決起
その日の昼過ぎ、ちょうど今からでは五、六時間程度前のことであったらしい。
この季節は腕の立つ剣士といえども仕事は落ち着いてしまうらしく、クリッジに住む兄妹は外の静けさを耳に聞くように穏やかな時を、この頃はいつものように過ごしていたとのことだった。
そうであったので不意にけたたましく叩かれるドアの音は、その意図を知る前から、少なくとも少女の心を騒がせるより他ないものであった。
顔色一つ変えず玄関を開けた兄の肩越しに見えた顔は、知らないわけでもない、彼の同僚と呼んでよい剣士が二人分だった。
二人の剣士は応対したのが目当ての人物だったことに気が急いてしまったらしく、とうとう少女と眼が合うことはなく、兄に何かまくし立てるやドアが閉められるのも待たずに背中を見せて走り去ってしまった。
ものの三分程度の来客であった。
ひとまず玄関の戸締りをしながら常に無く大きなため息を吐いた兄をぼうっと見つめながら、少女はただ事でないことだけを察していた。
用件を聞ける場所に立っていたはずだったが、あれほど大人が取り乱した様子を見るのが久しぶりだったこともあり、彼女はその時兄と自分と、そして二人の住む街に何が起こっているかをまだ飲み込めていなかった。
できることといえば、いつもと変わらず「出てくる」とだけ言う兄の身支度を手伝うことのみであった。
2
元々帰りをいついつと言い置いて出かける兄ではなかったが、その日見送った後、ティアはいつにない不安が自分を取り巻いていることにすぐ気づいた。
彼女の予感は、不幸にも、間もなく的中した。
通りに人の声が増えたのである。
ただでさえ街の広さに対して人の少ない生活の中で、人々が集まる機会には良いものがあまりない。
少しだけ耳を澄ませてみると、どうやら声は市庁舎の方角へと向かうものが多いようだった。
まだ、兄と通りを市庁舎へ向かう人々が結びついたわけではなかったが、少女は家にいることがいよいよ耐え難くなったこともあり、自分も外へ出てみることにしたのであった。
少しでも得体の知れない不安が紛れれば、と思ってのことだった。
そして、その判断は、彼女から不安を取り除く役には立った。
市庁舎にたどり着いた彼女を待ち受けていた光景は、不安だなどと悠長なことを言っていられるものではなかったからだった。
そして、そこに彼女の兄もたしかにいたのだった。
3
市庁舎のように大きな建物の前には、イーブ共和国にある他の都市と同じように広場が設けられている。
その広場の石畳が段々と一方向へ狭まり、それが門に阻まれれば市庁舎の入口なのだった。
その時、少女の目の前に広がったそれは、広場を囲む百人ばかりの人だかりと、その人々に囲まれていながらその実人々を逆に鷲づかみにしてでもいるかのように不敵な表情の二十人ほどの男たち、そして市庁舎入口の門を挟んだ向こう側には、兄が数人の同僚と並んで立っているという光景だった。
兄が向かい合い、にらみ合ってもいるような男には見覚えがあった。
コゾン・ダライランに違いなかった。
追放されたはずの人物が今更何を、などと考えるより早く、少女の予感は危険を察知していた。
ちょうどその瞬間、男たちも招かれざる来訪の意図を明らかにするところであるらしかった。
「速やかに開門し、我々を中に入れていただきたい。そしてトゥホール市長にお取次ぎ願いたい」
ティアには実際の面識の無い人物だけあって、それはずいぶん久しぶりに聞くダライランの声だった。
それに答えたのは、これは日々聞きなれた声だったことは、今は彼女の心配を募らせるだけであった。
「追放までされた男が厚かましい。貴様は以前ならこのように仰々しい真似をせずとも、いつでも市長に会えたものを」
「キオッゾ・コアディ殿の親書を持参したのだ。私を入れねばろくな事にならないぞ、カレージオ」
マウナルドの言葉にいささかも心動かされたようには見せず、ダライランは言うと決めていたであろう口上を淡々と述べる。
「カレージオ、ここを開けろ。この街の正当な所有者がそれを望んでいるのだ」
「それは市長か、それとも貴様か」
「ふざけた事を言うな」
「同感だ」
「街の外れには他にも待たせてある。手荒な真似はしたくない」
「ほう、とうとうコアディの犬に成り下がったか」
その時、ダライランの顔の横を石が飛んだ。
詰め寄せた聴衆の一人が投げたものだった。
それを皮切りに、当てはしないよう頭の上を目掛け、石の数は一つ投げられる毎に増えていった。
これには今まで平静を保っていたかに見えたダライランと男たちも顔色を変え、聴衆をにらみ付けながら引き揚げていった。
4
少女が一度庁舎内に入っていった兄と自宅で再開したのはこの一時間後で、男たちが数を倍に増やして戻ってきた知らせが駆け込んだのは、それからさらに二時間後のことであった。
そして、マウナルドが再び出て行ったすぐ後にティアも家を出て、市の厩舎からアグラム馬を一頭拝借して今に至ったということである。
三十ロンガを二時間で駆けさせられては、馬の疲れも相当であったろう。
カイは、これをぺリアー馬ではどのくらいで引き戻せるだろうか、許されなければ夜通し走ってでも駆けつけようか、などと考えていた。
しかし彼には驚くことに、ティアの話を聞いた小屋の一同が出した結論は、クリッジへ今すぐ皆で駆けつける、というものだった。
「旦那の仇を取ってやる」
そう息巻くトーニや工夫らをたしなめるニールの表情も、いつになく紅潮しているかに見える。
アムテッロも静かに剣を置いてある方へ立っていった。
そして、その場にいた者は誰もがすぐに身支度をし、誰とも言わず視線を交し合ってこれから何をすべきか確認し合っているようだった。
この冬、中州に残った男たちは、その誰もが愛した男の遺した意志に忠実な男たちだった。
だがそれ以上に、ただ一人の男をこの世から奪い去った怒りに燃える男たちでもあったのだった。
クリッジ市庁舎前に戻ってきた集団の中には、ドゴノフもいたとのことだったのである。
そして、パエトリウスやクラウティーノらに留守を任せた二十五人の男たちと一人の少女は、二頭のぺリアー馬の轢く馬車に揺られながら一路クリッジ市を目指した。
昼でさえ冷たかった風は更に刺すように吹き付けてきたが、それを問題にする者は、一人もいなかった。
誰もが大柄ゆえにゆったりと見えてしまう馬の歩様のじれったさに汗ばみすらする三十ロンガの道のりだった。




