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「こんばんは、ブリムローズ嬢」
グラスを片手に壁の花となっていたブリムローズは、アーサーに声を掛けられてドキリとした。
アマースト伯爵の夜会から三日。
今日の夜会にはブライアンではなく長兄と来ていたのだが、彼は今意中の女性とのダンスで側におらず、友人も見つけられなかったのでプリムローズは仕方なく壁際でなるべく目立たないようにしていた。
「フォスター子爵……」
初めて言葉を交わした時と同じ深い空色の瞳がプリムローズを見つめていた。
「お一人ですか?」
アーサーはまわりを見回し、再びプリムローズに目を向けるとそう訪ねた。
「今日は兄と参りました。今はダンスに……」
「そうですか。もし先約がなければ、今夜もダンスにお誘いしても?」
「は、はい。もちろんです。あの……ありがとうございます」
プリムローズがダンスの誘いに礼を言うと、アーサーは手を差し出した。
伸ばされた長い指先は男性らしいのに綺麗に整って見える。
美しい人は指先まで美しいのだな、とプリムローズはぼんやり思ってから、そんなことを思った自分を恥じて赤面した。
その手を取ろうとしてグラスを持ったままだったことに気付き、慌てて近くにいた給仕にグラスを渡す。
アーサーの手に自分の手を乗せたところで、
「……少し暑いですか?手が熱いし、顔も赤いですが」
と言われ、プリムローズは更に顔を赤らめた。
まさか疚しいことを考えていたからです、とも言えず焦る。
「あ、ええと……そう、ですね。実は少し暑くて……」
「それでしたら、テラスに出ましょうか。確かにここは熱気がすごいですしね」
アーサーは多くの人で賑わう会場を見回した。
そして、プリムローズが頷くと彼女の手を自分の腕に掛けさせて、開け放たれていたテラスへと続く両開きのガラス戸を抜け外へ出た。
春とはいえ、夜のひんやりとした空気は火照った体には心地良い。
テラスには誰もいなかったが、その先にある庭園には何組かの男女が見受けられた。
今夜は満月で、会場から漏れる灯りも相まって、テラスは夜とはいえ仄かに明るい。
(あっ……)
ふと、男性と二人で出てきてしまったことに気付き、軽率だったのではないかとプリムローズは不安になった。
一人で会場を出ないこと、男性と二人きりにならないこと――――――それは社交界に出る前に母親に何度も注意されていたことだ。
一度噂になってしまえば結婚しない限り女性の名誉は著しく傷付くことになる。
(でも、フォスター子爵はとても紳士だわ。それに……)
彼の容姿と立場であれば、プリムローズを相手にせずとも恋人には困っていないだろう。
すぐそこの広間には人がたくさんいるし、女性に無礼な振る舞いをするとも思えない。
プリムローズは心配ないだろうと結論付けて、しばらくここで涼んでいくことにした。
「社交界には慣れましたか?」
隣に立つアーサーに話しかけられ、プリムローズは顔を上げた。
その質問は色んな人からされている。
「はい。……いえ、ごめんなさい。嘘です。本当は全然、慣れません」
いつもは笑顔で肯定していたが、それは他人の目を気にして取り繕った答えだ。
でも、アーサーなら淑女らしくない自分の答えを面白可笑しく笑いものにしないだろうと思って、何となく本音が出てしまった。
まだ二度しか会ったこともないのに、なぜか信頼できる人だと確信している自分がいる。
「人付き合いが苦手ですか?」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、上手く会話できているのか不安なんです。淑女らしく振る舞えているのか……」
「なるほど。でも、社交界にいる者が皆、気の利いた会話ができるわけじゃありませんよ」
「そうでしょうか……」
「聞き上手であることも必要な社交術です。最初は相手の話を聞くことで、話術を学ぶのも良いかもしれません」
アーサーはプリムローズの目を見て笑いかけた。
彼の言葉や表情には自信からくる力強さがあって、とても説得力があるように思えた。
確かにプリムローズはデビューしてから今まで――――――短期間ではあるが――――――話すことばかりに意識が向いていて、人の話はあまり聞いていなかった。
他のことは見よう見まねでやってきたというのに、一番苦手な会話についてはは全く記憶にない。
その場その場をやり過ごすことに必死で勿体無いことをしてしまった。
社交界には素晴らしい人がたくさんいるのだから、分からないことは自分が素敵だと思う人から学べば良いのだ。
そんな簡単なことに指摘されるまで気付かなかったのは恥ずかしいが、プリムローズは胸のつかえがとれて楽になった。
「ありがとうございます、フォスター子爵。わたし、その通りにしてみます。やっと答えが見つかったみたいで少し楽になりました」
「どういたしまして。あなたは真面目過ぎて、周りが見えていない時があるようですから、肩の力を抜いてみれば変わりますよ」
「はい」
「では、そろそろ戻ってダンスの相手をして頂けますか?」
「よろこんで」
目の前が開けたような気分になり、プリムローズは嬉しくなった。
アーサーはやっぱり紳士で信頼できる人だ。
社交界にいる素敵な人の筆頭は彼だとプリムローズは密かに心に思ったのだった。
§
それから、度々夜会で会う機会はあったが、他の令嬢とプリムローズとでアーサーの接し方が違うということもなく、顔見知りの一人程度の関係が続いた。
アーサーのまわりには必ず人が集まるので、二人きりで話すことはあれ以来ない。
内向的なプリムローズには遠い人であり、また他のご令嬢方のように積極的なアプローチができる性格でもないので、一歩引いた場所で眺めているだけだ。
両親も特に娘に頑張らせようとはしなかったので、プリムローズは社交界に慣れることに専念していた。
まずは友人を増やし、できるだけ顔を売ることが大事なのだ。
そうして一年目は大きな出来事もなく終わった。
状況が変わったのは二年目に入る少し前――――――社交シーズンが始まったばかりの頃だった。
グレンヴィル侯爵家からプリムローズをアーサーの婚約者に、との申し出があったのだ。
グレンヴィル侯爵家といえば、貴族社会のみならず平民ですら知らない者はいないほどの家柄で、ラッセル家にとってはこの上ない縁組である。
アーサーの父は現国王の忠実な家臣であり、また国の中枢を担う人物としても名高い。
やや強面なため近寄り難い雰囲気はあるものの、社交嫌いというわけでもなく、その人脈は国の隅々にまで及んでいた。
政治的な付き合い以外では、爵位に拘らず自身が有能だと思う者、面白味のある者との付き合いを好んでいるらしいことも有名だった。
一方、プリムローズの父ラッセル伯爵はといえば、どこをとっても普通。
貴族社会の平均値と言って良いほど、突出したところのない人物である。
娘の目から見た父は温厚ではあるが切れ者とは言い難く、かといって愚鈍でもない。
交遊関係も自身と似たような生活水準の貴族に限られていたし、資産についても伯爵家の体面を保てる程度には裕福という、極めて普通の貴族だった。
つまりグレンヴィル侯爵家とラッセル伯爵家には、「貴族」という接点以外には何の繋がりもなかったのである。
そんな青天の霹靂とも言うべき縁談なので、両親からは受けても断っても構わないと言われたが、この先これ以上に良い縁が結べるとも思えなかったので「進めて下さい」と返答した。
結婚に対して淡い期待を抱いたこともあったが、社交界1年目を経験した今、売れ残る恐怖の方が勝っている。
貴族女性達の噂話は社交界初心者にはかなり強烈で、噂の的になるくらいなら政略結婚でも何でも良いとプリムローズに思わせるほどだった――――――が、本音を言えば躊躇う気持ちがなくもない。
結婚適齢期ではあるが結婚はまだもう少し先だと思っていたし、婚約に至るまでには物語のような恋をしたいとどこかで期待もしていたのだろう。
婚約自体には快諾したものの、そんな甘い空想の入る余地もない現実にがっかりしたのも事実だ。
それに、婚約者が完璧過ぎた。
グレンヴィル侯爵の息子という立場もあるが、父親譲りの優秀さと端正な顔立ちのため、結婚適齢期の娘を持つ親世代からは非常に注目を浴びていた。
そんな彼がなぜ自分なんかを選んだのか……その理由が分からないのもモヤモヤする。
結婚を決めたものの、気持ちは日を追うごとに憂鬱になっていった。
しかし、そんなプリムローズの気持ちをよそに婚約のあれこれは滞りなく済んで、気付けばアーサーの婚約者となっていたのである。
半月ほどで正式にアーサーの婚約者におさまったのは、持参金など揉めるような要因がなかったせいだろう。
プリムローズはラッセル伯爵家の長女だが、家は当然弟のブライアンが継ぐから、プリムローズが他家へ嫁ぐことにも何ら問題はない。
正式に婚約をしたからには結婚に向けての準備は進んでいく。
プリムローズには一年後の結婚式がとても遠いことのように思えた。