(6)アーサー
季節は春から初夏に移り変わっていた。
婚約した頃は室内で過ごすことが多かったが、最近では外でお茶をしたり、庭を散歩したりすることも増えた。
アーサーの一目惚れから始まった二人の関係も、予想したより遥かに順調に進展し、最近では会う度に別れが辛くなっている。
この国での一般的な婚約期間の一年も、そろそろ折り返し地点。
もはや『結婚もあり』どころか『結婚しかない』という心境に変化していた。
他の誰かなんて考えられそうにない。
プリムローズはやや人見知りではあるが、心を許した相手とは普通の女の子と変わりなくよく喋る。
彼女が話す時の表情を見ているだけで幸せだし、柔らかな声音にはいつも癒された。
何よりも自分が彼女にとって心許せる相手であることが嬉しい。
正式に結婚式の日取りが決まったら、改めてプロポーズしようと、アーサーは心に決めていた。
執務室で父親に頼まれた書類に目を通していたアーサーは、ノックの音に顔を上げた。
父であるグレンヴィル侯爵が領地の視察に出ているため、しばらく執務室はアーサー一人で使っている。
入室を促すと、スコット家の執事であるバークリーが、
「ウォルター様がいらっしゃいました」
と、来客があったことを告げる。
約束もなく友人が訪れたことに驚いたが、何か急ぎで相談したいことができたのかもしれない。
「すぐに行くから、応接間で待ってもらってくれ」
「承知致しました」
バークリーは折り目正しく挨拶をして出ていった。
ウォルターとの付き合いは長いが、突然訪ねて来ることは少ない。
彼自身も仕事が忙しいし、妻帯者になってからはなかなかゆっくり会うこともできなくなった。
当たり前だが、妻帯すると妻の友人、知人との付き合いも加わるので忙しくなる。
アーサーは彼の妻であるルースの弟なので、関係としては親戚だが、やはり独身の時のような頻度で会うのは難しかった。
確か最後に顔を見たのは一月前。
どこかの夜会だったはずだ。
アーサーは久しぶりに訪ねてくれた友人に嬉しさを感じた反面、用件が気になった。
(何か悪いことじゃないと良いが……)
一抹の不安を感じて、眉をひそめる。
机の上に広げていた書類をまとめて片付けると、足早に執務室を後にした。
「すまない、待たせてしまったな」
応接間で待っていたウォルターに詫びて、アーサーは向かいのソファに腰を降ろした。
「いや、こちらこそ悪いな。突然押し掛けて」
ウォルターは申し訳なさそうに頭を下げる。
金茶色の癖のある髪がそれに合わせて揺れた。
いつもの彼らしい陽気さが感じられず、何となく緊張しているようにも見える。
テーブルに用意されたお茶にも手をつけた様子はない。
「ご家族は変わりない?」
「あ、ああ。両親もルースも元気だよ。……ルースはこちらによく来てるみたいだから知ってるか」
「いや、それがそうでもないんだ。大概、母上と一緒だし、おれは帰りが遅かったりで、すれ違いになることも多いよ」
アーサーは肩を竦めて笑った。
実際、ルースが来ていたことを帰ってから知ることもよくあった。
泊まりで来ていてもそんな調子だから、アーサーが知らないだけでもっと来ているのかもしれない。
それが良いのか悪いのかは判断しかねるが……。
「そういえば、ジョージアナは?体調は良くなったのか?」
ふと、先程の答えで言及されていない彼の妹が気になった。
昨年、何度か彼女のエスコートをしたが、婚約してからは夜会で極たまに見かける程度になっていた。
「大分、良いんだ。もう少し安定したら、隣国に治療を受けに行かせるつもりだ」
「隣国に?」
「ああ。あちらで開発された薬を使った治療を受けさせたいって父がね。ただ、長旅になるから、もう少し体力をつけないと」
「そうか……良い結果になるよう祈っているよ」
「……ありがとう」
ウォルターはほんの少し笑って目を伏せた。
咳の発作に苦しむジョージアナは、これまでにも国内の名医と呼ばれる医師の治療を試してきたが、完治には至っていない。
それでも、成長と共に体力が幾分ついたこともあり、昨年やっと社交界デビューができたのだ。
新薬の話題は少し前に大きなニュースとして、この国でも取り上げられていたので、将来のことを考えて決断したのだろう。
「今日は……頼みがあって来たんだ」
目を伏せたままのウォルターが、そう切り出した。
余程、言い難いことなのか逡巡しているように見える。
「おれにできることなら引き受けるよ」
友人の常にない様子にアーサーは心配になった。
いつも明るくて、問題が起こってもサラッと流してしまうウォルターのこんな表情は見たことがない。
彼が結婚を決めた時だって、ここまで深刻そうではなかった。
どんな大きな問題に直面しているのか。
思いつめた顔をしたウォルターは意を決したようにアーサーの目を見た。
「……ラッセル嬢との婚約を解消して、ジョージアナと婚約してくれないか」
いつもより低く小さな声がそう告げた。
「……は?……どういう……ことだ……?」
アーサーはそれ以上続けることができなかった。
あまりにも唐突過ぎて、意味を理解するのに何度も頭の中でウォルターの言葉を繰り返す。
(おれとジョージアナが婚約……?)
プリムローズと半年後には結婚することになっているのに、なぜそんなことを言うのか。
アーサーは理解できないというように首を振った。
「……何を言ってるのか分かっているのか?」
ウォルターは青ざめた顔をしていた。
「……ああ。僕がひどいことを言ってるのは分かってる。でも、ジョージアナには時間がないかもしれないんだ……!」
「治療を受けるんだろう?元気になるんじゃないのか……?」
アーサーは眉をひそめた。
先程その話をしたばかりではないか。
治療後ならば少し婚期は遅れても、アマースト伯爵家と縁を結びたい貴族の中からいくらでも選べるはずだ。
何も婚約者のいる自分でなくとも。
「ジョージアナは……胸の病になったんだ……。咳の発作で弱っていたから仕方なかったと医師に言われた……」
ウォルターはアーサーと視線を合わせることなく苦しげに答えた。
言うべき言葉が見つからず、アーサーは瞬きも忘れて友人を眺める。
胸の病……それがどれだけ深刻なものかはアーサーにも理解できた。
隣国の方が医療は進んでいるが、治る見込みの低い病である。
「ジョージアナがこの国を発つまでで良いんだ!嫡男の君と本気で結婚させたいわけじゃない。だけど……妹に少しで良いから幸せを味わわせてやりたい。妹の初恋を叶えてやりたいんだ……!」
「ウォルター……」
アーサーはうなだれるウォルターに手を伸ばしかけて、その手を握りしめた。
「……できない。プリムローズとの婚約を解消することはできない……。それ以外なら何でも力になるから……」
彼女を失うことなどできない。
やっと見つけた人生の伴侶なのだ。
あの笑顔を失って、これからどうやって生きていけるだろう。
例え束の間の別れだとしても、彼女に辛い思いをさせ、社交界の噂の中に突き落とすことになる。
そんなことはできない。
だか、青い顔をしたウォルターは自嘲するように笑っていた。
「できない……?できるだろう?君は言ったはずだ。僕とルースが結婚した時に。『君には借りができた』って。……借りを返せよ」
「それは……!」
「ジョージアナと婚約しないなら、君への貸しは無しにするよ……意味は分かるよな?」
「ウォルター……やめてくれ!姉上とは上手くいってるんだろう?そんなことできないはずだ……!」
「僕は本気だ。妹のためなら何でもやる。……ルースはまだ若いし、侯爵家の娘だ。醜聞からは侯爵家が守るだろう?」
「そんな……!」
「……一週間で考えてくれ。また来る」
ウォルターは言いたいことを全て言い終えたのか、立ち上がると扉に向かった。
「ウォルター!」
呼び止めたアーサーを振り返ると、暗い瞳で一瞥し、部屋を出ていった。
残されたアーサーは苦し気に息を吐くと、頭をかきむしる。
幸せが己の掌から零れ落ちていく気持ちを初めて味わった。
過去の自分の選択がこんな形で未来を脅かすなど考えたこともない。
だが、今それは現実に起こっている。
『付け入る隙を与えてはならない』
父の言葉が重くのし掛かった。
何を選択するべきなのか……それを考える長い一週間が始まる――――――。