#0 「アホらしいよな。」
プロローグです。「同居人」と「俺」が出会ってから一ヶ月経った時点での関係を書いており、出会いのきっかけは、このページではあまり詳細に書いていません。
「アホらしいよな。」
ちょうど茶碗にこびり着いた米を箸で引き剥がすのに躍起になっている俺の耳に、なんとも気の抜けた調子の同居人の声が入ってきた。誰のことを言っているんだと聞き返したくなったのだが、その時そいつが向いていたのがテレビの方向だったので、とっさに茶碗に視線を 戻した。するとそいつはそれに気づいて「それ聞こえてないフリか」と今度はこっちに向かってはっきり言ったのだが、ばれようがばれまいが、こいつのいうことに耳を貸す必要がないのには変わりがないだろうと思って、再び箸で米をつつく作業を始めていた。
「心霊写真だと。下らねぇよな。な。」
依然米がこびりつく茶碗に茶を注ごうと急須を取りに立ち上がったところで、そいつがまた間抜けな声を発していた。耳を貸されようが貸されまいが何かを言おうとするのはこいつにしてみても同じようだった。だから俺は極力彼の言葉から意識を反らし、食事を終えることだけに気を使った。
「何が怖いんだって話だ。」
そいつはテレビの心霊番組を見ながら、何が楽しいのか、下らない下らないと先ほどから呟き続けているのだ。それについて何の感想をもたないようにしながら、手を合わせて食事を終えた。食器を重ねて流しに持っていく際、後ろから「お前は怖いんだろ」と言い放たれる。こういうのは言い返せば負けだと思うので何も言い返さなかった。一方、そいつは俺が何も言い返さないのを、鼻で笑ったのだった。
この同居人に会ったのは、一ヶ月前のことだった。バイトの帰途にある川に掛かる橋の上で、そいつはぼんやりと川の水面を眺めていた。そこを徒歩で通りかかった俺は、なぜかその人影を見た瞬間に、驚いて「あ、幽霊だ」と声を上げてしまった。一方のそいつも「お前、俺が見えるのか」と驚きながら、テレビのドラマか何かで昔聞いたような幽霊にありがちなセリフを吐いた。よく見ると、やはり幽霊らしく、確かに足元に行くほど透けて見えるのだ。そいつが俺に付きまとおうと決めたのはあの瞬間だったのだろう。
そのとき幽霊を一目見て幽霊と思ってしまったのは、何かの間違いだったと思いたくなる。俺は自分自身のことを目に見えないものを信じない主義だと信じ込んでいた。にもかかわらず、自分の直感が、「あれは幽霊だ」と認識して、無意識に口に出していたのだ。それを今まで見たこともなく、そして見ることなどないだろうと思っていたのに、その上、信じてすらいなかったものを、そのときはじめて目の前にしたのだ。確かに、そいつは俺の思う幽霊のステレオタイプそのものだったのだが、それでも俺が一目でそいつを「それ」と結論づけてしまったのは、不思議なことだった。もっとも、俺が声を上げた数秒後に見せたそいつの満面の笑顔は、あまりに俺のステレオタイプからかけ離れていたのだが。思い返す度に、逆にぞっとする。
「なあ、そろそろ出て行ってくれないか。」
俺に何らかの反応を期待しているような素振りをこいつがいつまでも見せ続けてくるのに苛立ち、ようやく俺は一つ言葉を返した。一度徹底的に無視してもよかったのだが、無視すれば無視するほど躍起になって話しかけてくるような奴なのだ。これまでずっと居着いているそいつをどうにもできずにいる俺も俺なのだが、それ以上に、そいつ自身にもどうにもできない事態にこいつは陥っているようで、幽霊相手だとはいえ、俺の良心がそいつを完璧に無視してしまうようなことを許さず、俺はこうしてこいつを邪険ながらも辛うじて未だに相手をするのだった。
「さあてどうなることかな。」
とそいつが鼻にかかったような間抜けな声を出すので、俺はため息をつかずにはおれなかった。最初の頃は、幽霊となるくらいだから何か面白い身の上話でもあるのかどうかと耳を傾けては居たのだが、それはあまりにも期待はずれなものばかりだった。そいつ自身も俺が話に飽き飽きしていることに気づいてはいるのだろうけれども、当然ながら俺以外に話しかけられる相手がいないようで、それだけにしつこく話しかけてくる。
そいつは、ふと思い出したように自分の死体を探しに行くと言い残してこの部屋から姿を消すことがある。その度に俺は「帰ってくるな」と何度も祈るのだが、半日もしないうちにそいつは戻ってくる。そんなことが 四、五回も続くと、この部屋から幽霊が消えたという暫し安心感すらまともに抱けなくなった。しかも、そういう日に限って陰鬱な雰囲気をこれでもかというほど醸しだしてくるのが厄介なのだ。幽霊らしいといえば幽霊らしいのだが、それはそのときだけで、次の日には元通り元気にしつこく話しかけてこようとするので違和感しきりである。「死人に口なし」という諺があるが、死人が喋ればこうまで口うるさくなるものなのか。
「あー早く見つからねえかな。」
とそいつがが呟くのは、どうやら自分の死体のことを言っているらしい。死因は水死のはずだ、と一ヶ月前に語っていたが、肝心の死体が誰にも見つかっていないようだった。「葬式してもらうまでは死なねえよ」とそいつはぼやく。死んでいるのに「死なねえよ」とはどういうことなのかと聞き返すと、「幽霊が死ぬって云うのは成仏のことだから」とわかるようなわからない ようなことを云うので、俺はそれを幽霊用語なのだとしてそれ以上深く考えないようにした。心霊番組をアホらしいバカバカしいと言って憚らない本物の幽霊であるそいつの言うことに、きっと間違いはないのだろう。
「なあ、お前、警察に届けてくれよ。」
「しかしなあ……それでお前は本当に成仏するのか。」
「分からんなあ、幽霊なんかになるのは初めてだからなあ。」
幽霊は目線を逸らして天井で揺れる電灯の方をぼんやり眺めながら呟くように答えた。こいつが知らないのは当然のことだ。生きた人間が死ぬことと、死んだ人間が成仏することは、当人たちにとっては同じように立ちはだかる難しい問題のはずだ。ただ、そのうちのひとつを経験したはずのそいつでさえも、もうひとつの問題を解決できていないのだ。生きている人間が死ぬ原因なんていうのは、自殺や他殺、事故死、さらに餓死や水死、病死、失血死など沢山存在する。だが、死んだ人間が成仏する原因ほど難解なものはない。幽霊は未練を解消すれば消えるとこいつや俺が思っているのは、もしかすれば生前に刷り込まれた迷信なのかもしれない。もっと言ってしまえば、人が生まれてくる理由なんてものと同じで、死んだ人間が幽霊になることにも、理由などないのかもしれない。もっともこれは「かもしれない」という話で、今まで刷り込まれてきたそういう迷信が、いつか誰かが経験したことが伝わってきた真実で、本当に未練を解消すれば幽霊というものは成仏して消えてくれるのかもしれない。そんなことを考えるのは俺の柄ではないが、しかし俺自身そうであってほしいと思っている。
もし仮に、死んでもなおこの世に留まろうとする幽霊に必ず未練というものがあるのだとすれば、そして未練が幽霊を幽霊にしているというのなら、こいつの未練というのは一体どういうものなのだろうか。一ヶ月間、こいつと生活を共にしてわかったことは、こいつの生前の名と、ショボくれまくった生前の話だけだった。そして、今こいつは自分の死体を探しまわっている。自分の葬式すらしてもらっていないという、どうにもならない文句を言うこいつの死体がもし見つかれば、あるいは供養をしさえすれば、こいつは俺の前から姿を消してくれるのだろう。そう信じたい。
「しかし俺はお前とは何の繋がりも無いんだぞ。俺のことを警察が相手にするのか。」
こいつと俺に繋がりがあるとすれば、こいつが唯一コミュニケーションをとれるのが俺だった、ということだけなのだ。こいつと俺以外の人間には、この二人にいかなる関係を見いだすこともないだろう。まして、一人が生きており、かたやもう一人は死んでしまっている。そのあたりのことを他人に説明するにはどうすればいいだろうか。
そんなことは隠して、警察にでも匿名でこいつの名乗る名前と、そしてこいつが俺に教えた通りのことを報告してしまえばいいだろう、などということはこの一ヶ月何度も考えた。しかし、その結果としてどうなるか。簡単なことだ。その匿名の報告者は、すなわち俺は、きっと殺人事件の容疑者となる。匿名だろうが、調べられればおそらくすぐに俺に行き当たることになると思う。その結論が出てしまっているから、この一ヶ月間俺は何も出来ずにいたのだ。おそらく俺ができることは、容疑者になることではなく、死体の第一発見者となることくらいだ。だから、まずは死体のありかを見つけ出すのを待たなければならない。
しかし、どうにもそいつ自身死んだ瞬間のことは覚えていないようで、何処で死んだのかもいつ死んだのかも詳しくはよくわからないらしい。こいつがおよそ2日ごとに出て行くのは自分の死体を探しに行くためらしいが、いつも無駄骨に終わってきたようだ。
「もうお前の仕事場の上司かお前の親か彼女なんかが捜索願い出してんじゃねえか。」
「どうだろうなあ。失踪扱いになるのも初めてだからなあ。」
そいつが言うに、職場の人間は情に薄い奴らばかりで、何週間も無断欠勤をした自分をわざわざ探すようなことをするとは思えない、とのことだ。実際に職場の様子を見に行った時も、自分の机がなくなっていたこと以外、なんら変わったことがなかったと愚痴を漏らしていた。
そいつの両親はというと、詳しくはほとんど語らなかったが、少なくとも普段連絡を取るような関係ではないということは話からわかった。そういえば、そいつの下らない身の上話にも、家族の話は一切出てきたことはなかった。かくいう俺も、一人暮らしを始めてからというもの、帰省でもしない限り両親とは連絡を取り合わないし、それも年に一度か二度くらいの話だ。人に家族の話をすることもない。自分の家族の話には、あまり首を突っ込まれたくないものだと思うし、そもそも俺とそいつの家庭環境がおそらくそういう点で似ている以上、俺にとってまったく興味を引かないことだった。
そして、そいつの彼女だが、今はいないらしい。以前いた彼女も、勤めていたその職場へと数カ月前に転勤してから、遠距離とまでは行かないものの、電車でも車でも一時間ほどの距離になり、それから彼女とは上手く行かなくなって別れてしまっていたようだ。もし自殺をしたのなら、その経緯はそこら辺にあるんだろうと俺が何も考えず言ってしまったとき、そいつは普段となにも変わらない調子で「俺は自殺するような人間じゃねえからな」と答えたのには、少し驚いてしまった。
もうひとつ、やがて口座から金がなくなって家賃を滞納することに痺れを切らした大家が取り立てに来た際に、もしかすれば異変に気付いて捜索届けを出すかもしれない線もある、とそいつは言ったが、それも何ヶ月も経ってからの話だろう。
もっとも、捜索されずとも、こいつが自分で死体を見つける可能性もあるし、全くの他人が偶然見つけてしまうこともあるだろう。時間の問題なのだ。ただ、それまでこいつの安否を確認しようとする人間が一人もいないということが、俺にとっては少し気にかかるところだった。これは、あまり自分で認めたくはないことだが、こいつに対する同情のようなものだと思う。しかし、俺はこいつに対して、死体を探すのを手伝えなどとそいつは今まで一度も頼んできたことはなかったし、俺自身もする気はない。先ほど言った通り、もしそいつが自分で死体を見つけた時に、そいつの代わりに死体の第一発見者として警察に届け出ることしかできない。そしてそれ以上のことはしたくもない。俺は、こいつが生きていたときに接してきた薄情な奴らと変わらない、一人の人間でしかないのだ。
「おー霊能力者だってよ。幽霊とお話ができるらしいぞ。アホらしいよな。」
とそいつが再び呑気に言い出した時、その苦々しい同情心は掻き消えてしまっていた。こいつはこういう奴なのだ。
早く成仏してもらわねば。