第1章 その30 ファーストキス
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時間は少し戻る。
沢口充は、まだ学校の医療施設内にいた。
「あれ?」
目が覚めたら、ベッドに寝ていた。
「ここ、どこ? おれ、どうしたんだろう?」
「よかった、気がついた!」
「……並河さん?」
ベッドの脇にいたのは、クラスメイトで。
一目見た瞬間から「好きだ」と思っていた並河香織だった。
驚くべきことが起こったのは、次の瞬間。
「ごめんなさい。うちの駄犬が! ごめんなさい!」
感極まった様子で、香織が抱きついてきたのだ。
「うえっ!?」
予想外のできごとに、充はもう一度ぶっ倒れそうになった。
柔らかくて、なおかつしっかりと弾力のある感触が、顔に押しつけられて、視界がすっかり塞がってしまっている。
(こ、これって……まさかまさか……並河さんの、む、むむむむね?)
「落ち着きなさい、香織」
大人の女性の声?
誰だろう?
「だってママ! 充くんが、このまま目が覚めなかったらって思って、怖くて」
「でも気がついたでしょう? あなたが動転していたら、充くんも困ってしまうわ」
(並河香織さんと、お母さん? なのか?)
やがて、ゆっくりと香織は充から離れていった。
なぜだか寂しいと感じた。
「沢口充くん。わたしは並河沙織。香織の母です。きみとは初対面じゃないのよ。覚えているかしら?」
声のしたほうを見て、充は再び驚いた。
「お、覚えてます! 花見の夜にお会いしました! 雅人のお父さんたちと一緒に」
「嬉しいわ」
艶然と微笑む、沙織夫人。
ふいに、違和感。
「……あれ? なんだろう、さっきも、似たようなことが……あった気がする」
「どうしたの?」
「さっきも、お会いしませんでしたか? 確か、この学院のオーナーだっておっしゃって……八年前から。……あれ? 八年前……?」
思い出そうとすると頭が痛くなってきた。充は、頭を抱える。
「充、充! だいじょうぶ?」
香織はまた、動揺をあらわにして充に抱きついた。
「死んじゃいや!」
また、違和感。
普通に考えれば、香織の反応は大げさすぎると言えた。だが、充は、この状態に既視感を覚えたのだった。
※
「みつる……いや、死んじゃいや!」
香織さんが、泣いてる。
「おれは死んでもいい。おねがい、かみさま。みつるを、たすけて!」
※
(そうだ。あのときも香織さんは『死んじゃいや!』って)
「……だいじょうぶだよ、香織さん。おれは死なない。きみが生き返らせてくれたんだ。神様に願って」
自然に口を突いて出た。自分でも意外で驚いた。
「みつる……?」
香織の瞳が、わずかに蒼い輝きを宿す。
「おぼえてるの? 充。おれも、忘れていたけど、事件の後になって思い出したんだ……助けてくれたこと。八年前に、今の姿のままの充が」
再び香織は充に顔を寄せた。
こんどは、そっと。
「生きてる……充は、生きてるんだね」
「やれやれ、せっかくトラウマにならないように封印していたのに。二人とも自力で思い出すなんてね。記憶は、穴だらけみたいだけど」
呆れたように呟いたのは、沙織夫人だった。
「どういうことなんですか?」
平静を取り戻した充は、沙織夫人に尋ねた。
「なんか、おかしいんです。おれ、花見の夜に、あなたに出会って。引き留めてもらったけど香織さんたちには会わないで、雅人と帰宅したのに。もう一つの記憶があるんです。すごくおぼろげだけど。花見の宴の席がすごく豪華で。『牙』と『夜』がいて、案内してくれて、小さな香織さんと杏子さんに会った。二人とも危険で、何かがあって……あれ? だんだん、思い出せなくなってきた……」
「充っ!」
心配そうに香織は更に充に抱きつく。
「それでいいのよ。大切なのは、これからのことですもの」
「これから?」
戸惑う充。
沙織夫人は、鋭く、きっぱりと切り出した。
「あなた、香織と婚約して」
「はい!?」
「ママっ、なにを言い出すの!?」
「クラスメイトや杏子ちゃん、雅人くんには言わなくてもいい。香織とあなたと、わたしと泰三……主人だけの約束で構わないけれど」
充が無言なので、さらに、沙織は言いつのる。
「それとも、香織のことは嫌い?」
「そんなわけないですっ!」
すぐに充は反応した。
「おれはもちろん! OKです! ただ、香織さんの気持ちはどうなのかなって、心配になって」
「おれも充が好きだよ! ずっと前から。八年前から」
香織の声が震えた。
充はゆっくりと上半身を起こし、香織を抱き寄せる。
「あれはどういう体験だったのか、よくわからない。だけど、おれも、香織さんが好きだよ。きっと、何もかも忘れても。ぜったい、何度でも好きになるよ」
それには確信があった。
何度でも。恋に落ちる。
「では決まりね! これで香織も『ルナ』も。あなたの婚約者よ。そして伴侶」
「……『ルナ』!? そうだ、ルナは!」
充が叫んだ。
とたんに、彼の腕に抱かれていた香織は、くすくすと笑い出した。
「おれのことも、思い出してくれたの、みつる?」
香織に比べれば、少しだけ幼い声と表情。
そして積極的。
それが、香織のもう一つの人格『ルナ』だ。
「香織も納得したよ。だから『香織』も、おれ『ルナ』も。もうずっと永遠に。おまえのものだよ、充」
「……おれも。永遠に、きみのものだ」
どちらからともなく、顔を寄せ合って。
二人はキスをした。
充はさっき『ルナ』には唇を奪われたけれど、あれは正確には生命エネルギーを補うための『食事』だったから、これが二人のファーストキスなのだった。
「あなたには、この子を守る力をつけてもらうわ」
沙織夫人は宣言した。
「最低でも銃の扱いは覚えてもらうから」
「え?」
「まずピストル。マシンガンも扱えるように鍛えるわ」
「え」
ここ日本です。お母さま。
おれどこを目指してるの?
いや、どこへ連れてかれるの?
切実に思った、充だった。
「だけどママ。ここは日本だよ。銃は持てないよ」
香織にはまだ、常識というものがあった。
「そうねえ。銃刀法ね。しかたないわ。もちろん武器の扱いはいろいろ教えるけれど。法律違反で捕まったら香織を守れないものね」
沙織夫人は頭をひねった。
「じゃあ投石紐はどうかしら。あなた、スリングショットを使ってるでしょ」
「あれはパチンコです。武器では」
「ほら、これなのよ」
沙織夫人は、ベルトのような細長い紐を取り出した。
「南米のケチュア族の人はワラカと呼んでいるらしいわ。これで石を投げるの。まあ普通、殺傷力のある武器だとは思われないでしょ? そこがミソよ」
「えええ?」
「投げるものを爆発するような弾にしておけば!」
「過激すぎますよ!」
充が困惑のあまり、従兄弟の雅人にメッセージを送ったのは、このときだった。
しかし、やがて、スマホから手を離す。
説明しきれるものではないと気づいたからだった。
これは運命だ。
充は、あるがままを認め、受け入れるしかないのだ。




