#1 「俺が見えるのか。」
「あ、――」
――あの日、俺はこの後すぐに自分が発した言葉に耳を疑った。もちろん疑ったのはその言葉だけではない。そんな言葉を発した自分に対して正気すら疑った。我ながら何を言っているのだろうかと思った。
バイトからの帰途を横切る川にはいくつかの大きい橋がかかっているが、知るかぎりその中で一番細いのが「天神橋」だった。向かって右の片側だけにある歩道は車道から一段高い段差で分離されていて、車道はというと前後一車線しかなかった。他の橋を渡っても帰れるのだが、一番気に入ってたのは天神橋だった。夕方、この橋の上には涼しい風が吹いていて、川下の方を眺めると、夕日を受けて輝く川と堤防沿いの家々が見える。普段は余り意識しないが、たまに労働の疲れが飛んでいってしまうような清々しい気持ちになることがある。
緑色のレンガが敷き詰められた歩道は、大人三人が辛うじて並んで歩けるほどの幅はあるが、人とすれ違うには少しばかり注意が必要だった。そういうとき、すれ違う人と不意に目を合わせてしまうことがあり、少し気まずくなりながら会釈を交わすことになる。
これまで何度も同じ時間に天神橋を渡っているが、何度もすれ違う人はもう見慣れてしまっていた。歩いて2分程で渡れる橋で、たまたま同じ時間に何度もすれ違うというのは、一体どれほどの偶然なのかは知らない。ただ、俺にとっては、この橋をこの時間に渡るのは偶然でもなんでもない普通のことだし、その人達にとっても普通の日常であるはずだった。
見慣れた人たちとすれ違うことは、なんといえばいいか、俺にとっては安心感とでもいうのか、日常をふと感じられる瞬間だった。とはいえ、それほど心を動かされるようなことでもない。というのも、そういう人たちとたまに会釈を交わすことはあっても、言葉を交わしたことすら一度もなかったからだ。全くの赤の他人だった。その人達について俺が知っているのは、顔と、そしてその人達が同じ時間に橋を渡っていることと、しかし自分とは全く逆の方向に歩いているということだけだった。
そういうわけだから、逆を言えば、すれ違う人の中に見慣れない人がいると、すぐに気付く。とはいっても、やはり見慣れない人とすれ違うことの方がよほど多いため、実のところ、すぐにでもそのことは忘れてしまう。こういうふうに、すれ違った人間に「見慣れている」「見慣れない」のどちらかを当てはめてしまうのは、つい無意識にやってしまうことだ。町中を歩いていて、赤の他人よりも知人の顔のほうが目につくのと同じことだ。
そういえば、人間の脳は、何かを見た時、それが“見慣れているかどうか”を瞬時に判別して、そして、その次に脳は“それが何か”ということを判別するのだそうだ。この二つの脳機能のうち、見慣れているかどうかを判断する機能は、人間以外の生物にもある最も原始的で基本的なものらしく、生物が生命の安全を確保するために発達してきたのだそうだ。自分の住処が分かるのも、エサをエサと認識するのも、この機能のおかげということらしい。実際、それほど高度な知能をもたない魚や爬虫類にも、この機能がある。一方、それが何かまでを判断する機能は、その生物の発達の具合にもよるという。また、その機能において最も優れた知能を持つのが、人間だと言われている。
それに因む話で、「見たことはある気がするのに、それが何かは分からない」「初めて来た場所なのに来たことがある気がする」というような、つまり“デジャヴ”もしくは“既視感”と呼ばれる有名な現象があるが、これはつまり、脳の中で、見慣れた・見慣れないを判別する場所と、それが何かを判別する場所が違うことによって起きるものなのだそうだ。つまり、“見慣れている”という誤った判断だけがなされた物に対して、肝心の“それが何か”ということの情報が不足してしまった時に起きる、ある種の違和感のようなものだということらしい。
ところで、この日ばかりは、俺は人間としてちゃんとそういう機能を備えているのか、と心底不安を覚えた。というのは、簡単に言ってしまえば、「見たこともないのに、それを知っていた」ということが起きたのだ。もっと言えば、「今まで見たことすらなければ信じてすらいなかったものを、実際にこの目で見て、“それが何か”と判別してしまった」ということだ。もしかすれば、生きていればそういうことも二度三度あるかも知れない。しかし少なくとも、「夢なのに夢じゃなかった」とか「空から女の子が降ってきた」みたいな可愛らしいものではない、得体の知れない違和感に襲われたのだった。
やはりあの日も普段通り、俺はバイト帰りに天神橋を渡っていた。何人かがこちらの方向へと橋を渡って来るのが見えた。渡る人々の足元から伸びた影が、緑色のレンガ、縁石、そして車道の赤々と照らされたアスファルトの上に横たわって、まるで丸太が転がっているみたいに動いている。天神橋の中頃までで、六人ほどとすれ違った。そのうち二、三人は見慣れただけの名も知らぬ人だったように思う。そこからが問題だった。天神橋の真ん中から少し外れた場所に、人影のようなものが見えた。その二十メートルほど手前を俺は歩いていて、そのときはまだぼんやりとした黒い靄のようにしか見えなかった。夕日が傾き辺りが暗くなって、よく見えなかったからかもしれない。それが全く動く気配を見せなかったので、夕方の景色を眺めている人がいる程度にしか思っていなかった。そういう人もたまにいるので、邪魔をしないように脇を通らせてもらおうと道の端に沿って歩き始めていた。
それが違和感として現れてくるのに、数秒もかからなかった。ふと、道の方に目をやると、その人影の足元から道路に向かって伸びているはずの影はどこにも見当たらなかったのだ。そして、その人影にはそもそも「足元すらなかった」のだった。その人影の手前十メートルほどだっただろうか。俺は違和感に耐え切れずに立ち止まり、そして人影の方をじっと見つめてしまっていた。そのとき、私の脳は、「それが誰か」ではなく、「それが何か」と判別をつけようとしていた。そして、その答えが出るか出ないかしたとき、無意識に俺の口から言葉が出ていた。
「あ、幽霊だ」
あ、なるほど幽霊か。
では幽霊とは。この世に未練を遺したまま死んだ人間がなる、実体のない存在。亡霊ともいう。死者の成れの果て。陰鬱な顔をしている。自殺の名所に沢山いる。死んだあと肉体から抜け出してくる。この世のものには触れないが、壁やら床やらをすり抜ける。修学旅行の写真に写り込んでくる。だいたいこの世を憎んでいる。「うらめしや」という。埋蔵金を守っている。遺した恋人のためにポルターガイストを起こし悪人を倒す。才能ある霊能力者にしか見えない。死んだ場所にいつまでもいる。通り抜けられたとき、冷水をかけられたように寒くなる。
今挙げたようなのは、俺が「架空の話」として知っていた幽霊の特徴であって、その全ては人の想像や思い込みによって作られてきたもののはずだ。だから、幽霊そのものも想像の産物にほかならず、つまり雪男とかツチノコとかと一緒で、存在が証明されていない以上、それを信じることは、少なくとも俺にとっては、理性的じゃない。
ただ、他の人間は信じたければ信じればいいし、信じなかったところでどうということはない。信じるなという権利など何もない。心というのは、もしくは人の考えというのは、誰にも強制されず自由でなくてはならない。だから幽霊を信じるのも自由だと思っているし、そういう人のために説得をしたりしてみることも俺はしたくない。
だが、信じるはずのない人間が、他でもない自分が、何かを見て、それを幽霊だ、と口に出してしまったことが問題だった。ここで大事なのは、幽霊というのが本当に存在したという驚きではなくて、信じてもいない人間が何かを見て、それを幽霊だと口に出してしまったことの驚きだったのだ。それが本当に幽霊かどうかは、そのときの俺にとってはどうでもよかった。むしろそれとは逆で、頭の中では、自分が幽霊だと思ってしまった「それ」を目の前にしながら、俺はひたすらに幽霊の存在を否定していたのだった。
幽霊などというものはこの世に存在しない。そもそもこの世と言っているが、それとは別のあの世とかいうのもあるわけではない。世界は世界だ。目に見えない物は存在しない。幽霊などいない。もし存在しないものが見えていたとしたら、それは俺の脳が、何かの間違いで俺に見せてしまっているのだ。そう、これは幻だ。こう考えるのが最も自然だ。俺は幻を見ているのだ。
もしくは、これは単なる錯覚か。一旦視界から「それ」を外す。なるほど、綺麗な景色だ。涼しい風に当たって、バイトで疲れてぼんやりとした頭が冴えていったところで、あれをもう一度見てみよう。ふむ。人影、というかもはやどう考えても、人が、一人の人間がこちらを振り返っていた。
おぼろげな人影を目の前にしながらしばし考える。いや、違う。これは人間だった。少しばかりその足元は透けているし影もないが、あの驚いた顔を見ろ。嗚呼、やってしまった。これは失礼な発言をしてしまったぞ。今に“誰が幽霊だ”と怒り始めるに違いない。よく考えもせずこういう失言をしてしまうのは、俺の悪いクセだ。逃げるか、逃げずに謝るか。
この時の俺の中では、幽霊というものの存在の有無ではなく、ただ自分が正気かどうかということだけが問題だった。自分の正気を疑うことほど恐ろしいものはない。どちらかと言えば、自分の正気を疑うことをやめ、今目の前にしている「それ」を「幽霊だ」と認めてしまった方が、幾分気は楽だったかもしれない。
「お前、俺が見えるのか。」
それが今俺が目の前にしている人影から発せられた言葉だと気づいた時には、もう確信していた。確信したのは、それが幽霊かもしくは幻覚かということではなく、(ああ、俺はもうダメだ)ということだけだった。
「幽霊」が話しかけてきた。いや、この場合俺が話しかけたことになるのかも知れないが、幽霊と俺がそれぞれ口に出したあの言葉の間に会話というものが成り立っているとは思いたくなかった。思ってしまえば、いよいよ本当に自分の頭がおかしくなったと認めてしまうことになるのではないかと恐ろしくなったからだ。だから、俺は幽霊に何の言葉も返さなかった。俺の頭の中の本能と理性の両方が、言葉を返すなという禁止命令をけたたましく発していたのだ。
しかし、幽霊になんの言葉を返さずとも、俺はもうその答えを返してしまっているようなものだった。既に今目の前にしているあってはならないものが何であるかを、たった数秒前、自ら言い当てしまってていたからだ。このとき「あ、気のせいか」とでも言えば、言い逃れ出来ただろうか。いや、これは無駄な考えだった。
極めて冷静さを失っていた俺は、口を真一文字につむんだまま、目の前の「幻」を見つめたまま数秒間じっと立ち尽くしていた。頭の中ではあんなことになっていたのに、辛うじて真顔を保っていた。ともすれば、あまりの驚きに、表情をどうこうするような思考が停止していただけなのかもしれない。
一方の幽霊は、俺の様子を見ながら、しばらく俺の返答を待っていたようだが、やがて「答えなどいらないな」という感じにかぶりを振って、今度は満面の笑みを見せ始めた。何の変哲もない、ともすれば、むしろ屈託のない少年のような笑顔だったのに、状況が状況だけにかえって恐ろしく、全身の毛という毛が逆立つような感覚を覚えた。
そのすぐあと、前から来た車のフロントライトが幽霊の背後を照らした。光は何にも遮られることもなく俺の目に直接飛び込んできて、とっさに腕で目を眩しさから遮ったその一瞬、幽霊はその光に解けるように消えてしまっていたように見えた。
車が通りすぎた後、幽霊がいたはずの場所に目をやると、影の輪郭だけがぼんやりと残っていた。ほんの数秒前までははっきりと笑顔も見えていたのに、それがもう見えなくなっていて、頭、首、肩、腕の形が辛うじて判別できるくらいの、単なる空中に浮かぶ影になっていた。
その影の輪郭がこちら側に向かって近づいて腕を伸ばしてきていたのがわかったのが先だったか、俺が逃げ出すのが先だったか。なにしろ橋の上でのことだったので、帰り道を逆走してまずはその影から遠ざかるか、家という安全地帯に逃げこむことを優先するか、という選択肢しかなかったのだが、そこで俺が選んだのは後者だった。人影が伸ばした腕をかいくぐるように脇を通り抜けて、久しく忘れていたとさえ思える身体の動かし方を今思い出したかのように前方へ走りだしていた。その時「あ!」という声が聞こえたのは、その人影からだったろうか、それとも、つい前方を歩いていた通りすがりの一人からだったかもしれない。なんせそこからのことはよく覚えていない。