第1章 その33 沢口充、決意する
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山本雅人が、伊藤杏子の家で、母親の桃枝を交えて夕食の団欒を楽しんでいる、その少し前。
沢口充は、非常に緊張していた。
学校の医務室を出たのはいいが、自宅まで送り届けてくれるという沙織夫人の言葉にうっかり乗ってしまったのが原因である。
高級外車に運ばれて着いたところは、吉祥寺駅からけっこう離れたところに、広大な敷地を構えている並河邸だった。
話が違うのである。それならそれで、心の準備が必要だった。
「いったんうちに寄っていって。泰三さんが帰宅しているから、顔を見せてやってくれないかしら。もちろん、そのあとで充くんの家に送るわ。ご両親に、ご挨拶したいのだけど、構わなくて?」
にっこり笑った、沙織夫人に、充は抗えなかった。
ところで並河邸は、ものすごい豪邸だった。
何がすごいといって、頑丈そうな格子に閉ざされた門を開けてもらってから玄関までが遠いのである。スピードを出している車で五分はかかった。
「充くん、寒いの?」
後部座席で隣に座っている香織が、充の腕を取り、
「冷たくなってる」と言って、すべすべの頬を寄せてきた。
もちろんくっつくのは顔だけではない。どこそこ柔らかい感触が、青少年の煩悩を、いやが上にも刺激するような密着具合であった。
思わず、ぶるっと身震いをして。
「寒くは、ないよ」
かろうじて充は答えた。
「じゃあどうして、固まってるの?」
可愛い声で、耳元で囁かれた充は、(もうあかん、助けて)と思った。
絶対に何の意図もないであろう香織が、無防備に密着してくるからだ。
車内は、ゆとりのある広さなのに。
自制心を試されているのだろうかと、冷や汗が流れた。
「充くんは緊張しているのよ」
三人が余裕で乗れる後部座席に、充、香織、香織の母である沙織の順に並んで腰掛けている。
「あなたの正式な婚約者として初めて我が家に来てくれるのよ。緊張もするでしょう。これから泰三さんに会うわけだし」
沙織夫人は、終始にこやかな笑みをたたえている。
「パパに会うから? だいじょうぶだよ充。パパは反対なんてしないから」
屈託のない笑顔を向ける、香織。
(でも沙織さんの申し出で婚約者になったとはいえ、香織さんが、おれなんかにこんなにくっついているのを見たら、殴られるだろうな……)
覚悟は決めているつもりの充であるが、恐れないわけではなかった。
ことに、並河泰三は、以前出会ったときのことを思い浮かべると、背も高く、がっしりとした体つきの壮年だった。毎日のようにスポーツジムとかに通って身体を鍛えているに違いないのだ。
会ったとして。
どう話を切り出せばいいのやら。
(お嬢さんをください? いや高校一年だぞ早すぎる? お嬢さんと、お付き合いしたいと思っています……かな?)
つい頭の中で悶々と考えてしまう沢口充。
今年の春、高校に入学して、まだ半月しか過ぎていないのだ。
突然、彼女ができて。
というより彼女という段階を飛び越して、『婚約者』『生涯の伴侶』である。
婚約だとか伴侶だとか言い出したのは沙織夫人であるが。
それに香織も、香織の中の多重人格である(最も古い意識だと沙織は言う)野性味溢れる幼い少女、ルナも。
どちらも、自分を好きだと言ってくれているのだ。
一目惚れした相手である香織に告白されて、嬉しくないわけがなかった。
(それに、キスした……香織さんと)
もちろん初恋。
もちろんファーストキス。
「みつる。充くん。だいすきっ」
わけもわからず身体を押しつけてくる香織は、黙っていれば大人っぽい美人な見た目よりもずいぶん無邪気で幼いところもあって、新鮮な驚きだった。
(嬉しいけど、おれも青少年だし! 刺激されるとつらいよ。注意をしておくべきかな。でも沙織さんが何も言わないのに。おれを信用してくれているからなのか?)
「わふん!」「わふわふ!」
座席の後ろの方から、香織が飼っている二頭の犬の声もする。充が、犬たちに懐かれているのは間違いない。
前途多難でもなんでもいい。
とにかく香織の父親、並河泰三に、交際を認めてもらわなくては!
門を車が入って並河邸の正面玄関にたどり着くまでの間に、沢口充は、決意をあらたにしたのだった。
「よし! おれ、がんばるよ!」
「なにをがんばるの?」
「えっ!? え、えーと、その」
口ごもって、けれど、決意した勇気を振り絞る。
「香織さんのお父さんに、殴られる覚悟をしたよ」
「なんで殴られるの?」
きょとんとする香織。
それとは対照的に、沙織夫人は、さもおかしそうに、声をあげて、ころころと笑った。
※
充の非常な決意は、拍子抜けすることになる。
結論から言って。
並河泰三は、全てを知っていた。
既に、沙織夫人から、事情は聞いているというのだ。
充に向ける視線も、ずいぶんと柔らかい……というより、生温かった。
まるで、同情を禁じ得ないというような。
「これから、がんばります。よろしくお願いしますっ!」
充は、勢いよく頭を深々と下げた。




