一 【図書館の魔女】
京都に四季はない。
夏と冬の二季しかない。つまり暑いと寒いの二種類しか存在しない。
そして今は夏──暦の上では秋であるが、夏である。四方八方を山に囲まれた盆地であることが災いして風のほとんど吹かない京都には熱がこもる。湿気もこもる。ゆえに蒸し暑い。蒸し熱い。
けれどそんな蒸し熱い中──エアコンもついていないというのに汗ひとつ掻いていない人間がいた。
「■■」
不協和音。
伏見区の住宅街に聳え立っているマンションの一室、熱がこもりすぎてもはやボイルされているのと変わりないその部屋でひとりの女性が不協和音を口にする。と、床をずるずると這っていた女性の長すぎる紫黒色の髪がふわりと浮かんだ──いや、髪だけではない。
女性自体も、浮かんでいた。
「■■■■」
また、不協和音。
そして女性の豊かすぎる髪が蛇のようにうねりながら空中を踊り始める。しゅるりしゅるりと髪が擦れる音を心地よさそうに聞きながら女性は目を細めて──嗤っている。
その顔には、嘲笑しか浮かんでいない。
彼女の名は葉月言継。魔女である。
◆◇◆
紀元前八十八年──
最初にして原初の魔女〝エイト〟降臨せり。
其の〝魂〟八千と八百と八十と八に別たれり。
別つ〝力〟八千と八百と八十と八の女に宿りし。
其れ即ち八千と八百と八十と八の魔女の発生なり。
自然に干渉し現象を蕩かす不死にして不老の魔女。
死なず老いずの魔女に自我は亡く他我も失きし。
理性も無く本能も啼く感情も哭く思考も嚶く。
暴走と蹂躙の果てに世界を滅ぼさんとせし。
──『古代魔女史』序章より
「──よって紀元前から中世に至るまでの長い間、魔女という存在は殺すべき存在として認識されていた」
京都府内に点在する数多の大学の中でも歴史が長く、かつ史学分野に長けている龍國大学の学び舎である十二ある赤煉瓦の建造物──その一棟。
一号館二階、史学部魔女史学科専攻研究室。
そこで初老の教授が十数人いる学生たちに向けてつらつらと魔女史について述べていた。
「二十一世紀である現代において〝魔女〟は国際魔女法により保護されている──と、いうことになっているが実質的には監視されているも同然」
教授はそう言ってひと呼吸置き、国際魔女法についてその背景も含め答えられる者はいないか問う。
それにひとりの男子学生が手を挙げ、口を開いた。
「十五世紀から十八世紀にかけて活発に行われていた魔女狩りを経て〝魔女は封印すべきである〟という認識に変わり、多くの──魔女でない女性を含めた多くの女性が長く迫害され続けていました。十八世紀末のフランス革命を機に女性の権利が見直されるようになり──時代の流れを経て魔女の人権も見直されるようになりました。そうして一九八八年に国連により国際魔女法が制定され、魔女及び予備魔女は政府に申し出する義務が生じた代わりに、我らと同じく人権を有するものとして保護されるようになりました」
「よろしい。では、なぜ〝魔女は封印すべきである〟という認識に至ったか?」
その問いかけに他の学生が魔女は死なないからだと答える。それに教授は頷く。
「人間は死ぬが、魔女は死なない。そして?」
「魔女といえどその肉体は人間の女性です。長らく魔女は人々を迫害する醜悪な悪魔だとされてきましたが、それは人々が魔女を殺めたからだということがわかりました」
「その通り」
〝魔女〟──それは決して化物でも悪魔でも妖怪でもない。
ただの人間の女性に〝魔女〟の力が宿り、魔女と成るのだ。
そして先述した通り、人間は死ぬが魔女は死なない。人間としての肉体を殺されても、魔女としての力は死なない。
その〝矛盾〟──それこそが魔女を暴走に導くのである。
「十八世紀まで魔女というのは人々を害する存在だとされていたが、魔女の中には自我をしっかり持ち理性的な──普通の女性と何ら変わらぬ魔女もいた。それに気付き、声を上げたのは哲学者ジョン・ロック氏であるが……」
魔女が暴走し人々を害する時、そこには常に人間としての肉体の死が付き纏っていた。
つまり魔女が暴走するのは人間として死を迎えたにも関わらず、魔女としては生き残っているという〝矛盾〟による精神崩壊が所以であると哲学者は唱えた。
「そして魔女の力は継承されるものであるとも周知され始めた」
人間は死ぬが魔女は死なない。
けれど肉体はいずれ滅ぶ。そのままにしておけば魔女はいずれ滅んだ肉体との矛盾に精神を壊し、暴走する。ではどうすればいいか?
──迫害の歴史の中、人間に混じってひっそりと生き残ってきた魔女はその力を次代に継承することで暴走から免れていたのだ。
「これまでの歴史の中で暴走に至った魔女、そして魔女であると見做された女性はどうなっているか? ──そう。魔女は死なない、ゆえに殺せない──だから封印されている。地底だったり海底だったり、はたまた獄中だったり様々だが……今も世界中のありとあらゆるところに封印されている」
暴走した魔女はもちろんのこと、ただの人に過ぎない女性も含め多くの魔女が──いや。本物の魔女も含め、多くのただの人間でしかない女性が──暴走していないにも関わらず魔女である可能性があるというだけで近代に至るまで迫害され、封印され続けていた。
それが変わったのが一九四五年ごろで、魔女も人間であると魔女の保護が考えられるようになった。知らぬところで何らかの事故により不意に暴走されても困ると、全ての魔女は申告することが義務化されたのである。
当代の魔女が死ぬ前にその力を継承することになる次代の魔女、つまり予備魔女も含め全ての魔女は政府により保護──という名の監視を受けることとなったのだ。
「現在、国際魔女法により保護されている魔女は七四八人──日本には?」
「十二人おります。そして、この大学には二人の魔女がおります」
その言葉に室内の人間たちの視線が一斉に後方に集まる。
研究室の後方──そこで教授が執務の際に使用している革張りの黒い椅子を勝手に借り、深く腰掛けているひとりの女性が自分に集まる視線の群れに嗤った。
「まあ。なんて不躾で醜い視線だとこと。わたくしを見る許可を与えた覚えはないのだけれど?」
紫黒色の三つ編みを椅子の後ろに垂らして優雅に長い脚を組んでいるその女性──言継は丸い眼鏡の奥から室内の人間たちを見回し、嘲る。
「我らが魔女、葉月言継くんにみな見惚れているのだよ」
「貴方たちは矮小で見るに耐えない存在ですものね」
言継の嘲りに怒る者はここにはひとりもいない。
彼女が嘲り嗤うのは、いつものことなのだ。
葉月言継──彼女は国際魔女法により認定された魔女のひとりであり、ここ龍國大学に在籍している二十歳の女子大生でもある。座っていても分かるほどに長身の彼女は黒いストッキングに包まれた脚を惜しげもなく短いスカートの下から曝していて、足先を飾るピンヒールがまた彼女によく似合っている。
彼女の、嘲笑に。
「先ほど、魔女はその肉体が死を迎えていなければ普通の女性と何ら変わりないと説明したが──これは誤りであると断言しよう」
魔女はたとえ暴走していなくとも、人格異常者である。
「まあ。なんて差別的だとこと──ご自分たちが理性的で知的な存在だとでも思っているのかしら? 滑稽ですわ」
言継は嗤う。人格を否定されたにも関わらずその顔に怒りの色はない。嘆くでも俯くでもなく、その顔には嘲りしかない。
「でも実際のところ、歴史の中に登場する魔女や今現在、国連に認定されている魔女って性格に難があると言われているよな。〝図書館の魔女〟もそうだし──……」
図書館の魔女。
この大学にいるもうひとりの、龍國大学の図書館で司書業務に携わっている三十代半ばの魔女のことである。そして学生が口にしたように、この魔女もまた問題がある魔女であった。
「あの人、いつも嘆いているよね」
「そうそう。葉月さんはこの通りドSで人を人と思わないような鬼畜、〝図書館の魔女〟は悲観主義者。他にも、岡山で農家をやってる〝果樹園の魔女〟は虚言癖があって嘘しか言わないらしいし、千葉のそろそろ次代継承するっていう〝公民館の魔女〟も笑い上戸みたいだし」
人権問題に発展するということもあり、表立って誰も口にはしないが──教授や学生たちの言う通り、魔女には性格に難のある者が多かった。
「うふふ、惨めですわね。そんなことを言いながら先ほどは貴方、わたくしに踏まれたいと仰っていたではありませんか。どちらが嘘吐きなのかしら?」
「いや、あれは冗談で──」
「まあ。ではわたくしは貴方を踏まなくてもよろしいのね?」
「……踏んでください」
「正直な虫けらですわね」
言継の前に這い蹲った男子学生に言継は嘲りながらピンヒールでその頭を踏み躙る。それを他の男子生徒が羨ましそ──憐れむように眺める中、教授は咳払いして注目を自分の方に戻させた。
「国際魔女法だが、その発足にあたり同時に創立された組織もある。何か」
「WHO──Witch healthcare organization、魔女救済団です。尤も、実際にはWitch hunt organization──魔女狩り団だと言われていますが」
「その通り。国連とICPOによって創立され、世界各地に点在する魔女の保護と支援を目的にして今に至るまで活動が行われているが──君の言った通り、保護と支援とは名ばかりで実質的には魔女狩りと何ら変わらない」
世界各地でひっそりと暮らしている魔女を見つけ出して保護という名の拘束をし、支援という名の監視を行う。そんなWHOに人権の侵害だと批難する声もあるが──魔女に暴走されるよりはマシだと考える者の方が多い。
「本当に弱くて愚かで、惨めったらしくて哀れな生き物だとこと」
魔女狩りを批難しておきながら魔女狩りを推進する──人類の歴史に見える矛盾を指摘して言継は嘲笑う。
その嘲りには、誰も反論しなかった。
──そんな時であった。
「教授!! ──葉月さん!!」
「どうした?」
研究室のドアを勢いよく押し開いてひとりの男が息も絶え絶えに入って来て、教授は何事かと眉を顰める。
「〝図書館の魔女〟が暴走を始めました!!」
「まあ」
暴走。
魔女の暴走。
それが意味することを理解していてなお、言継は嗤った。