(7)プリムローズ
ここ数日、朝から曇ったり晴れ間が覗いたりする、すっきりしない天気が続いていた。
プリムローズは予定がない日は、母親と刺繍をして過ごすのが日課になっていて、今日もハンカチに菫の刺繍を刺していた。
紫色の糸で濃淡をつけながら花びらを象っていくのは楽しい作業だ。
「ねえ、プリス」
母、ミランダの声にプリムローズは針を持つ手を止め、顔を上げた。
ミランダの手元にはほとんど仕上がった薔薇の刺繍のハンカチがある。
「あなた、ブライアンからパトリシアのことは何か聞いている?」
「パトリシアのこと……?いいえ、何も。ブライアンから聞くのはカードの勝敗ばかりよ」
「そうなの……相変わらず困った子ね」
ミランダは溜め息をついて、手にしたハンカチをテーブルに置いた。
双子の弟のブライアンは近衛騎士団に所属し、また伯爵家の跡取りとして父の仕事の手伝いもしていた。
社交界に出入りするようになってからは、それなりに女性からの人気はあるようだが、彼の興味の大半はカードと騎士団の訓練にあって、今のところ色っぽい話題は皆無だ。
生まれた時から一緒に育ったプリムローズは、ブライアンが同年代の男性に比べて子供っぽいことは知っていたが、彼の話してくれる世界はとても楽しかった。
そして、口では色々言うが、プリムローズの一番の理解者であることに間違いはない。
「パトリシアのご両親からね、婚約のお話があったのよ」
ぼんやりとブライアンのことを考えていたプリムローズは母の一言に針を取り落としそうになった。
「パトリシアと?」
「そうなのよ。二人は幼馴染みだし、あなたが婚約してからは一緒に夜会に出たりして、仲は良いと思うけど……」
「そうね……確かに仲は悪くないわ」
プリムローズは自分にとっても幼馴染みになるパトリシアの顔を思い浮かべた。
一つ年上のパトリシアは子爵家の四人姉妹の一番下で、幼い頃から交流がある。
「あなたはどう思う?」
ミランダに聞かれて、プリムローズは首を傾げた。
「二人のこと?」
「ええ。同年代のあなたの方が私より、よく知っているんじゃないかしら?噂を聞いたりしていない?」
そう言われてプリムローズは戸惑った。
母に返せるような情報は一つもないし、元々ブライアンは結婚相手は父親に任せると言っていた。
彼は自由奔放ではあるが、自分の立場は重々承知しているので、政略結婚に何の抵抗も感じていないようだった。
「お父様が良いなら、良い縁談なんじゃないかしら」
プリムローズが思ったままに答えると、ミランダは小さく溜め息を吐いた。
「あなたも心配だわ。今のままで侯爵家の嫁が務まるのか……。貴族の妻はぼんやりしていてはやっていけないのよ」
「お母様……?」
「今まではうるさく言わなかったけれど、あなたには嫁ぐまでに社交界できちんと戦えるようになってもらわないと。結婚したら、いずれ侯爵夫人になるのよ。あなたの言動が色々な人に影響するわ」
ブライアンの話から突然自分に話の矛先が向いて、プリムローズは戸惑った。
そんな娘にミランダは苦笑した。
「安易な受け答えはしないこと。上手く立ち回って、夫や嫁ぎ先が不利益を被ることがないよう気を配るの。夫婦は二人で支えあっていくものなのよ。一人が寄りかかってばかりいたら、二人とも倒れてしまうでしょう?あなたは今まで娘として私達に守られてきたわ。でも、これからは?この先も誰かに守ってもらって生きていくつもりなの?」
「それは……」
プリムローズは口ごもった。
貴族の妻の役割なら母を見ていたから分かっているつもりだ。
確かに社交は苦手だが、今もアーサーの婚約者として努力はしている。
けれど、母が言うように夫婦になるということを深く考えたことはなかった。
アーサーを支えていくことは分かっていても、実際に自分がどんなことができるのか、どんな役割を果たすべきなのか……そこまで考えが及んでいなかった。
プリムローズは自分が初めての恋に浮かれていて、結婚について現実が見えていないことにようやく気付いた。
結婚式の後には侯爵家の人間としての長い人生が待っているのだ。
急に深刻な顔になった娘にミランダは柔らかく微笑みかける。
「すぐに完璧に出来るようにはならないわ。でも、その心構えだけは忘れないで」
「分かったわ、お母様。わたし、アーサー様を支えられるように考えるわ。わたしのできること」
「そうね。でも、一人で頑張り過ぎるのも駄目。二人で一緒にね」
ミランダは最後にそう締め括ると、再び眉根を寄せた。
「……それにしても、ブライアンの縁談には困ったわね。お父様はあまり賛成ではないし、私もまだ早いと思うし……。でも、パトリシアが乗り気だというから、お断りしにくいわよねぇ」
母親が憂慮する様子を見ながら、プリムローズは再び針を刺し始めた。
ブライアンにも縁談がきて、自分も半年後には嫁ぐ。
子供時代が終わっていくことを実感し、プリムローズは寂しく思った。