第1章 その19 エイプリルフールお花見頂上合戦!(19)ただ春の夜の夢の如し、と
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ふいに、拳がずきずきと痛んで、おれは叫んでいた。
「うっわ痛てててて!」
「雅人どうしたんだよその手! 電車の中でどっかぶつけた?」
隣に居るのは、見慣れた、従兄弟の沢口充だ。
あれっ?
おれは、いったい、どうしていたんだろう。
気がついたら、吉祥寺駅のホームに、充と降り立ったところ。
左手に大きな風呂敷包みを持っている。
親父から頼まれた、花見弁当の重箱四段重ねだ。
「わかんねえ……あいたたた! すっげえ痛い!」
なんで拳に裂傷と打撲の痕があるんだ?
固いものを全力で殴りつけたみたいな。
けれど、それよりも重大なことがある。
なぜだか寂しくて。
ぽっかりと胸に穴が開いたみたいに寂しくて。
それが、つらかった。
今しも吉祥寺駅の井の頭公園口を出ようとしていた、おれ、山本雅人と、沢口充は。
花見弁当の重箱を風呂敷包みでぶら下げて。充は西荻窪の西友で買ったウーロン茶とミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。
四月一日の夜。まだ宵の口。
公園に向かう坂を下りながら、おれは少しだけ泣いた。
理由は、まったくわからない。
「雅人、目から水が出てる」
「うるせえな。拳が痛いんだよ。おまえ、もっと荷物持ってくれ」
「もう、わがままなんだから。そんなんじゃ彼女ができたとき、すぐに愛想つかされちゃうんだぞ」
「おまえのアネキの受け売りだろ。彼氏もまだいないくせにな!」
「あははは。姉ちゃん怒るぞ」
だけど、おれは知ってるんだ。
充も、目が赤いんだよな。
「あれ? 目からなんか水が」
こいつも、おれと似たようなことを言ってる。
階段の途中で立ち止まった、おれと充は。
地平に昇る、月を見た。
十六夜の月は、ほのかに赤く染まっていた。
なぜだか、背筋が、ぶるっと震えた。
坂を下りる途中、中学生っぽい少年少女の集団とすれ違った。
ああ、みんな春休みだし。花見かな。
剣道でもやってるのか、竹刀の包みみたいなのを持った男の子。そっくりな顔をした、双子の男の子と女の子。かな?
「ねえ紫苑。あれで良かったのかな?」
「だいじょうぶ。『理』は、ちゃんと流れてる」
「まあ、おれらでやれることは、やったんだし。お礼に何くれるのかなぁ、彼女」
「ほんとに『彼女』かどうか、わかんないよ?」
「なにそれ……まぁね。人ならざる存在なれば……」
どことなく意味深な会話が、ふと気に掛かり、足を止めて聞き入りそうになったけど。
思いとどまった。
うっかりすると充とはぐれそうなくらい、吉祥寺は人が多い。
「急ごう。親父達が飢えて待ってる」
「昇進祝いの飲み会で、お花見は、その二次会なんだよね。すっごくお腹すいてはいないよ、きっと」
「う~ん、そうだな。それに花見の席なんて、夕方から行ってとれるのかな。親父も思いつきで言ってんじゃないか。迷惑な! だいたい、どこにいるんだよ!」
日曜日の井の頭公園、花見シーズン真っ盛り。
ものすごい、混んでいた。
野外ステージの近くにいるという親父とスマホで連絡を取り合い、やっと見つけた。
「おう雅人! こっちだこっち」
何を嬉しそうに手を振っているんだか。
おれの親父である山本雅治は、四十そこそこ。総合商社の営業で、今年辞令が出て課長になった。昇進祝いという名目で課の有志で飲み会、その後、二次会行きたいメンバーで夜桜見物に繰り出したという訳だ。
親父は、もう相当に酔いがまわっていた。
同僚の人たちに迷惑をかけないでほしいものだ。
「くいもの持ってきたけど。今から花見? 場所あるのか?」
親父を入れて全員で七人。
おれと充はすぐ帰るつもりだから数に入れていない。
「おう大丈夫だ! ひいきにしてくれてる会社の社長さんがな、おまえたちに会いたいっていうから」
「はぁ~!?」
親父の言い分には、呆れた。
昔から世話になっている貿易会社の社長さんが、なぜだか、おれと充のことを知っていて(どうせ親父が話したんだろう)花見の席を設けてくれて、そこに、差し入れの料理と共に参加しようという心づもりなのだと聞かされた。
「そんなら、こんなに料理作らなくてもよかったんじゃね?」
「ね~。雅人がんばったのに」
「よけいなこと言うな!」
大いに憤慨した、おれと充なのだった。
夜桜の下。
ブルーシートを広げて、社長夫妻と社員さんたち数名は、待っていてくれた。
歓迎されたのは嬉しかったけど、おれなの? 料理なの? ってくらい、おれの唐揚げと充のスパニッシュオムレツは、好評だった。
行き違いで、社長令嬢と、その親友の女の子に出会えなかったのは、いたく残念だった。おれたちと同じ学年らしいのだが。
社長夫人は年齢不詳で美魔女って感じの、ものすごい美人だった。
だから、お嬢さんはきっと、とびきりの美少女に違いない。
おれたちは盛り上がっている花見の席を早々に辞して、帰宅した。
もう少ししたら娘と親友の子が来るはずだとか、かなり引き留めてもらったけど。
後ろ髪は引かれたけどさ。
大人の社交場みたいだったしさ。
「あ~あ。高校入ったら、彼女ほしいな」
ため息とともに、おれは、ぼやく。
「かわいい子に出会えるかもよ」
充は楽天的なことを言う。
「そんなに、うまく行くかよ……」
「あ。お嬢さんと、友達の女の子。名前を聞くの忘れたね」
夜風が、頬を撫でて吹きすぎていく。
どこかで誰かが、くすくすと、ひそやかに笑った、ような。
……ただ春の夜の、夢のごとし、と。