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破瓜

作者: 叶 こうえ

過去作品です。

歳の差もの。

拙い描写、文章ですが、お読みいただけると嬉しいです。

 膝の上に娘の頭を乗せていると、少しだけ重く窮屈な気もするのだが、心地よさも確かにある。

「十六にもなって、母親の膝枕なんて……」

 嬉しい気持ちを隠して、加奈子は娘をたしなめた。娘はもう十六だった。母親の膝で昼寝をするような年では到底ない。

「だってお母さんの膝枕、気持ち良いんだもの。お肉がついてるからかな?」

 ふざけて加奈子の膝を軽くつねった後、娘は少し笑ったようだった。娘の肩の揺れが、加奈子の膝へと伝わってくる。

「失礼しちゃうわね。……お母さんだって、十六の頃はあなたよりも細かったのよ?」

 短い髪の毛を少し乱暴に混ぜっ返してやると、娘は気持ち良さそうに欠伸を漏らした。

「寝ちゃだめよ? こんな所で寝たら風邪をひくわよ?」

 加奈子の声をさえぎるように、娘は首を振りそのまま瞼を閉じてしまう。数秒後、穏やかな呼吸が膝越しに伝わってくる。

「仕方ないわねぇ」

 ため息をつきつつも、加奈子は娘の頭部を優しく撫でてやる。気持ちはとても穏やかだった。懐いてくる娘のせいなのか、頬を撫でる自然な風が気持ち良いからなのか、控えめな蝉の声が耳に心地良いからなのか……理由は分からなかったが。縁側での穏やかな時間は、『彼』と過ごした日々を思い起こさせる。

「ねえ……女の十六歳を『破瓜』って言うの、知ってる?」

 寝息を立てる娘の横顔に向かって、そっと呟いてみる。加奈子にその事を教えてくれたのも、『彼』だった。


 改札口を出て、鞄から折り畳み傘を取り出そうとした時、加奈子の目に映ったのは駅の出入り口で立ち往生している男の姿だった。外は勢いの良い雨が間を空けずに降っている。男が傘を忘れて困っている事が、気の利かない加奈子にも見て取れた。立ち止まってしまった加奈子を尻目に、同じ電車を降りた人達が次々と出入り口へと歩いていく。誰もが、男に気が付く素振りも見せず、彼の横を通り過ぎていく。加奈子もそれに習って前の人に続こうとした時、男が意を決したように頭に手を当てて外へと飛び出そうとした。

「待ってください」

 思わず、男の肩に提がっている鞄を掴み、声をかけていた。すると、男が驚いたように振り向き、不思議そうな顔をして加奈子を見つめてくる。

「あの、これ……」

 持っていた折り畳み傘を男にぐっと突き出す。男が反射的にそれを受け取った途端、加奈子は一目散に逃げ出した。

 家に辿りついた時、着ていた制服はびしょ濡れになっていた。迎え入れくれた母親に、「何で傘を持って行かなかったの」と呆れられたが、自分の行動に後悔はなかった。男は、後ろ姿から想像するよりずっと、年老いていたのだ。加奈子の父親よりも一回りは上のように見えた。そんな人が、どしゃ降りの雨の中を走るのは……見るに耐えない。

 翌日、驚いた事に、男は同じ駅で加奈子が学校から帰ってくるのを待っていた。加奈子と目が合った瞬間、男は嬉しそうに相好を崩した。目尻にある皺が、余計深くなる。

「昨日はどうもありがとうございました。とても助かりました。あなたは風邪など引きませんでしたか?」

 加奈子よりもずっと年上なのに、男はひどく丁寧な口調で話しかけてくる。

「大丈夫です。うちは駅からそんなに遠くないですし……」

 動揺を隠しながら返事をすると、男はほっとしたように息を吐き、そっと笑った。

「傘をお返ししようと思って待っていたんです。良かった。お会いできて」

 男の控えめな笑顔には、同級生にはない品のようなものがあった。加奈子は差し出された自分の傘を受け取り、男につられたように笑った。


「お母さん? どうしたの? ぼうっとしちゃって」

 物思いに耽っている間に、娘は目を覚ましていたようだ。相変わらず加奈子の膝に頭を乗せていたが、仰向けになって母親の顔を見つめている。

「ん? 今日の夕飯どうしようかなってね、考えてただけ。何か食べたいものある?」

「そうだなあ……和食が良いなあ」

 いつもと同じ答えに、加奈子は思わず吹き出した。

「まだ十六なのに和食って……渋いわよね」

 加奈子は十六歳の頃、油っこいものばかりを食べていた。和食なんて味気ないし、食べた気にならないとさえ思っていた。

「そうかなあ? 私の友達も結構好きな人いるよ? 和食は太らないし体にも良いし。つか、お母さんが和食ばっかり作るからそうなったんじゃん」

「和食の方が作りやすいのよ」

 そう言った途端、包丁を握った『彼』の姿が頭に浮かんだ。血管の浮いた手の甲。細くて長い、器用な指。皺もシミもあったが、不快感など微塵も感じさせない手。

 『彼』は何でも出来る人だった。和食を作っては加奈子に振舞ってくれたし、料理の仕方も教えてくれた。高校の宿題も見てくれたし、加奈子の知らない事を沢山話してくれた。

「アジサイ、綺麗だよね~」

 娘がのんびりした口調で話を転じた。

 目の前に広がる庭の隅には、青とピンクのアジサイが所狭しと並んでいた。今朝降った雨の雫が、未だに花びらの上に付着している。

「ほんとね……アジサイって綺麗だけど、危険なのよ。青酸が含まれてるから」

「そうなんだあ。お母さんって、結構物知りだよね?」

 感心したように娘が言う。

「物知りな知り合いがいたのよ」

 アジサイの話も、『彼』が話していた事だった。


 駅で顔を合わせる度、男と加奈子の距離は縮んでいった。お互いの家が一キロメートル以内のご近所さんである事を知り、駅で会った時は一緒に帰るようになっていた。それを繰り返すうちに、加奈子は男の家に上がって、お菓子とお茶をご馳走になるまでになり、お菓子とお茶が、晩御飯に変わるのにも時間はかからなかった。男と加奈子は、縁側でとりとめのない話をしたり、スイカを一緒に食べたりする事が多かった。クーラーではない涼しいそよ風と、朝露に濡れた美しい庭の植物。加奈子の住むマンションには無いものばかりだった。擬似家族のような関係を二人は楽しんでいた。そこに恋愛感情はなかったし、なり得るとも思っていなかった。なんせ、加奈子は十六歳の女子高生であったし、男は六十四歳という、彼女の祖父に近い年齢であったから。お互いが漠然と、この関係がずっと続くものだと思っていた。あの日までは。


「桃、切って良いですか?」

 夕飯を食べ終えた後、冷蔵庫の中に桃が入っていたのを思い出して、加奈子は承諾を得る前に、席を立った。

「あ……桃は……」

「え? 駄目?」

 既に開けていた冷蔵庫の扉を慌てて閉じ、男の方を振り返る。彼は少し照れくさそうな顔をして、言った。

「明日、孫が遊びに来るんだ。桃が大好物だから……」

 それを聞き、男の機嫌が今日は特に良いと感じたのが、気のせいではない事に気づいた。脂下がった男の顔を見ているうちに、加奈子の気持ちは落ち着かなくなっていく。もやもやと、得体の知れない何かが、胸の中で渦を巻く。

 閉じた冷蔵庫の扉をまた開ける。中には桃が二個、入っている。

「一個だけでも駄目ですか? 私も桃、好きなんだ」

 我侭だと分かっているのに、ここで断られたら、自分がヒステリーを起こしてしまいそうな予感がした。加奈子が祈るような気持ちで男の方を見ると、彼は少し困った表情をしながらも、「いいよ」と答えてくれた。途端、加奈子は呆気ないほど簡単に落ち着きを取り戻した。

 席に戻り、桃を剥き始めると、男はまた孫の話をし始めた。孫の話は今日が初めてというわけではないのに、なぜか加奈子は落ち着かなくなる。苛々する。

「君と同じ年なんだよ。十六だ。もう五年以上は会ってないんだ。本当に久しぶりに会えるんだ」

 男のあからさまに弾んだ声は、たまにしか聞いた事がない。大抵は孫の話をしている時だった。

「何でそんなに仲が悪いんですか? 息子さんと……」

「私は若い頃……といっても四十の時なんだけど。息子の希望する進路にことごとく反対をしたりしたから……仕事ばっかりしていて、親らしい事は何一つしてなかった癖にね。息子は結婚してから、この家に寄り付かなくなったんだ」

 男は自嘲気味に笑って続ける。

「息子に何もしてやれなかった分、孫にはいろいろしてやれたらと……」

「……私と仲良くしてたのも、お孫さんと私が同い年だったから? ……いっ……」

 突然、左の人差し指に痛みが走って、加奈子は小さい悲鳴を上げた。指先を見てみると、血がどくどくと手のひらに向けて流れていた。包丁の切っ先が、左の人差し指を掠ったようだった。

「見せて!」

 加奈子の左手が、強い力で男の方へと引っ張られる。男は真剣な目つきで、血と桃の果汁に塗れた、加奈子の指をじっと見ていた。その顔を見ているうちに、加奈子は堪らない気持ちになった。薄く開いた男の唇に目が釘付けになる。気が付いた時には、加奈子の指は彼の口の中へと侵入していた。指に触れた舌が、びくりと震えた。

 加奈子は、初めての時に出血するという事を知らなかった。自分の内股を伝い落ちる血を目にして、酷く慌ててしまった。一方、男は落ち着いていた。「大丈夫だよ」と優しく言い、加奈子の太股、脹脛、足首を、濡れたタオルで丁寧に拭った。

 

「その知り合いとは、今も会ってるの? 私も会ってみたいな」

 無邪気に娘が聞いてくる。

「残念だけど、その人はもういないの」 

 そう、『彼』は死んだ。

 加奈子と結ばれた日から、男の態度はおかしくなっていった。毎日加奈子の帰りを駅の出入り口で待ち、彼女の帰りがいつもより遅くなると、その度に「どうしたんだ、なにをしていたんだ」と問いただすようになったのだ。人が変わったように、加奈子に対する執着を強くしていった。加奈子は何で一度とはいえ、この男と寝てしまったのだろうと悔やむようになった。相手は六十四歳の、加齢臭を漂わせる、年老いた男ではないか……

 男から逃げ回るうちに、加奈子は同じ高校の男子に恋をし、彼と付き合うようになった。彼氏と一緒にいる場面を何度か男に見せつけると、男は姿を現さなくなった。駅にも、それ以外の場所にも。

「死んじゃったの? 病気か何かで?」

「そう、風邪をこじらせて肺炎を起こして……あなたも風邪を甘くみちゃ駄目よ。雨の時は、ちゃんと傘をさすのよ」


 最後に男に会った日も、雨が降っていた。

「加奈ちゃん、傘持ってる?」

 改札口を出てすぐ、加奈子の目に入ってきたのは、駅の出入り口に佇む男の姿だった。一瞬既視感を覚えるが、それはすぐに嫌悪感へと変わって行く。

「うん」

 男から視線を外す。鞄から折り畳み傘を取り出し、隣にいる彼氏に手渡した。二人が出入り口へと歩き始めると、男は不意に加奈子の方を振り返った。目が合った瞬間、男の目に喜色が浮かんだが、すぐに空ろな色へと変貌した。何かを振り切るように、男は大雨の外へと走り出す。出会った時と同じ風景に、加奈子は眩暈を覚えた。あの時、駆け出そうとした男を引き止め、傘を差し出したのだ。でも、今は自分の手元に傘はない。傘を持っていたとしても、もう呼び止める事は出来ない。

「加奈ちゃん? どうしたの?」

 彼氏の慌てふためいた声に、加奈子は我に返った。

「え? 何が?」

 視界が何故かぼやけていて、加奈子は一度瞬きをしてみた。途端、水滴が頬から流れ落ちる。

 男はもう、あの場所には居ない。外へと出て行ったのだ。それなのに、加奈子は男の立っていた場所から目が離せない。

 繰り返される彼氏の心配そうな声は、いつしか雨の音に消されていった。


 空を見上げると、先ほどまでは無かった煙のような雲が一面を覆っていた。

「ほら、もう起きなさい。雨が降るかもしれないわ」

 まだ眠そうにしている娘の頬を軽く叩く。

「はーい」

 嫌々そうにしながらも、娘は加奈子の膝から頭を退かせ、勢いをつけて上体を起こした。重みが消え、ほっとする反面、淋しさを覚えた。感傷的になっている自分を振り払うように、加奈子は弾みをつけて立ち上がった。すると、タイミング良く家のチャイムが鳴る。

「きっとお父さんよ。ドア、開けて来てくれる?」

「はーい」

 感情の篭らない声で返事をし、娘は玄関へと駆けて行く。

 縁側に残された加奈子は、サンダルを履いて庭へと歩き、干してあった洗濯物を手早く回収した。

 この家にまた足を踏み入れる事になるとは……。

 加奈子と夫は、同じ会社で知り合い、恋に落ち、結婚するまでに至った。だが、夫の実家に挨拶をしに行くまで、夫が『彼』の孫だと言う事を知らずにいた。夫にこの家に連れて来られた時は、驚きの余り声も出ない程だった。幸いな事に、結婚してすぐに妊娠、出産という大きな出来事が起きたせいで、男との過去を思い出すような時間も余裕も無かった。なのに、娘が高校生になり、親の手を離れ始めた途端、加奈子は男の事を思い出すようになっていた。

 ――知ってる? 君の年齢を『破瓜』って言うんだよ。私と同じだ。

 『彼』の言葉がふと蘇った時、急に雨が降り出した。

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