(5)プリムローズ
正式に婚約してからの日々は慌しく過ぎていった。
この国で貴族が婚約するには、国王の承諾を得たことを証明する書類などが必要になる。
その書類が揃って初めて正式に婚約したことを公表できるのだ。
グレンヴィル侯爵家の嫡男が婚約したとあって、社交界には様々な憶測や噂が流れたものの概ね好意的に受け取られ、プリムローズはたくさんの友人から祝福された。
そして、今夜は婚約を発表してから初めて二人で夜会に出席する。
ドレスを新調し、いつもより気合いを入れて準備をしたおかげで、珍しくブライアンも褒めてくれた。
淡い緑色の生地で作られたドレスは、コルセットで強調された華奢なウェストとふんわりと広がったスカート部分がプリムローズの女性らしさを引き立たせている。
金色の髪は丁寧に結われ、後れ毛の掛かる胸元にはアーサーから贈られたエメラルドの首飾りが輝く。
おそらく周囲の目は以前と違い、厳しいものになるだろう。
アーサーに恥をかかせてはいけない。
その一心でプリムローズは寸分の隙もなく侍女に仕上げてもらい、母親にも確認してもらった。
迎えに来たアーサーと一緒に乗り込んだグレンヴィル侯爵家の馬車は、プリムローズの家のものより立派で座り心地もとても良かった。
もし、一人だったら転た寝してしまいそうなくらいに。
しかし、今夜はもちろん目の前にアーサーがいて、そんなことは不可能だ。
婚約してから何度か、お互いの家の夕食会で顔を合わせているので、前ほど緊張はしなくなったが、人前に一緒に出るのはまた別物だ。
今日、自分達に注目するのは家族ではない。
内向的で人見知りな自分が何か失敗するのではないかと、プリムローズは気が気ではなかった。
(大丈夫……大丈夫……)
手を握りしめ、呪文のように心の中で何度も繰り返す。
硬い表情で黙りこんでいたプリムローズは、ふと視線を感じて顔を上げた。
向かい側のアーサーがじっとプリムローズを見つめている。
「あの……何か……?」
不安になって、そう尋ねてみた。
自分から会話をするべきだったのだろうか。
何か失礼をしたのだろうか。
不安の種はいくらでもある。
「うん……いや、二人きりになるのは初めてだけど、何か聞きたいことはないかと思ってね」
アーサーの答えは意外なものだった。
聞きたいことならある。
一番、知りたいこと。
『なぜプリムローズを妻に選んだのか?』
光栄なことだとは思っているが、理由が分かった方が今後アーサーの意に添いやすいとプリムローズは考えていた。
(聞きたい。でも、聞けない……!)
単純に答えを聞くのが怖かった。
聞かないでいるのも怖いし、聞くのも怖い。
意気地のない自分に落胆したが、とりあえず聞けそうな二番目の疑問を聞いてみることにした。
「ええと……アーサー様は何かお望みはありますか?」
「望み?」
予想外の質問だったのか、アーサーは目をしばたかせた。
「はい。結婚したら守ってほしい決まりとか、わたしにできることで」
「そうだなぁ……喧嘩した時も食事は一緒にととってほしいかな」
「お食事ですか?」
「うん。一人で食べるのは味気ないからね。それに美味しいものを食べたら、機嫌もなおるかもしれないし。お互いにね」
アーサーはそう言って笑った。
予想外の答えに今度はプリムローズが瞬きを繰り返してしまう。
「そんなことでよろしいのですか?」
「そんなこと、の積み重ねが夫婦になるために必要なんじゃないかと、おれは思うんだけど」
「それは……そうですね。でも、そもそもアーサー様とわたしとでは喧嘩になりません。わたしが怒られるなら分かりますが……」
「そうかな?世間で言われてるほど、おれは完璧じゃないよ」
いつの間にか砕けた口調になっていたアーサーの瞳がキラリと輝いた気がした。
ぞくりと肌が粟立つような色気のある表情だ。
プリムローズがアーサーの瞳に見入られている間に――――――それこそ一瞬だったと思うが―――――アーサーは素早くプリムローズの隣へ移動していた。
呆気にとられる間もなく、アーサーの指先がプリムローズの頬に触れた。
急に近くなった距離感に声も出せないほどに驚いて、瞬きもできないほど固まってしまう。
アーサーは頬のなめらかさを確かめるようにそっと撫でた。
(綺麗な瞳……)
初めて言葉を交わした日と同じことを思った。
その瞳に自分だけが映っている。
数多の女性を魅了してきた人が自分だけを見ている……それはプリムローズの体に得体の知れない快感をもたらした。
優越感?
いや、そんな単純な気持ちではない。
もっと息苦しくなるように熱い何か。
自分のまだ知らない感情が胸の奥深くから沸き起こる。
少し怖いような、少し期待するような不思議な感覚。
アーサーの顔が段々と近付いて、プリムローズの唇に微かに触れて、すぐに離れた。
「……こんな風に悪いこともするんだよ」
囁くように言われた言葉はひどく甘く感じられた。
触れたままだったアーサーの指先がするりと頬を下がり、プリムローズの顎を軽く支えるように上向ける――――――再び顔が近付いてくるのを見て、プリムローズは反射的に目を閉じた。
二度目は先程と違って、もう少ししっかりと唇が押し付けられる。
思ったより柔らかくて温かい感触。
ずっと触れていてほしいような心地良さに、プリムローズはうっとりとした。
――――――しばらくして唇は名残惜しそうに離れていった。
目を開く前にそっと抱き寄せられる。
アーサーの腕の中はほのかに甘いコロンの香りがした。
女性のものとは違う男性的な香り。
プリムローズはもう一度目を閉じて、アーサーの胸に体を預けた……。
そうして、アーサーと二人で出掛ける機会が増えるにつれ、プリムローズの気持ちにもゆるやかな変化が起きていた。
一緒にいることが幸せだと感じるようになっていたのだ。
最初に感じた憂鬱感が嘘のように、いつも彼のことを考えている。
一年間の婚約期間がもどかしいほどに、いつも側にいたいと思ってしまう。
彼に触れていたい。
彼に触れてほしい。
他の人には隙のない紳士にしか見えないアーサーの、プリムローズにだけ見せる素の顔がいとおしくて。
ずっと、こんな時間が続くのだ――――――プリムローズは疑いもせず、幸せに浸っていた。