(3)アーサー
プリムローズを初めて見た時をアーサーは今でもはっきりと覚えている。
その日の舞踏会はアマースト伯爵邸で開かれていた。
アマースト伯爵の嫡男ウォルターとは知己の仲で、長らく病気療養していた彼の妹をエスコートしてほしいと頼まれての出席だった。
アーサーにとって社交界に顔を出すのは散歩に出掛ける程度の、いわば日常の一部だ。
例え友人の妹のエスコートを引き受けていたとしても特に心境に変化はない。
侯爵家の嫡男として社交は義務だ。
「緊張してるね、ジョージアナ」
アーサーの腕に軽く手をかけたジョージアナに笑いかける。
ウォルターの妹ジョージアナは17歳。
病を得てから、王都より離れた領地に引きこもっていたせいか、夜会は苦手なようだ。
「わたくし、どうしてもこの雰囲気に慣れなくて。なんだか圧倒されてしまうの」
ジョージアナは小さく溜め息をつく。
一通り挨拶を済ませ、ダンスも披露したところだったが、まだ緊張感は続いているらしい。
疲れたのか顔色があまり良くないジョージアナを見やり、アーサーは彼女の友人達が歓談している方へ連れていった。
見知った顔を見つけ、ジョージアナは嬉しそうにアーサーを振り返る。
「アーサー様、わたくしはここで少し休みます。お兄様も近くにいらっしゃるし」
アーサーは近くで客人の相手をしていたウォルターに目を向けると、聞こえていたのか軽く頷くのが見えた。
「じゃあ、私は失礼して友人に挨拶してくるよ」
女性向けの柔らかい笑顔を浮かべてアーサーは一礼した。
ご令嬢方の熱い視線を感じたが、それを受け流して失礼にならない程度に、けれど足早にその場を離れた。
自分が社交界でどんな立場にいるのかをアーサーはよく知っている。
まだまだ身を固める気のない今、誤解を与えるようなことはしたくなかったので、女性に対しては明確に一線を引いていた。
『付け入る隙を与えてはならない』
社交界へ出るにあたって、父から心構えとして言われた言葉だ。
それは女性であっても、知人であっても……時には友人であっても。
(貴族は孤独だな……)
アーサーはジョージアナと同じように小さく溜め息をつき、知り合いのいる辺りを避けてバルコニーへ向かっていた。
そこは窓は開いているが、厚いカーテンが大部分を覆っているおかげで中から外は見えにくい。
やっと一息つけると思ったところで、バルコニーに先客がいるのに気がついた。
正しくはバルコニーとカーテンの間……つまりカーテンの陰に身を潜めて、周囲を窺っている女性がいるのだ。
彼女はアーサーがいるのとは逆方向を気にして、そろそろと顔を少しだけ覗かせてはカーテンの陰に引っ込む……ということを何度か繰り返している。
とても可愛らしい少女だ。
金色の柔らかそうな髪。
淡い緑色の瞳は今でこそ不安に揺れているが、灯りの下であれば宝石のように輝いて見えるに違いない。
アーサーはその容貌に惹き付けられた。
妙に存在感を増した自身の鼓動を理性で静めようと試みる。
あり得ないほど突然に惹き付けられ、そしてアーサーは狼狽えた。
こんな感情は知らない。
今まで誰にも感じたことがない。
名前も知らないのになぜこんなに目が離せないのか。
その答えを世間では何というのかアーサーは知っていたが、頑なにそれを自分に当て嵌めることを拒んだ。
そんな実のない根拠は信じられないからだ。
頭を軽く振って、アーサーは辺りをさりげなく見回した。
(今は助けてやるのが先だ)
社交界にそれなりに精通した自分が知らないなら、彼女は今年のデビュタントだ。
そんな令嬢が隠れているなら、しつこい男から逃げている可能性が高い。
彼女の美しさなら、それもさもありなんだが。
(あれかな……)
目的の人物はすぐに見つかった。
何のことはない。
彼も人を探すように、キョロキョロしていたからだ。
(コリンズ伯爵の次男か。懲りない奴だな)
去年、とある男爵夫人との醜聞であやうく決闘騒ぎになりかかった男だ。
アーサーは先ほどとは違い大きく息を吐いてから、その男に近づいた。
「やあ、フィリップ。久しぶりだな」
「アーサー?珍しいな。君から声がかかるなんて」
彼……フィリップ・コリンズは驚いたようだが、声をかけたアーサーに気さくに応じた。
容姿は悪くないが、表情や話し方に軽薄さがにじみ出て、真っ当なご令嬢方には相手にされない部類の人種だ。
カーテンの陰にいる彼女もきちんと見抜いたのだろう。
「いつ以来だ?ウォルターにはあったかい?」
「いや、まだだ。でもジョージアナ嬢は見かけたよ。元気そうで安心した。アーサーにエスコートを頼んだと聞いて、ちょっと妬けたがね。僕も幼なじみなのに」
フィリップがほんの少し悔しげに笑う。
(だったら、素行を改善しろ……)
笑顔を貼り付けたまま、心の中で悪態をついた。
エスコート云々は聞き流し、
「ウォルターも君に会いたがっていたよ。何せ君は紳士クラブに顔出さないから」
と、暗に例の醜聞を匂わせる。
正しくは顔を出さないのではなく、出せないのだが。
「あ、ああ。そうだな。挨拶してくるよ。じゃあ、また」
フィリップは正しく理解したようで、顔をひきつらせながら、そそくさとその場を立ち去った。
その後ろ姿を見送り、十分に離れたのを確認してから、アーサーもくるりと踵を返しバルコニーの側まで戻る。
だが、既に彼女はいなかった_______。