第1章 その28 杏子さんと初デート、なのか?
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おれ、山本雅人が通っている私立旭野学園高校では、突然行われた健康診断も滞りなく終わった。
しかし妙だ。うなずけない。
全校生徒だと対象は500人以上。レントゲンだの血液検査だのがあれば、それなりに時間がかかるはずなのに、すべて終わってもまだ日は傾いていない。
どうなってるんだ。
確かに病院関係者の人たちは慣れた様子で、機器の準備や設置、生徒の誘導も手早かったけれど。
部活のない放課後。
ゆったりのんびりムードに包まれた教室。
「ねえ、お腹すいたね」
「駅前に美味しいケーキ屋さんがあるんだけど」
「吉○家で」「松○」「クレープがいいよ~」
「ラーメン食って帰ろう」
賑やかだな~。
……あれ?
おかしいな、なんか忘れてないか、おれ?
そんなとき。
スマホが鳴った。
メッセンジャー通知?
『やばいことになった』
充からのメッセージが入っていた。
「充!? 充だ! そうだ、おれなんで忘れてた!?」
思わず声を上げてしまったが、なぜだか同級生の誰も注意を払わないのだ。
まるで聞こえてないか、耳に入っても認識してないみたいに。
「ねえ、山本くん」
そんな中で、こちらにやってきたのは、伊藤杏子さん、一人だけだった。
「いま充くんって言った? 沢口充くんだよね?」
「うん」
「あたし、さっきまで忘れてたのよ。おかしいなあ」
伊藤さんは、おれの正面に立って、じっと、おれを見つめた。
おれと伊藤さんの身長はほぼ同じくらいなので。
まともに目が合った。
うわ。
なんてきれいな子だ。
ちょっぴり淡い、茶色の瞳の底が、水の中を覗いたように神秘的に見えた。
「……くん。山本雅人くん、ってば。聞いてる?」
おれはしばらく思考停止していたらしい。
伊藤さんに、少しきつい声音で呼びかけられて、はたと我に返ったのだ。
「あ、うん」
「でしょ?」
同意を求められている内容もわからずに、おれは頷いた。
「そうなのよ! 香織もまだ帰ってきてないんだけど、さっき、お母さまから使いの人が来たの」
「え? お母さま? 香織さん、じゃない並河さんの?」
「そだよ」
伊藤さんは、ちらりと周囲に目をやって、そっと、おれの耳元に顔を近づけ、声を落とした。
「あんまり大きな声で言わないでね。香織のお母さま、並河沙織さんは、この学校のオーナーなの。お父さまは貿易会社の社長さんだけど」
「……わかった。他のやつには言わない」
保証する。
と、伊藤杏子さんは、安堵したように息を吐いた。
「心配しないで、先に帰宅してほしいって。沢口くんのことは、オーナーが自宅まで送るから大丈夫だって」
「ほんとに?」
思わず疑ってしまった、おれ。
「あ、ごめん。並河さんは親友なんだよね。疑ってごめん」
「いいのよ。あたしもちょっぴり腑に落ちないんだもの。お母さまがそう言うのなら心配ないとは思うんだけどね」
彼女は、身を翻して、笑う。
「山本くん、西荻でしょ。あたしんちは吉祥寺駅の近くだから、駅まで一緒に帰らない?」
ものすごく魅力的なお誘いに、おれは、ときめいてしまった。
「よ、よ、よろこんで」
激しくうなずいた、おれなのだ。
しかし伊藤さんと二人きりになったかというと、そうではない。
駅に向かうなら一緒に帰ろうと、数人の女子や男子がまとめて参加表明してきたからである。
お邪魔虫どもめ。
空気読め!
集団で繰り出すのも悪くはないけどな。
※
「けど、これなんだろう」
おれはスマホの画面を、あらためて見た。
結局、吉祥寺駅のジューススタンドで飲んだあと、グループは自然に解散。それぞれ仲の良い組み合わせができてきていることと、伊藤さんが、山本くんと、沢口くんのことで話があると言ってくれたからだ。
その中にいた、川野昭二は、ずっと伊藤さんを気にしていたけれど。
悪いな、イケメンくん。きょうは本当に、話があるんだから。
おれは伊藤さんに、いいところがあるのよと案内されて、北口商店街の端のほうにあるカフェ「くぐつ草」に足を運んだ。コーヒーとカレーが美味しいという。
隠れ家みたいな入り口、階段を降りて中に入ると、不思議な空間があった。
洞窟を思わせる薄暗いホールの奥の突き当たりには、外の光が差し込んでいる明るい小さな庭に、グリーンが映えている。
カウンター席についたので、並んで座ることになった。
いかにもマスターっていう、物静かな雰囲気の男性がいる。
ここ、おれなんかが入ってよかったのかな? 大人向けじゃないのか?
ドキドキするよ。
「見てもいい?」
杏子さんが、横から手をのばして、おれのスマホを取り上げる。
いいも悪いもない。もう見てるんだから。
『やばいことになった』
『まだ帰れない』
『香織さんと』
『お母さんが』
さいごは一言。
『るな』
「……充くん。ルナに会ったんだ」
ふと、伊藤さんが、もらした。
「えっと? 伊藤さん?」
「杏子でいいよ。あたしも、雅人って呼ぶ」
ふいにくだけた口調になった。
「雅人は覚えていないの?」
真剣なまなざしで、覗き込んだ。
「え?」
「八年前のこと。……あれも、どう考えても、あり得ないんだけど……」
「八年前……」
「そう。ねえ、まさとおにいちゃん……?」
ふいに。
ぐらりと、目の前が傾いだ。
おにいちゃんと呼ばれたことが、確かに、あった……。
そうだ、だけどそれは、八年前ではなかった。




