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プリムローズが初めて彼と言葉を交わしたのは、デビューした年のシーズンも半ばを過ぎた頃のことである。
父の友人であるアマースト伯爵から紹介されたのが彼――――――アーサーだった。
「やあ、プリムローズ。久しぶりだね」
かけられた声に振り返ると、恰幅の良いアマースト伯が近づいてきた。
よく見知った顔にプリムローズはホッとして微笑む。
今日は両親ではなく、弟のブライアンと出席していたが、彼は友人を見つけるとプリムローズを放って、どこかに行ってしまったのだ。
おかげで一人で友人を探す羽目になり、少々心許ない思いをしていた。
プリムローズは不安を押し隠すように握り締めていたドレスの胸元を飾る薄紫色のリボンの端をそっと離す。
「おじ様、ご無沙汰しております」
「一人かね?ブライアンと一緒にいるのを見かけたが」
「それが……弟は友人のところに行ってしまいましたの」
「ははっ!相変わらずブライアンは自由人だな」
その弟の評価についてはプリムローズも大いに賛同したい。
弟といってもブライアンとは双子なので同い年。
プリムローズとは違い社交性に優れた弟は友人も多く、あっという間に社交界に馴染んでしまった。
人見知りでなかなか他人と打ち解けられないプリムローズには、羨ましくもあり少し妬ましくもある。
「ところで、ダンスの先約はあるのかい?」
「いいえ。まだ来たばかりですし……」
「それなら、ちょうど良かった。紹介させてもらいたい人がいるんだよ」
アマースト伯はそう言うと、後ろを振り返った。
そこで初めてアマースト伯が一緒にいた人物に気付く。
「グレンヴィル公爵は知っているかな?彼は公爵のご子息のフォスター子爵というんだ」
プリムローズより頭一つ分高い彼は、アマースト伯の紹介を受けてにこやかに微笑んだ。
グレンヴィル侯爵家といえば、この国で知らない者はいないほどの名家。
もちろんプリムローズも知っているし、彼は結婚適齢期の娘を持つ貴族にとっては有名な人物だ。
いずれはグレンヴィル公爵を継ぐのだが、それまでは従属爵位であるフォスター子爵を名乗っていると聞いたことがある。
「アーサー・ジェームズ・スコットです。以後、お見知りおきを」
プリムローズはその吸い込まれそうに澄んだ瞳に引き付けられた。
(綺麗な人……綺麗な瞳……)
相手をじっと見つめるのは淑女として褒められた作法ではないが、プリムローズは目を離せなかった。
蒼天を映したような瞳に艶やかな黒髪。
噂に聞くアーサーは何度か遠目に見かけた時にも素敵な人だとは思ったが、近くで見るとその秀麗過ぎる容姿に圧倒されてしまう。
「……プリムローズ・ラッセルと申します」
膝を折り、軽く頭を下げてお辞儀をする。
「プリムローズ嬢。もし、よろしければ次の曲は私と踊って頂けますか?」
アーサーは社交辞令だろうとは思うが、ダンスを申し込んでくれた。
深い空色の瞳がプリムローズを見つめている。
「え、ええ。よろこんで」
プリムローズは少し慌ててしまい、頬を赤らめた。
どんなに動揺しても決して表には出さず常に優雅に振舞うこと――――――母親に何度も言われたのにいつもこんな風に子供っぽい失敗をしてしまう。
初対面での挨拶という大事な場面で上手く対応できない自分にプリムローズは嫌気が差した。
だが、アーサーは呆れたようでもなく、優しく見つめている。
大人の余裕だろうか。
(こんな人もいるのね……)
世慣れていないプリムローズのような態度は、洗練された女性を好む社交界の男性からは敬遠され、大抵は微妙な雰囲気になるのだが、アーサーは特に気にした風もなかった。
アマースト伯はそんな二人の様子に満足気に頷き、
「良かった良かった。それじゃあ、私はまだ挨拶回りがあるから失礼するよ」
と、にこやかに去っていった。
アーサーは軽く会釈して、見送っている。
(え……?待って、おじ様。二人で話なんて……)
プリムローズは慌てて引きとめようとしたが、アマースト伯はその体格の割には素早い身のこなしで人並みに紛れていく。
途方に暮れて後姿を見送っていたプリムローズは、初対面の男性と取り残されて再び心許ない状態に逆戻りした。
不安に表情を曇らせたプリムローズだったが、同じようにアマースト伯を見ていたアーサーが振り向いたので何とか笑顔を作る。
「プリムローズ嬢は双子なんですよね?私の弟があなたのご兄弟と近衛騎士団で一緒なんですよ」
「まあ、ブライアンと?」
「ええ。よくお名前を聞きますよ。面白い方のようですね」
「面白い……そうかもしれませんわね。物は言い様というか……弟さんに悪影響がなければ良いのですが」
プリムローズは自由気侭な弟を思い、顔をしかめた。
彼とて伯爵家の嫡男なので、そうそう家の恥になるような振舞いはしないだろうが、心配は尽きない。
アーサーは苦笑いをして首を振る。
「私の弟……ダニエルと言うのですが、彼もなかなかの自由人で。二人は性格が似ているので気が合うんでしょうね」
「ダニエル様……お名前をお聞きしたことがありますわ。カードをよく一緒にされるとか。……弟は大きくなってから自分のことをあまり話さなくなったので、お友達もよく知らなくて……」
「そんなものですよ。女性には理解しにくい話題もありますしね」
アーサーは悪戯っぽく微笑むと、
「そろそろ次の曲ですね……お手をどうぞ」
とプリムローズに手を差し出した。
すっかり忘れていたが、ダンスの約束をしていたのだ。
短い会話ではあったが存外話しやすい相手で、緊張し過ぎて変な受け答えをするようなこともなく、プリムローズはホッとしていた。
この分ならダンスも何とかこなせるだろう。
煌びやかな光に包まれたホールに目を向け、プリムローズは少しだけ心が浮き立つ気分を味わったのだった。