第1章 その13 エイプリルフールお花見頂上合戦!(13)影に潜むもの
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「香織さん」
充は、ぐったりとしている香織を抱きしめた。
小さい。並河夫妻は、充や雅人と同じ年頃だと言っていたけど。どう見ても七歳くらいだ。わけがわからない。
けれどただ一つ確かなことは、香織が、生きて、自分の腕の中にいるということ。
浅い呼吸。疲れ切っているはず。
なんとかして、一刻も早く並河夫妻のところへ連れ戻してあげなくては。
そのとき、少女のまぶたが、ぴくりと震えた。
「……うぅ」
かすかに、うめいて。
香織は、真っ黒な目を、あけた。
「……おまえ……だれ?」
「あ。そうだよな。初対面だっけ」
充は、焦った。
誘拐されて、あげく首を絞められて。どれだけ怖かっただろう。
「おれは充。きみを助けに来た。お父さんとお母さんに、頼まれたんだよ」
「パパとママが?」
香織の目は、もう怯えていなかった。
目を開けて最初に見たのが、いかめしい大人の男性だったなら、香織も再び怯え、警戒心を抱いただろう。
だが、先刻から、ぽかぽかと温かなぬくもりに包まれたように感じていたのは、目の前の、優しい笑みを浮かべた美少年だと、知った。
彼女を怖がらせるような粗暴さも荒々しさも悪意も、まったく、感じない。
「おまえ、が」
香織は、そっと、口にした。
「たすけてくれたの……?」
「ねえ。油断大敵って知ってる?」
ふいに背後で、楽しそうな声がした。
低めのイケメン声だったボスのものではない。
青年、または少年。手下の一人にいた若者の声でもない。
はりのある、どこか中性的な響きを帯びた、艶めいた声であったのだが、もちろん充には、そんな細かい所まで感じ取る、ゆとりなどなかった。
「きみ、知らないのかな? ざんね~ん。闇の魔女カオリが言ってたんだけどなあ。くすくすくす」
少し前まで獣のようにもがき苦悶の叫びをあげてのたうち回っていたボスの巨体は、今や微動だにしていない。
銀色の靄に包まれた繭のように静かになっていた。
その、横たわるボスの影に向かって、『牙』と『夜』が、身体を低く伏せ、牙をむき出しにして、唸った。
今にも飛びかかりそうだ。
「怖い怖い。こんなところまで魔獣を遣わすなんてどんなチートだよ。あの女、いや、女だかどうだか。あいつもたいがい底意地が悪い。どんだけ、その子に思い入れがあるんだろうねぇ」
ボスの影から、ぬるりと。
何かが抜け出た。
「影に潜むのは『牙』と『夜』みたいな主持ち魔獣の専売特許じゃないんだなぁ。こうすれば異界にも手が届くから好都合でねえ」
それははじめ少年の頭部で、つづいて肩、胸、胸の前で組み合わされた腕、腰、そしてついには、二十歳頃と思われる青年が、立ち上がった。
美青年である。
くすくすと、始終、笑っている。
整った美しい面差しに、しかしながら浮かんでいるのは、嘲笑。
悪意が具現化したなら、こういう姿をしているのではないだろうかと、かつて、これを称して言った者も、あった。
悪魔。
充が、ふと思い浮かべたのは、その言葉だった。
「ねえ君、その子をお渡しよ」
血のように赤い髪をした悪魔は、言った。
「ぼくが先約なんだから。ここで縛められて失神してるヤツに、今度こそ手に入れてやるって約束しちゃったからさぁ」
「手に入れる?」
充の背筋を悪寒がはしる。
「まさか香織さんのことを」
「察しがいいね。さすが若い脳は違うなぁ。くくくっ」
赤い髪の青年は、闇の中に身を置いて、白い指先をのばした。
「その子はぼくと同類。闇が似合う。だから、ここに残していきなよ。そしたら無事に、君だけはもとの世界に戻してやってもいいよ」
充は応えない。
香織の肩が、震えているのが、わかった。
充は、ただ、香織を抱いた腕に、力を込めて。赤い髪の悪魔を、見据えた。
「ふざけんな」
腹の底から、自然と声が出た。
※
おれ、山本雅人は、杏子さんの手を取って、踵を返した。
充のやつどうしたかな。まだ香織さんを抱っこしてるかな? 高校入学前に、もしや年下の窮地に落ちたお姫さまにフォーリンラブ?
実を言うと、つぶれたこぶしがすっげえ痛い。だからついふざけて軽口を叩いてみる。なんかしょっちゅう考えてないと痛みに神経がやきついて苦しくて叫び出しそうだ。
でも、我慢だ。
杏子さんの前だから。
杏子さんを捕まえていた男たちを、自分でも思い返すとちょっと『引く』くらい憤って殴りつけたから、手が切れたかつぶれたか。
だけど自分よりも年下の杏子さんに『もうやめて。あなたの手が』痛んでいるのにと気遣ってもらって。
弱気なところは見せられないと意地を張った。
おれ、ほんとにこの子に恋しちゃったかも。断じてロリコンではないけどさ。
吊り橋効果っていうんだっけ?
仲良くなれたら、いいな。……ほんの少しでいいから。
お友達から始めようよ。なんちゃって。
少しばかり開放的な気分になって浮かれていた、おれは。
充のほうを見て、ガツンと一発、頭にくらった。
それほどの衝撃を受けたのだった。




