七 【牢獄の魔女】
鼻孔を擽る優しく、温かで食欲を誘う魚の香りにプライドは瞼を開けた。見慣れた天井が視界に映り、WHO本部の自室のベッドに寝ていたのだということをすぐ理解してプライドは己の記憶を探る。
「──あら、ようやく目覚めましたの? ほんと恥ずかしいこと。あれだけ平気だと豪語しておいて倒れるだなんてみっともなさすぎてわたくし、思わず落涙しそうになりましたわ」
鼓膜を突いた聞き慣れた嘲りにプライドは視線を天井から横に滑らせる。いつもと変わらぬ物の少ない自室──そこに嘲りを口元に浮かべている葉月言継の姿があった。その姿を見てプライドはああ、と何故自分がここにいるのかを思い出してため息を吐いた。
「誰よりも半狂乱になっていたくせによく言うものです」
「だっ……誰が。耄碌してしまったのではなくって? 無様にも倒れてしまった貴方に嘲笑しか出ませんでしたわ」
「いいからそれを持ってきなさい」
ワタクシのために作ったのでしょう?
──そう言いながらプライドが視線を向けた、言継の手に抱えられている土鍋。その視線に言継は嘲りを崩さないままにせよ、少し焦ったように視線を泳がせた。
「な……何を勘違いなさっているのかしら? このわたくしが貴方ごとき耄碌したご老人のために作るだなんて自惚れておりませんわよね? おかしなこと!」
「大丈夫ですよ、言継。──倒れるなどという醜態を晒しはしましたがね、あの程度少し眠れば回復します。なのでこのの通り──何ともありませんよ」
言継の嘲りを無視した、プライドの穏やかな言葉。
それに言継の紫黒色の目が揺れ、かすかに潤う。口元の嘲りとはとても釣り合わぬその目元にプライドは彼女の本質を改めて理解し、小さくため息を零した。
──〝海底の魔女〟との戦いが終息し、軍の救護用ボートに引き上げられたあと、戦いの最中ずっと言継に生命力を分け与えていたプライドは倒れてしまったのだ。当然のことであった──だが、倒れてしまったプライドに誰よりも一番焦ったのは言継であった。嘲りを崩さぬまま。言葉では嘲りながら。見下し罵倒して。──誰よりもプライドを心配し、誰よりも涙を零していた。その涙は嘲りしかない彼女からは決して流れないが、零れていた。その時のことを思い出してプライドはまた、ため息を零す。
人間は死ぬが魔女は死なない。
それだけか? そうではない。
人間は死ぬが魔女は死なない。死ねない。
人間は喜ぶが魔女は喜ばない。喜べない。歓ぶ。
人間は怒るが魔女は怒らない。怒れない。憤る。
人間は泣くが魔女は泣かない。泣けない。嘆く。
人間は笑うが魔女は笑わない。笑えない。嗤う。
人間は死ぬが魔女は死なない。
死ぬのは、感情という名の心。
「──何ですか? これは」
「鮭雑炊ですわ。ご老人の脆い顎にも優しいものを、と気遣ってさしあげましたのよ? 感謝に咽び泣きながら食べなさいな」
「ふむ、米料理はあまり食べないのですが……美味ですよ」
「…………貴方、頭打ちまして? 痴呆の前兆かしら」
サイドテーブルを引き寄せてそこに土鍋を載せ、ドイツ人にとっては見慣れぬものであろう柔らかな白米に鮭の切り身が混ざっている料理を躊躇なく口に運んでいくプライドを眺めて言継は嘲りつつ首を傾げる。ここ最近のプライドの丸くなりようにはさすがの言継も戸惑いを覚えるものであったらしい。
そんな言継の怪訝そうな視線にプライドは顔を上げ、アイスブルー色の目を細めて言継の紫黒色の目を見つめる。
「──すみませんでした、言継」
「──えっ? ──ご自分がこの世に生まれてきたことに対する謝罪かしら? それは正当なる謝罪ですわね」
おそらくは無意識にであろう──魔女の意図によるものであろう、最初の感嘆詞のあとに続けられた嘲りを無視してプライドは骨ばった手を言継の頭に載せる。言継の、柔らかく艶のある紫黒色の髪を梳くように撫ぜてくるプライドに言継は動揺に視線を揺らした。
「ワタクシは魔女が嫌いです」
「存じ上げておりますわよ? わたくしを本気で殺しにかかろうとしていましたもの」
「魔女など、全員封印してしまえばよいと思っておりました」
「封印されるべきはご自分だと気付きましたのね? ご立派ですわ」
「──貴方が本意からそれを言っているわけじゃないと分かっております。だから泣きそうな顔をするのはやめなさい」
「だっ……誰がっ」
プライドの言葉に対して嘲りしか返すことのできぬ言継を、プライドは優しく受け止める。今までの彼からはとても想像できぬ優しさだ。
「ワタクシの家族は魔女に殺されました」
「……あの写真ですわね? 傲慢と違って素直そうなご家族ですこと」
そう言って言継はベッド脇のチェスとに飾られている、ひとつの写真立てに視線を向ける。武骨な木製の写真立ての中に入れられた一枚の写真。
──そこには少年から抜け出したばかりの若く、精悍な顔つきのプライドとその家族であろう者たちの姿が映っていた。今のプライドからはとても想像がつかぬ黒漆のような漆黒の髪をしていて、そのアイスブルーの目も今のように憎悪に滾ってはいなく希望に満ち溢れている。
「三十年前──まだ二十だった時のことでした。ドイツ陸軍にいた時──国際魔女法が施行され、WHOが作られたばかりのころでした」
当時、プライドは国際魔女法の施行にあたって魔女の調査を行っていたのだという。人々からの迫害に怯えている魔女を保護し、人間と変わらぬ生活ができるようにするという目的の下、プライドたちドイツ陸軍は魔女の捜索と保護が命じられていた。
その時は魔女に対する同情が強く、憎悪はしていなかったそうだ。
「言わずとも分かるでしょう? 分かりやすい悲劇のストーリーですよ」
「……暴走魔女が、ご家族を襲ったのですわね」
「ええ。町ごと滅ぼされました。けれど、当時は女性の人権や魔女の人権に五月蠅い世情でございましたから──〝もっと早く魔女に人権が認められていればこんなことにはならなかった〟と、町がひとつ滅んだことを当然の報いとして説く声ばかりでした」
「…………」
町が暴走魔女に襲われているという一報を受け、慌てて故郷に帰ったプライドは──既に冷たくなっている両親と、まさにその瞬間魔女に引き裂かれ、絶叫を上げながら絶命していく妹弟と相対することになった。そして、絶望した。
絶望し、次の日には髪がすっかり真っ白になってしまったのだという。
「それでも軍属としてワタクシは魔女の保護活動に勤しまなければなりませんでした」
魔女に家族を殺され。
けれどそれを世間は仕方ないと見捨て。
魔女の人権を守る方が大切だと保護活動を強いられる。
それは──プライドにとって何よりも耐えがたい、屈辱であった。
「だからWHOに入って制圧隊を作りました」
「……〝魔女狩り〟」
「ええ。オセロットは純粋に暴走魔女を抑えるためだけの部署として捉えておりましたがね……ワタクシは〝魔女狩り〟のつもりでした」
そしてプライドは正しく、WHO内にいる多くの魔女否定派を率いて生前封印を秘密裏に行い続けてきた。次代への継承を目前に控えた老いた魔女を中心に、渋る魔女には説得という名の脅迫で強引に同意を得て──嫌がる魔女も、時には無理矢理押さえつけて。
「…………〝海底の魔女〟は途切れることのない痛みを味わっていたと言っておりました。つまり彼女たちは、現在進行形で痛みを味わい続けていることになります」
「そうでしょうね」
と、そこで言継は唇をぐっと噛んで言葉を呑み込んだ。そんな仕草にプライドはゆるやかな苦笑を浮かべ、我慢しなくてよいと言う。
「──ワタクシは〝魔女〟が元は人間であることを……いえ、そもそも人間だということを……無視しすぎました」
魔女への憎悪は潰えない。
だがもう魔女を魔女としては見れなかった。
言継はもう、プライドにとって魔女ではない。言継は──ただの言継でしかなかった。嘲りに支配されてなお、他人のために傷付くことを厭わぬ愚かで優しい少女でしかなかった。
「…………魔女を封印してきたこと。それが間違っていたとは思いません。悲劇の連鎖は止めるべきですし、暴走の危険性も下げるべきだと思っております。ですが──」
〝魔女〟は〝人間〟が成ったものであるという事実と向き合うべきでした。
──そう言ってプライドは言継に向き直り、嘲りしか浮かばぬその顔に手を伸ばす。そうしてプライドの骨張った手を頬に感じながら言継は──やはり、嗤う。
「次代への継承は悲劇の継承。封印は苦痛の牢獄へ人間を投げ込む行為。されど現時点において、次代への継承と封印を行うことなく魔女を解放する手段は言継、貴方の継承しかありません。ですがそれは言継、貴方自身を蝕む諸刃の剣です」
「…………」
「我慢しなくてよろしいと言ったでしょうに。──次代への継承と、封印と、貴方の継承。この三種しか手立てがない現状を打破する術を模索しながら──まずはこの一連の連続暴走を引き起こしている魔女を探し出しましょう」
「…………」
「魔女の暴走を引き起こしている者の正体──それを掴んだら言継、貴方は継承を一切しないように。貴方のことですからこの一連の事件が終わっても死にかけている魔女を見つけては継承してしまいそうですしね」
「……人を聖母か何かのように言わないでくださる? 何度も言いましたでしょう? 継承は痛いから嫌ですわ。この一連の騒動が終わったら──」
「しますよ」
貴方なら、継承する。
解放されたがっている魔女がいれば貴方は必ず継承する。たとえ次代への継承が決まっている魔女であろうと──貴方は継承してしまう。
そう言ってプライドは目を細めて哀しそうに微笑んだ。
その哀しそうな微笑みに言継はやはり嘲りしか浮かばぬ顔で、けれど何とも言えぬ複雑な感情にまみれた紫黒色の目でプライドを見つめる。
「──それと、貴方のことですから今後はワタクシから生命力を奪わないようにしそうですので言っておきます。ワタクシの生命力は今後も遠慮なく使いなさい」
「加齢臭が移りそうですから嫌ですわ」
「やりなさい。生命力なぞ休めば回復します。ですが、死んでしまえばそれで終わりだ」
──ワタクシは貴方を封印することしかできなくなってしまう。
それだけはさせるな──そう言ってプライドはアイスブルー色の目を燃え盛る青白い炎のように煌めかせながら言継をまっすぐに見据えた。それは、否を一切許さぬ絶対の目であった。
その瞳の強さに言継は圧され、逡巡するように目を左右に動かし──弱々しいながらも頷くのであった。
「それでいいのです。──さて、この鮭雑炊。美味なのは美味ですが、冷たい茶が用意されていないのが残念ですな?」
「──……、……茶が欲しいのならば素直に仰いなさいな。本当に厭味ったらしいご老人だとこと──若い子からクソジジイと言われて嫌われるタイプですわね」
「貴方からは嫌われていないようなので十分です」
「まあ! このわたくしが貴方を嫌っていないだなんてどうして思えるのか不思議ですわ! 余程ご自分に自信があるのね? 羨ましいわ、その勘違いっぷり──」
「嫌っていればそもそもワタクシにこれを作らないでしょう」
そう言いながら鮭雑炊をぱくぱくと口に運んでいくプライドに言継は思わず沈黙を返し、そうしてほんの十数秒ではありもののそこに気まずい沈黙が落ちた。




