第1章 その31 家族写真
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おれ、山本雅人は、ものすごく緊張している。
感激している。
どうしてかって?
一目惚れした、同じクラスの伊藤杏子さんの自宅に招かれたのだ!
今から、玄関を入ろうとしているところ。
招いてくれたのは杏子さんのお母さんだ。
おれが喫茶店の中で気分が悪くなるという、かっこわるいことになったせいなのだ。
かっこわるいのも、たまには良いこともある。
その喫茶店はダイヤ通り商店街の端にあった。
創業は昭和54年だとか。
それはもう歴史のある有名なところで。
杏子さんも、お母さんに連れられて行ったことがあるというくらいで、ひとりで入ったことはなかったのだと、あとで知った。
大人向けの知的な空間って感じだったもんな。
いつかは、もっと、きちんとして、また訪れたいものだ。
デートとかなら最高なんだけど。
もちろん、このときのおれには、そんなことまで考えられる余裕はなかったのだが。
入ってきたときと逆に、階段をのぼり、重い鉄の扉を押して開いた。
杏子さんの家までは、車で行った。
徒歩15分くらいだというのだが、おれの体調を気遣ってくれたのだ。
タクシーではない。
学園オーナーの並河沙織さんが手配してくれたという、高級そうな車(運転手つき)に乗せてもらった。
至れり尽くせりのオーナーだ。
だが、実のところ詳細はよく覚えていない。
杏子さんの自宅に初めて行くんだぜ!
興奮と緊張のるつぼだ。
もう何が何やら。
やがて車を降りたのは、閑静な住宅街。
築30年だという、ちょっとレトロな、雰囲気の良い一軒家の前だった。
香りの良い花が咲いている、かわいい花壇。
掃除の行き届いた玄関口。
とても、きちんとした、まっとうな人が住んでいるのだろうと感じた。
「遠慮しないで入って!」
先に立って行くのは杏子さん。
「どうぞ、雅人さん」
お母さんは、玄関を開けて入って、促してくれたけれど、おれは、躊躇った。
生まれて初めて、好きな女の子のお宅を訪問するんだ。
「お邪魔します」
良い香りがした。
おれと親父しか住んでない家の、おっさん臭とは雲泥の差だ。
花が飾ってある。
上がり口に靴が散乱していたりもしない。
清潔で整理整頓されてる。
杏子さんのお父さんはうちの親父とは違って、きちんとした人なんだろうな……いつ頃帰宅するのかな。失礼にならないように、ちゃんと挨拶しないと。
そして今。
おれは居心地の良いリビングで、杏子さんのお母さんが淹れてくれた美味しいほうじ茶を飲んだ。
お礼を言って、姿勢を正す。
「すみません、ご挨拶もしないで。杏子さんと同じクラスの、山本雅人です。助かりました。ありがとうございます」
「そういえば、わたしも名前を言うのを忘れてました」
杏子さんのお母さんが、くすっと笑った。
「ママは、うっかりなのよ」
杏子さんも笑う。
「伊藤桃枝です。桃の枝」
……桃って、魔除けだったな。
ふとおれは、そんなことを思った。
あらためて、桃枝さんの顔を見た。
優しさと凜々しさとが同居している、すっきりとした美人さん。
「どうしたの。ママのことそんなに見て」
「……あ」
そんなに長い間、見ていたのか。
「……お母さんって、こんな感じなのかなあって」
「え?」
きょとんとしている杏子さん。
申し訳ない。
「あ、ゴメン、ヘンなこと言ったね。おれの母さん、おれが赤ん坊の時に死んだんです」
まずい、しんとしてしまった。
おれは慌てて、言い訳のように言葉を連ねる。
「最初から、いなかったんで、つらくはなかったけど……お母さんって、よくわからなくて……あれ? うまく言えない……なんか……」
おかしいな。
目から水が。
「雅人くん」
桃枝さんが、近づいて。
「さびしかったわね」
静かに、言ってくれた。
「……ああ。そうか。……寂しかったんだ、おれ」
やっと、いつも胸のどこかにあった感情のことが、わかった。
「雅人おにいさん」
あ、やばい。
杏子さんの目に、大粒の涙が。
「こ、これは、もらい泣きだから! 雅人のせいなんだからねっ!」
目が真っ赤だ。
とてもきれいな涙だと、思った。
恥ずかしくなって目をそらした。
リビングの端。
カウンターの上にある写真立てに気がついた。
そこに映っているのは、桃枝さんとイケメン。これがお父さんだな。それに杏子さん。今より幼い。小学生? 八歳くらいかな。
後ろに見えているのはシンデレラ城。お父さんはネズミのキャラの帽子。杏子さんは、ミニー。お母さんはアヒルの帽子。
ディズニーランドに一家で出かけたんだな。
幸せそうな家族三人の、笑顔の写真だった。




