海神
見渡す限りの水平線。広大な大海原にぽつねんと一隻の船舶が漂っている。船舶の駆動音のみが辺りに鳴り響き、他の音という音は一切耳に届くことはない。
男は船舶が進んでいようが進んでなかろうが変わらない景色をもう何時間も眺め続けている。ぼうっとしていると船舶が動いてるのか海全体が動いているのか、はたまた何も動いていないのか段々分からなくなってくる。その奇妙で不可解な混乱が生まれたときにいつも男は、帰らねば、と思う。しかし、帰るのかと思うとどうにも腰が上がらず、なにも今すぐに帰る必要はあるまいと考え、こうして何の代わり映えもしない水平線なんぞを何時間も眺めているのだ。
ここには何もない。船舶の上でぼうっとすることは今日に始まったことではないし、何よりこんなにも広い海を目の前にして窮屈な気持ちでいっぱいになるばかりだ。何もないと理解していながらここにいつづけるわけにはいかなく、ここで暮らすことはできないことなど言うまでもない。
男はそこで思考を止めて、引き戻す。ここで暮らす。海の上。船舶の上。ひとりで。それ以外は何もないこの場所で。
それは、ひどく魅力的な案に思えた。一度、ここで暮らすのだと思うと、先ほどまで感じられた窮屈さが嘘だったかのように消失した。
男は晴れやかな気持ちで帰った。それからすぐに準備を済まし、再び海の上へと戻ってきた。今や男の帰る場所は海であって、他のどの場所でもない。何か足りなくなれば陸まで取りにいけばよい。
それから、男は静かな海上生活を送りはじめた。何に邪魔されることなく、何と関わることもなく、波に揺られながら男は海神と時を共にする。