬の気配をかすかに帯びた風が落ち葉を踏み荒らすようになった季節の、ある日──その公園にはひとりの少女しかいなかった。
砂場で何かを作るでもなくただ砂の山を積み上げているだけの幼い少女。
四、五歳くらいだろうか。紫紺の仄かな煌めきを宿した紫黒色の長い髪をゆるく太い三つ編みにしておさげにしており、その髪と同じ紫黒色の虹彩は太陽光を受けて宝石のような輝きを見せている。
「♪ ♪ ♪」
楽しげにリズムを口ずさみながら砂を両手ですくっては砂山のてっぺんに落としているその少女以外に、公園に人の気配はない。
少女はひたすら砂をすくい上げては砂山にかけ、時折固めるように砂山を叩いてはまた砂をかけていく。この年頃の幼子というのはただ砂山を作るだけの作業でも、自分だけの宮殿を創り上げているかのような壮大さをその瞳に宿している。まるでそれが使命なのだと言わんばかりに砂山を高く高く、より高く築き上げることに熱中するのだ。
けれどそんな少女はふと、自分の築き上げた砂山に薄い霜が載っていることに気付いて首を傾げる。確かに冬がそろそろ訪れる季節ではあるが、霜が降り積もるほどではないはずだ。少女が不思議そうに砂山に薄く張り付いている霜に触れ、指先でじゅわりと融けて消える刹那ほどの冷たい感触にまた首を傾げた。
──その、時であった。
「■■■■■■」
「え?」
不協和音。
金属と金属が擦れ合うような。
硝子と硝子がかち合うような。
布地と布地が滑り合うような。
水滴と水滴が弾け合うような。
聞いていて不快になるような。
聞いていて心落ち着くような。
両極端を凝縮し圧縮しきった。
定まることのない不安定な音。
いびつで歪んだ声。不協和音。
──それが、霜とともに降り立った。
「■■■■■■」
ゆらり、ゆらりと体をゆらめかせながら少女に近付いてくるそれは、血まみれであった。
「あ……」
少女は怯えたように顔を蒼褪めさせて一歩、後ずさろうとした。けれどいつの間にか足元にも降り積もっていた霜で足を滑らせ、少女はその場に尻餅をついてしまう。
そうしている間にも、それは近付いてくる。
「■■■■■■」
それは、人ではなかった。
血濡れたように赤い髪を血のドレスのようにずるずると引き摺っており、その頭部からは二本の血濡れた角が生えていて、片方は折れている。ひどく傷ついているようで全身から血が涙のように溢れ出ていて、それが一歩、足を踏み出すたびに地面が血の泉と化す。血に彩られた傷だらけの顔は真っ二つになってしまっているのかと見間違うほどに大きく裂けた口があって、そこからは赤黒く汚れた何十本もの牙が覗いていた。目は汚泥を煮詰めた鍋に紅く熟れた林檎を浮かべたかのように黒く濁った眼球に紅蓮の瞳が揺らめいている。
顔だけだと血まみれであることもあって性別が分かりづらいが、ほっそりとした体躯に豊かな乳房が載っているところをみるに、女性──なのだろう。確信が持てぬのはその体躯があまりにも傷付いているからか。肩から乳房の中央部を通って腹部の半ばまでぱっくりと裂けていて、それが動くたびにずれては血を零し、けれど完全に剥離することはなく未だかろうじて繋がっている。それだけでも何故生きているのか分からぬというのにそれには他にも数多の傷があった。
「■■■■■■」
ずる、ずるり。
ごぼり、ごぼり。
べちゃ、べちゃり。
それは血を引き摺り、肉体を引き摺り、少女に近付いていく。
「あ……あ……」
少女は、動けない。
立ち上がろうにも腰が抜けてしまったのか少女の足は滑るように地を這うだけであった。紫黒色の目はそれを凝視したまま恐怖で凍り付いていて、青紫色に染まってしまった唇も小刻みに震えている。気付けば、いつの間にか少女の体にも霜が積もっていた。肌の上に積もった霜は融けて消えているが、髪や服に載った霜は消えることなく少女を白く彩ろうとしている。
この冷気は、それが出所なのだろうか。
それが少女に近付くにつれて少女に降り積もる霜は濃くなっていき、気温もどんどん下がっているようであった。
「■■■■■■」
とうとう、少女の目の前にそれが立った。
ほとんど裂けてしまっている胴体を器用に折り曲げてその顔を少女の真上に持っていく。その拍子にぼたりぼたりと血が滴り落ちて少女の白い肌を赤く彩った。
少女はもはや恐怖で、声も出ない状態であった。
「■■■■■■」
す、とそれの腕が少女に伸びる。
赤黒い血に濡れた長くおぞましい爪が少女の頭に触れて、少女の体がびくっと一際大きく震える。
にたりと、それが嗤う。
「■■」
どくんと、大気が脈打つ。
少女の心臓も同時に大きく脈打ち、少女の小さな口から苦痛の悲鳴が零れる。どくどくと全身の血流がポンプで圧し出されたかのように迸り、心臓が灼熱の紅焔に焼かれているが如きの激痛を覚えて少女はのたうち回ろうと腕を振り上げようとする。けれどその腕は、動かない。
少女の頭にそっと添えられているそれの赤黒い爪がそうさせているのだろうか──少女の体は凍り付いたように、動かなかった。
きぃぃ、と空気が凍って張り詰めていくような音が響く。──かと思えば次の瞬間にはそれの背後に巨大な魔法陣が構築されていた。
それはちょっとした天体図のようになっていて、何重にも描かれている正円の線上を小ぶりな魔法陣が滑るように移動していた。雲ひとつない青空に染みを滲ませゆくように広がっているその夕陽色の魔法陣はやがて数字の八の字に小さな魔法陣が並んで停止する。
「■■■■■■」
その不協和音を最後に──最期に、魔法陣が集束して一本の禍々しい槍を模った。それの背後に浮かぶその槍はやがて──
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
それの胸ごと、少女の胸を貫いた。
少女は絶叫する。激痛なんてものではなかった。死ぬなんてレベルでもなかった。幼い少女が苦痛に喘ぐ間も助けを求める間もなく即座に〝死にたい〟と願うほどの、痛みという痛みを凝縮しきった痛みであった。
けれど槍は止まらない。止まらなかった。ずぶりずぶりとどんどん少女の小さな体の中にその身を沈めていく。少女の胸から血は溢れ出ているし、めりめりという槍が肉と骨を裂いていく音もする。だが、槍が少女の体を貫通することはなかった。
不思議なことに──槍は少女の体内に、どんどん呑み込まれていっていた。
少女は絶叫する。
ひたすら、絶叫する。
絶叫して、絶叫して、絶叫する。
だが少女とともに貫かれたはずのそれは胸に槍が突き刺さっているにも関わらず苦痛に喘ぐ様子はなく、それどころか──嗤っていた。
嘲り、嗤っていた。
そして槍がそれを貫通しきり、全て少女の体内に収まり切った時──それは、融けるように血だまりの中に倒れ伏して、死んだ。
死んだ。
死んだ。
それは、死んだ。
「げほっ……がふっ……おえぇっ」
槍を全てその身に呑み込み切ると同時に体が動くようになったらしい少女は胸を押さえて何度も嘔吐し、吐血する。
──そうして気付けば、それごとそこから血だまりは消えていた。
まるで泡沫のように。
ただ少女の胸から零れ落ちる血と、地面に降り積もった霜だけが先ほどまでの出来事は夢でないということを、示していた。
「言継!?」
少女と、霜と、少女から零れ落ちる胃液と血とが作り出している異質な空気を切り裂くようにあどけなさから抜けきったばかりであろう少年の声が響いた。
言継、とまた声がして少女のもとにひとりの少年が駆け寄ってくる。少女と同じ紫黒色の髪をざんばらに切り揃えている中高生くらいの少年であった。言継、と少年の口がまたその単語を口にする。
その呼び掛けに地面に蹲っていた少女はゆるりと顔を上げる。
その顔には、嘲笑が貼り付いていた。
吐血したせいで赤黒く汚れてしまった唇で──少女は、嗤っていた。
「言継?」
「──ひどいぶさいく。あめでどろどろになったピエロでももっとかっこいいわ」
少女は、嘲る。
──この日、少女は魔女となった。
──それを公園の繁みの中から、言継たちは眺める。
「──なに……これ……」
「見て分かりません? わたくしがわたくしに継承しましたの」
カレンの震える声に対して言継が嘲るように返した。カレンはぎゅっと未だ握っている言継の腕をより強く、よりきつく握り締める。
「これで──全て終わったわけですわね。あの魔女は」
言継はそう言いながら紫色の魔法陣を展開し、自分たちの体を包み込む。
「十六年程度であればわたくしでも問題なく時間軸移動できますわ。──それも織り込み済みの上での、この循環なのでしょうね」
嘲りの魔女。
言葉の魔女。
継承の魔女。
集束の魔女。
終息の魔女。
永遠の魔女。
循環の魔女。
──その全てが正しく、言継のことを形容していたのだ。
一体何がきっかけでその〝ループ〟が始まったのかは分からないが──何にせよ、言継は自らの体に宿した〝言葉の魔女〟──全ての始まりである〝原初の魔女〟エイトの核を軸に、八百年かけて世界中に散らばった〝魔女〟を集め【魔女】と成った。その体が死を迎え、自我を失ったにも関わらず言継は〝魔女〟を集め続けた。
そうして全ての力を継承し終えた時──言継は、過去から己を呼び寄せた。呼び寄せ──その上で死なぬ己の体を利用し、〝魔女〟に生命を吹き込むという荒事をこなし──過去の己に破壊させた。
自分に宿る核以外全て破壊されたあとはどうすればいいか?
単純なことである。
過去の自分に継承して同じことを繰り返させれば、その未来から先の未来には二度と魔女が現れなくなる。
魔女の夢が、終わる。
「…………」
魔法陣が練り上げられていく硝子の擦れ合うような音が響く中──誰も言葉を発しなかった。発せなかった。発せるわけが、なかった。
【魔女】は倒れた。死んだ。過去の──幼い葉月言継に継承することで、消えた。
だがそれは始まりにすぎないのだ。
そして、今ここにいる言継も、まだ終わらないのだ。
今ここにいる言継はこの先八百年──〝魔女〟を継承し続けることになるのだ。言葉を掛けられるはずが、なかった。
「行きますわよ──■■■■」
かつて京都の嵐山から未来へ行った時のように。
けれどあの時に比べるとさほど魔法陣も体を襲う浮遊感も少なく。
──言継たちは、現在への帰路につく。
「──……ん」
全ての時間軸が混ざり合ったように融け込む狂った空間の中、言継の腰に腕を回していたプライドはふと、何かに後ろ毛を引かれるように背後を振り返った。
そしてプライドの目が、見開かれる。
全ての時間軸が融解に融解していく中かすかに見えた、白い空間。
そこに見えた、腰まで伸びた白髪を靡かせながら歩く燕尾服の男。
「────」
プライドは無意識のうちに、言継の腰に回している腕に力を込める。




