夜が明けて
1
その後のクリッジ市庁舎前広場は、街を守り抜いたらしい祝勝のムードには意外にもすぐ包まれなかった。
トーニをはじめとした剣士たちは、彼らが去ってもしばらくドゴノフの放った威圧感にあてられたように顔を強ばらせていた。
腰が抜けたか気を失っているかしたゴロツキたちはまだそこ彼処に転がっていたし、何よりその首魁が両膝を付いたままどこを見るともなく虚ろな視線を動かさない。
ニールがカイに囁いて小瓶を渡すと、カイはティアを優しくマウナルドから引き離し、瓶の蒸留酒で彼の左眼があった場所を洗い流した。
傷の深さから再び開くことはないだろうと思われたが、当の本人は布で固く傷口が塞がれたことを確認するや、何事もなかったように残った右眼で広場を興味もなさげに見回していた。
トゥホールはいまだに何が起こったかをよく把握できていない風で、眼前の事々に手も口も出すでなく、ただ立ち尽くしているように思えた。
これにはずっと見守ってきた市民もどうしてよいか判らず、何人かは市長に祝辞を述べようとしたのだが、いまだ殺気立つ剣士や工夫に気後れして果たせないようであった。
「燃えているぞ」
「火を点けていきやがったんだ」
見えない網に絡め取られていたかのように動けずにいた男たちを正気に戻したのは、何人かの市民の悲鳴であった。
誰もが一斉に我に返って見れば、市庁舎を挟んで北の空がやや赤く染まっている。
そして、それは刻一刻と鮮明に闇夜を明るく照らしていった。
もはや誰にも心に残る恐怖や無力感に浸る余裕などなかった。
動いたのは工夫たちが最も早かった。
中州の工事で一度もボヤ騒ぎさえなかったのは、日頃からの彼らの防災意識の高さによるものだったのである。
メルジやビノンが走り過ぎて行くのに少し遅れて引きずられたように、アムテッロやトーニらも駆けて行く。
これにトゥホールもたまらなくなったか火の方へと向かおうとしたため、慌てて残りの剣士もその脇を固めながら付いていった。
カイもティアとニールをそちらへと促した。
危ないことは承知の上ではあったが、火事よりも、雑然としてきた広場に味方の少ない状態で残る方が空恐ろしく感じられたからであった。
広場には家や店をを守りに行く者や、水を汲んだ桶を持って市庁舎へ向かう者など、この街にこれほどの人がいたものかと思える光景となっていた。
炎はクリッジ市民に各自のなすべきことをひたすら求め続けるように、時間を追うごとに赤々と空を照らしていった。
そして、それに抗う者たちは中州の者もクリッジ市民も区別なく顔を煤だらけにして、一晩中市庁舎の周りで燃えそうな建物を取り壊し続けたのであった。
炎が空を照らすのをやめたのは、もうその必要がなくなったとでも言うかのように、太陽が東の空を照らし始めた頃であった。
2
瓦礫と燃えかすの山を目の前にして、誰もが昨晩のことを忘れたかのように安堵した顔つきだった。
炎は市庁舎をほとんど包み込んでおり、消しおおせることに成功した箇所をいれても無事だったのは四分の一程度である。
それでもトゥホールは朗らかな表情で皆の無事を祝い、尽力に謝辞を述べていた。
顔の黒い者も白い者も、クリッジ市民は皆我先にと市長が無事かを確かめに来ており、やはり人望は厚い指導者であったことを強く感じさせる。
中州の者たちも誰一人怪我さえせすにニールのもとへ集まっており、郊外で馬の番をさせていた工夫も心配のあまり顔を見せていた。
そこへ二人の男が現れた。
一人はもう一人に肩を貸しているのだが、貸されている方はそうされてもなお歩くことさえままならないほど脱力している風であった。
トゥホールやニールらは二人のうち一人に困惑しつつも、穏やかに迎え入れた。
二人はマウナルドと、そしてダライランだった。
「広場で呆けていたので拾ってきたんだ。別に哀れみをかけた訳じゃない。後の話も好きにしてくれ」
そう言ってマウナルドが肩を離すと、ダライランはそのまま膝から地面にへたり込む。
その姿はまるで一切の力が湧き出ない様子であった。
顔も上げず、ただ運命を受け入れる瞬間を待っているようだ。
それきりマウナルドは、このことにまるで関係ないふうに周りの焼け具合を見回していた。
そして、誰の肩に担がれたかさえ気にも留めないように、トゥホールの視線はダライランが現れて以降、終始彼へと注がれ続けていた。
その眼差しは怒りにも慈しみにも染まった、とても複雑な思いをその男へと向けていた。
それに気づいたのか、垂れ下がったダライランの頭がほんの僅か上げられ、二人の視線が交叉した。
それはいつ振りのことであったのか、それもこの場では二人にしか知りえないことではあった。
眼が合ったであろう次の瞬間、トゥホールが声を掛けたのは、ニールに対してであった。
「ニール、既に署名を終えた後にこのようなことを言うのは非常に恥知らずなことであるのは十分に分かっているつもりだ。それでも一つだけあの書面について条件を加えたい」
意を決したようにニールを見つめるトゥホールの瞳は強い意思に満たされていた。
たまに老人にも見違えるほどに弱々しい印象の男にしては驚くほどの感情の発露であるようだった。
それに応えるニールの方は、しかし何を言われ、どう返すかまで既に決まっているかのように落ち着き払った表情と態度であった。
「どうぞ仰ってください。あなたを知る者は、誰もあなたをそのようには呼びません」
「ニール、君の暖かな心遣いに痛み入る。そして、その君にこのような申し出をする私をどうか許して欲しい。私にはそこにいる男、コゾン・ダライランをどうしても見捨てることができないのだ。彼は私の友であり君たちの父であるロンドバルドの仇かもしれない。しかし私にとって彼は、自分の夢を唯一託した友人でもあるのだよ。私とてロンドバルドの死は心が張り裂けんばかりに辛い。それをコゾンが知っていて止めなかったことは許しがたい。けれど私は自分の夢も、運命さえも一度託した男のことを、どうしても諦められないのだ。私の命を彼に預けよう。だからコゾンにもう一度、償いも含めた機会を与えてくれないだろうか」
ダライランの肩は知らずのうちに震えていた。
それは欺いてもなお自分をこれほどに想う者がいることへの祈りか、あるいは来し方を振り返って今石畳に両膝を屈している我が身への哀れみであるかは、また俯いてしまった顔からは窺い知れなかった。
ふとニールはアムテッロの顔を見やった。
家長を立てたのか、それともただ同じ父の仇を持つ者を気にしたからだったか。
そして兄が優しく微笑むのみであることをしばらく確認すると、口調と言葉は恭しく、しかしそれらは心から発されたものでないことが、何となくカイには察された。
「父を喪った我々兄弟にはトゥホール市長が父親のような方なのです。そのお方がそうまで仰られることにどうして否と言えましょう」
「ああ、ニール。そしてアムテッロ。君たちの慈悲に深く感謝する。感謝するとも。なあ、コゾンや」
そう言うとトゥホールは溢れる涙を拭いもせずにダライランの肩を抱きしめていた。
そして二人はしばし肩を震わせ合いながらそのままでいた。
石畳に落ちる水滴は、途中からトゥホールのものだけではないようであった。
3
そのうち遠巻きに見ていた市民たちもうずくまる市長たちのもとへと再び集まり、皆心配そうな顔で彼が起き上がってくるのを待っていた。
その場にダライランがいることも皆知っていたが、それよりは泣き崩れた市長の方が気になって仕方ない様子である。
そして、その視線に応えるかのようにトゥホールがようやく立ち上がると、周囲はいよいよ歓喜の表情に満ち溢れた。
誰もがどうなることか知れない夜を越えた後に、今後どうすべきかを指導者に求めていたのだった。
その市民たちをそれほど高くない背丈で見渡せるだけ見て、市長は静かに口を開いた。
相変わらず人格の高潔さを思わせながらも、この時は決して退かないという覚悟さえ感じさせる朗々とした口調であった。
「親愛なる市民たち。昨晩は私の至らなさからあなた方に大変な思いをさせてしまったことに強く責任を感じている。そして、これまでのことを鑑みるにも私の才覚は、あなた方全員を幸せにするには不足していたと認めざるを得ない。そのことにまずは心から謝罪したい」
詫びながらもなお表情が晴れやかである市長を見るのは初めてであるらしく、市民たちは誰もが驚きを隠せない表情であった。
そして誰も批判を挟むこともせず、次の市長の言葉だけを待っていた。
「正直に打ち明ければ、この街はすでに行き詰ってしまっている。いや、そもそも私のような男が大それた願いを抱いた時からこうなる宿命だったのだろう。付いてきてくれた皆には言葉もないことだ。しかし、私は皆の未来に一筋の光明を見出した。ここより更に恵まれた地で、私より遥かに思慮深く聡明な指導者にあなた方を託したい。どうか最後の言葉と思って私を信じて欲しい。昨晩私はこの街を、ここにいるニール・チェモーニへと譲り渡した」
その言葉を聴いた瞬間、カイはニールの左手の後ろ側に立ち、マントで隠しながら剣に手をかけた。
感情的になった誰かがニールに襲い掛かってくるかと懸念したからである。
しかし、思いのほか誰も少年たちには目もくれず、ただ今日に限って熱弁を振るう市長の言葉をすべて聞きたいという思いのみであるらしかった。
「知っている者もいるかと思うが、今彼らが建設中の街は金の道に沿っており、しかも水運まで使える恵まれた立地にある。完成した暁にはあなた方に今以上の富を約束する地なのだ。そして、私はこの街を守れなかったが、彼ならばきっと理想の街を創り上げる事業を成し遂げるだろう。皆にはその街で彼らの事業を手伝って欲しい。一度私と見た夢の続きを、今度はニールと見て欲しいのだ」
言い終えるとトゥホールはもはや憑き物の落ちた顔つきで、晴々としているようにも見えた。
市民たちが自分の言葉をどう受け止め、どう行動するかを目の当たりにする前に、まずは自らの抱えたすべてから解き放たれた安堵を心から噛みしめているかのようであった。
そして聴衆であった市民たちはといえば、これもそこまで困惑した風ではなく、むしろ次にすべきことを示された喜びさえ感じているかのようだった。
不安の一夜が明けた高揚感も手伝っただろうが、やはり誰しもがこの街の行く末を薄々感じていたのだろうか。
そこへ最後に親愛なる指導者が希望をつないだことは、彼らにとってはこのまま暮らし続けるより余程良い判断であったのだろう。
とにかくクリッジ市民は市庁舎付近の片付けが終わり次第、自分たちの身支度をすることとなった。
市民全員には直接伝える場を設けるより早く口々に伝わったようであった。
ここまで市に残った者たちは、段々と未来が曇り行くなかでもトゥホールとともにあることを選んだ者たちであったため、彼らの中での結束も固いのだった。




