第1章 その24 ルナという少女
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「しばらくぶりね。沢口充くん」
艶然と微笑んだのは、黒いスーツに身を包んだ美女。
「あの、どこかでお会いしたことが……あるんでしょうか」
充がためらったのは、こんな美人に出会ったら忘れるわけがないと思ったからだ。
きめの細かい肌は白く美しく、年齢不詳、背が高くスタイル抜群である。
瑞々しく若々しい美女なのに、落ち着いた感じがするせいで、二十歳そこそこにも見え、三十代と言われれば納得もいく。
「会ったのは井の頭公園よ。ライトアップされてたけど夜だったし、顔まではよくわからなかったかもしれないわ」
「わかった。思い出しました」
充は苦しげに言う。苦しいのは胸の上にはまだ、「ルナ」と呼ばれた、並河香織にそっくりな美少女が乗っているのである。
「4月1日の夜。従兄弟の雅人と、花見弁当を持って行った井の頭公園で」
「そうよ。思い出してくれたのね。雅人くんのお父さま、山本雅治さんとは長らく仕事でお付き合いさせて頂いているわ」
「あ!? 思い出しました!」
充の顔が赤くなった。
夜桜の下。
微笑んでいた、長い黒髪の美女。貿易会社の社長夫人であった。
高校生になる娘がいる、友人と一緒にもうじきやってくるから会ってやってくれないかと、花見の席にずいぶん引き留められたのだが、大人ばかりの席を遠慮して、充は雅人と共にその場を辞したのだった。
「並河沙織。香織の母です。よろしくね」
「こ、こちらこそ……」
身を起こそうとしたのがいけなかった。
再び、「ルナ」に、押さえ込まれる。
「動くな。ママのほうばかり見て。おまえは、おれの獲物だからな。おれが食うんだ」
はなはだ物騒なことを、ルナは口にした。
両脇に居る二頭の巨大な犬も、呼応するかのようにうなり声をあげた。
「獲物!?」
ルナの目が、青く光った。本当に取って食われそうな勢いだ。
「ルナ。よしなさい。強引に迫るものではないわ」
沙織夫人は、近づいてきて、ルナの頭を撫で、落ち着かせた。
「それに『獲物』というのは違うわ。そうねえ……伴侶、というべきかしらね」
「は、伴侶?」
「急な話でごめんなさいね。実は、あなたにお願いがあるの。沢口充くん。この子の伴侶になってやって。でも、その前に、事情をお話ししなくてはいけないわね」
沙織夫人は、椅子を引き寄せて充の傍らにいる白犬をどかせて腰を下ろした。
「この子は香織の最も古い意識なの。『ルナ』は、月を意味する。夜ごとに形を移す月は、香織の中にあるいくつもの意識をあらわすのに似合いの名だった。この子は最も古くて強い。瞳が青く光るのは、『魔力』が満ちているから」
「意識が、いくつもある? 『魔力』?」
「ええ。この子は『魔女』。わたしと同じ。目覚めたきっかけは、この子が七歳の時に、営利目的で誘拐され、殺されかけたこと」
「誘拐!? 殺されかけたって……」
身体を動かそうとして、また「ルナ」に押さえつけられる。
「動くな。食うぞ」
もれなく二頭の犬にも脅される。
「およしなさい。充くんを食べたら、無くなってしまうのよ」
「え~。そうなの? なくなっちゃう? もう食べれなくなる?」
小首をかしげた。
「そうよ。良い子ねルナ。おとなしくしてて」
沙織夫人は、続きを語り始めた。
「殺されかけたせいで、この子は『欠けて』しまった。生きていくのに必要な力がたりない。人というより『精霊』に近い……今も守護精霊さまのくださる特別な『水』で生命をつないでいるの。そのせいで、この子には『人ならざるもの』が見えてしまう」
「それ、もしかして闇の中にいる、うごめいているやつ? それならおれも見るよ。動物みたいなのとか人みたいなのとか。最近になってからだけど」
充は覚えていないが、それは4月1日の夜、それ以降のことなのだった。
「充くんは、怖い?」
沙織夫人の、真っ黒な目が、充を凝視している。
「……怖くは、ないかなあ。こっちに向かって来るわけじゃないし」
「あら、そうなの? 心が強いのね」
「そんなことないです。でも、香織さんも、あれを見てる? 怖いのかな?」
「怖くないぞ。おれは強いから。それに『牙』と『夜』もいるし。それから『ユキ』もいるよ」
そう言った少女の頭の上には、ちょこんと、白いウサギが乗っかっている。ウサギは行ったり来たり、充の顔に乗ってみたり、存在をアピールしているようだ。
「でも、大きい『香織』は、それが厭わしいんだ。逃げたいと思う。それで自分の中に閉じこもることがある。そういうときは、おれが、代わってやるんだ。おれは、あいつらを追い払えるから」
白い歯をのぞかせて、にやりと笑う。
しかし外見は、はかなげな美少女に他ならない。
「ねえママ。伴侶ってなに? こいつ、とっておけるの? そしたら、長い間、食べても保つかな? ちょっと、かじってみてもいい?」
ルナは再び充に顔を近づけ、頬を、ぺろりと舐めた。
充は、実のところちょっと嬉しかったのだが、喜んで良いかどうか、悩んでしまう。
「表の『香織』はどう思うか知らないけど。おれは、こいつが気に入った」
くすくすと笑った。
「いつか、食べる」
「いやいやいやいや! 食べないで! 食べるとなくなるって、さっき沙織さんが言ったよね!」
「充くん大丈夫よ。ほんとに食べるわけじゃないわ。ただ、きみの生命力を、ほんの少しずつ分けてもらうだけだから、そこの犬たちに、くれたみたいに」
沙織夫人は、おっとりと微笑んだ。
「あ、それから言い忘れたけど。わたし、並河沙織が、この学校のオーナーなの。八年前から。よろしくね!」




