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◆◇◆
「なぜいきなり……」
「さあ。おおかた、ご自分の矮小さに悲観して自殺でもしたのではなくって? その通りだけれど魔女なのだから自殺すべきではありませんでしたわね」
龍國大学の誇る、日本中の大学でも随一の蔵書量を誇る図書館──それは今や、魔女に支配されていた。
「なんで私ばかり、私ばかりが、私バカりが」
図書館の一階大ホール。
ふだんは学生たちで溢れ返っているそこは今や、破壊された棚と散らばった本で足の踏み場もないほどの荒れ果てた空間となっている。
そして本の海を臨むように見下ろして浮かんでいる、一体の魔女の存在がさらに異質な空間へと築き上げていた。
「ワタしばかリ、ワタシばカリ、私バッカり」
魔女は、嘆く。
タロットカードの〝吊るされた男〟の如く、だらりと天井からぶら下がっている魔女はただひたすら嘆く。その両目からとめどなく錆色の濁った涙を流し、嘆きを呪詛の如く零す口からも錆色の血が重力に従って地面に流れ落ちている。
だがその液体は床には溜まらない。代わりに、その液体に触れたものが悉く錆びていっていっていた。
「……そういえば〝腐蝕〟を司る魔女でしたわね。腐った魔女にお似合いの腐った能力ですこと」
図書館の出入口からそれを眺めていた言継は嘲るようにそう言って嗤う。その隣で教授は眉間に皺を寄せ、難しい面持ちで暴走している魔女を眺めていた。
「魔女が暴走する時──それは〝人間〟として死んだ時。つまり、肉体としての死を迎えた時──何があったのだ?」
「そ……それが分からないんです。いつも通り仕事をしていたのですが……いきなり胸を押さえて苦しみ出して……」
「発作? 病気でもあったのか?」
「いいえ。身体的には健康であるとWHO日本支部から報告も受けていて……」
図書館職員の言葉に教授はふむ、と顎を撫ぜる。
「……継承する前に暴走を迎えてしまった魔女は封印するしかない。WHOに連絡を──」
「その必要はありませんわ」
言継は嗤う。
「愚鈍で脆弱で矮小な貴方たちとは違ってよ」
「……何をするつもりだ? 言継くん」
「大人しく床でも舐めていなさいな」
言継はそう嘲ると足を踏み出す。その拍子に彼女の長く、太い三つ編みがふわりと舞う。
「〝図書館の魔女〟改め──〝腐蝕の魔女〟高無亜理子。嘆いてばかりの貴方のことだもの、きっと封印されて永遠の責め苦を味わうのは何よりのご褒美なのでしょうけれど」
死んでもらうわ。
──そう言って言継は嗤った。
「■■」
言継の口から不協和音が零れ落ち、ふわりと彼女を取り巻く空気が渦巻く。そうして仄かに輝き始めた空気が集束して何十本もの黄金色の鎖と化し──一直線に、図書館の魔女へと迸っていった。
黄金の鎖は図書館の魔女を雁字搦めにし、魔女の口から嘆きとともに呻き声が漏れる。
「あれが葉月さんの力……」
「葉月言継、〝大学生の魔女〟──そして〝言葉の魔女〟」
龍國大学において知らぬ者は誰もいない、ふたりの魔女。
ひとりは図書館に勤めている司書で、常に嘆いている魔女。
ひとりは大学に通う学生のひとりで、常に嘲っている魔女。
存在こそ政府より公表されているために誰もが知っていても、その力を見たことのある者は数えるほどしかいない。
魔女の力。自然に干渉し、現象を蕩かす摩訶不思議な力。それは魔女によって違うとされているが、今まさにその力と、力の違いを目の当たりにしている。
錆を零し、全てを腐蝕させる魔女。
言葉を操り、全てを篭絡する魔女。
「大人しくなさいな。みっともなくってよ」
鎖に絡め取られた魔女が呻き声を上げながら暴れているのを見上げて言継は嗤う。
「ワタ、しバカり──ワタシばか、リィ」
「!」
じゅくり、と魔女を拘束していた鎖が腐り堕ちて言継は嘲笑こそ崩さなかったもののかすかに目を見張る。
「ナンでわた、わタしシばかリ」
「■■」
ごぼりと錆が魔女から押し寄せるように溢れてきて床に広がり、言継は短く不協和音を唱えて自分の体を浮かせた。ついでに、出入口で茫然したように竦んでいた教授や職員を含む野次馬たちの体も浮かせてともに図書館の中から出ていった。
「うわぁ!! 浮かんでる!!」
「きゃ~~~!! スカートがめくれるっ!!」
「──耳障りですわ。誰も貴方なんて眼中になくってよ。お黙りなさい」
ふわりふわりと覚束なく空中に浮かんでいることに悲鳴を上げる野次馬たちに言継はそう言って嘲笑い、彼らを地面に降ろさぬままふわりふわりと図書館から距離を取る。
ずくりと、空気が震える。
──いや。
空気が、腐る。
錆という錆が図書館を覆い尽くし腐蝕するのみに留まらず、錆は大気にも手を伸ばして汚染していった。何十年も放置され忘れ去られ、錆びて朽ちゆく廃墟と化した図書館と──それを取り巻く黒く澱み、濁りきった空気に野次馬たちは口々に上げていた悲鳴を呑み込んで沈黙する。
魔女の力。
それを前に、ただの人間は沈黙しかできない。
「……昨今は魔女の暴走もなく、平和ボケしておったが……二年前にカナダで魔女が暴走した時は……町がひとつ、人の住めぬ土地になっておったな」
「〝インディアンの魔女〟──〝燃焼の魔女〟ですわね。魔女を封印しても酸素が戻らず、放棄せざるを得なかった──それに、あの魔女もこのままですと京都を全部腐らせて腐海にしてしまいかねませんわね」
まったくはた迷惑な魔女だとこと──そう嘲って言継は教授たち野次馬を少し離れた場所に放り投げ、大人しく跪いていなさいなと申し付ける。
「さて、あのどうしようもない魔女をどうしましょうか」
唄うように嗤いながら言継はふわりふわりと図書館の上へと向かう。錆びきって腐り落ちたのか屋上に屋根はなく、ぽっかりと闇に包まれた穴だけが開いている。いや──闇ではない。腐り落ち、液状化してしまった図書館の成れの果てが溜まっているのだ。あまりにも淀み、濁っているためにそれがただの闇に包まれた空洞であるように見えてしまうだけである。
それを前に言継は浮遊したままどうするか案じるように人差し指を顎に押し当てる。その顔には、やはり嘲笑が浮かんでいる。
「ナんンンンんデデデででわわわワワワわワタタタたたた」
ひどく耳障りな、けれど言継が口にする不協和音ほどには及ばない金切り声を上げながら屋上に開いた穴から錆色の魔女が、這い出てきた。
「!」
「ワワわわワたタタたシシィシぃぃば、ババばかカりぃぃぃぃィィ」
なんで私が。
なんで私ばかりが。
なんで私だけが。
そんな呪詛を吐きながら錆にまみれてもはや元の形状が分からなくなってしまっている──泥人形ならぬ、錆人形を前に言継はやはり、嗤う。
「そんなだからそうなるのではなくって? 嘆いて嘆いて嘆いて、けれど嘆く以外は何もしようとしない愚鈍な魔女さん」
「わタ、シッィイイィイイィ!!」
「っ!」
錆びた槍が錆人形の胸から飛び出してきて言継の頬を掠る。言継の嘲笑こそ崩れなかったものの、その頬からは血が零れ落ち──傷口も次第に、腐り出していく。
けれど言継は焦りの表情ひとつ浮かべず、そっと不協和音を口にする。
「■■」
キィ、と水面に氷が張っていくような音を立てて傷口が紫色に輝く魔法陣に包まれ、再生していく。そうしてものの数秒もしないうちに言継の頬は何の痕跡もない、美しい肌に戻った。