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野望の潰える日

 1


 十二月十日、コゾン・ダライランはいつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 昨日までと同じ時間に目を覚まし、寝間着を質素なシャツとズボンに着替える。

 洗面台の脇に汲み置いてある水で顔を洗い、髭をきれいに剃り整える。

 その頃になると下働きの老人が朝食を用意しているので、居間のテーブルについて、これも質素な食事を口に運ぶ。


 華美とは程遠い生活だが、彼自身が貧乏ということはない。

 コアディ家と折衝するに際して彼の上司である市長は鷹揚に公費の使用を認めてくれているし、それを携えて先方に赴けば、出費を上回らんばかりに何かと名目を付けて金品を渡されることも多い。

 しかしダライランという男は、名誉欲や権力欲には旺盛でも、所有や金銭といった事柄にはさして興味を示さない男であった。

 住んでいる家にしても、場所こそ市庁舎まで十分もかからない一等地ではあるが、あえて間取りの少ないものを選んでいる。

 さして置くものもないし、頻繁に人を呼ぶのでもなければ、広い家など掃除の手間がかかるだけというのが彼の考え方であった。

 下働きに雇う人数も、少なければそれにこしたことはない。

 口数は少ないが気配りに富んだ老人との生活に、クリッジ市の若き市長補佐は満足を感じていた。


 朝食を終えると出仕のために一度寝室へ戻る。

 そして全身を覆う白い長衣を身に着けて腰帯で留め、その上から足元まで届く黒い外套を羽織る。

 小さな街なので官服のように形式ばった服装のない役所ではあるが、この出で立ちが彼の仕事に対するささやかなこだわりとなっていた。


 いよいよ家を出る間際に、玄関で包みに入れられたパンと肉を受け取る。

 幼い頃、夜にひどい腹痛と吐き気に襲われて以来、彼は夕食をできるだけ減らし、その代りに昼食を取ることにしているのである。

 ちなみに一般的な人々の暮らしは、朝は六時ごろに起き出して八時には各々の仕事に取り掛かる。

 肉体を酷使する仕事でない限りは休むことなく働き続け、午後の三時か四時には切り上げる。

 それからは居酒屋へ行ったり、家へ帰って五時ごろに家族と夕食を共にする。

 昼に何かを口にするというのは、この当時では珍しいことなのだった。


 そして、角を曲がるまでは恭しく頭を下げている老人に見送られながら、いつもの道をたどって市庁舎へと向かう。

 冬場はコンクデリオまで出向くことも滅多にないので、もうしばらくはこのような毎日が続くかと思われた。

 寒くはあるが陽射しもしっかりと注ぐ、気持ちの良い朝であった。


 庁舎の中の自分に与えられた部屋に着いたダライランは、しばらくはいつものように政務をこなしていた。

 すると不意にドアがノックされ、応じるや入ってきた部下に促されて、市長室を訪ねることとなったのだった。

 ただし呼び出されることは日常茶飯事であるため、今回も特段何と思うこともなく参じることとした。

 しかし、市長室で彼を待ち受けていたのは、今日に限っては市長一人ではなかった。


 2


「失礼いたします」

 そう言ってドアをくぐったダライランが目にした人影は二つだった。

 一つは見慣れた男のもので、彼のただ一人の上司ということになっているアンドレア・トゥホールである。

 その横に立つもう一人はというと、こちらは見覚えがない。

 小柄な黒髪の、少年であろう。

 大きな瞳の青さが一瞬で印象に残るように思われた。

 それがじっとこちらを見つめているのは、ただ初対面の者に注目しているからなのか、あるいは別の思惑があるからなのかは判らない。

 見るにつけて痩せ気味だが、視線に感じる不思議な迫力がダライランを僅かながらも戸惑わせた。


「おはようございます、市長。こちらは市長のお客人でしょうか」


 なんとか平静を装ってトゥホールの腰掛ける机へと歩み寄ると、その時に初めて上司が普段に輪をかけて気弱な表情であるのに気が付く。

 そういえば今日は入室する際に声を掛けられてもいない。

 いつもならば呼び出したことへの謝辞などが必ずあったはずだが。

 そして、いまの問いかけにも彼の上司は、困窮し果てたとでも言わんばかりに眉をしかめるだけで、なかなか答えようとはしなかった。


「いかがされましたか。お身体の具合がすぐれないようでしたら、お客人への応対は私めが成り代わってあたらせていただきますが」


 そこまで言うと、ようやくトゥホールは深い溜息を一つ吐き、彼の忠実な部下を正面から見据えた。

 その眼はいつもの疲れ切ったものでなく、自分を糾弾するような意志であるように思え、ダライランは自身に異変が起きたことを明確に感じ取ったのだった。


「コゾン、私の親友であり共にこの地に夢を築こうと誓った男、ロンドバルド・チェモーニが亡くなったそうだ。ここにいるご子息のニールが今朝報せてくれた」


 その言葉に、ダライランは胃に氷の塊でも落ちてきたかのような思いがした。

 その男はドゴノフが手を下したということは聞き及んでいる。

 自ら指示を出したことではないが、自分とドゴノフの関係が知れれば、そこからコアディ家との繋がりやトゥホールへの背信が明るみに出ないとも限らない。

 先ほどから自分を刺す二人の視線からも、どうやらチェモーニ家の当主の死が暗殺によるものだということは見当がついているらしい。

 しかし汚れ仕事を請け負う者たちとの接触は秘密裡に行ってきたのだし、それを裏付ける証拠も残してはいないはずだ。

 ならばここは知らぬ存ぜぬを突き通すのが得策か。

 そう考えるや、ダライランは悲しみに満ちた面持ちを咄嗟に作り上げた。


「それは何とも、お気の毒なことです。私からは慰めの言葉しか贈ることはできませんが、しかし心中お察しするに余りある。亡くなられたロンドバルド殿とは面識はありませんでしたが、今こうしてご子息と知己を得ることができました。どうか私どもでお力になれることがあれば申し出てほしいものです。市長もそれをお望みでしょう」

「ああ、その通りだとも、コゾン。よく言ってくれた。ロンドバルドの息子なら私にとって我が子も同然。きっと力にならせてもらうとも」


 トゥホールの表情は随分と和らいだように見え、いつもの自分への信頼が戻ったようだった。

 ただし、それだけに顔色を一切変えない少年の佇まいがかえって不気味にも思われる。

 それはまるで、まずは好きに申開くがいい、とでも言わんばかりの落ち着きなのだった。


 3


 言い知れぬ不快感がとうとう我慢しかねるほどに募り、ダライランがこの場を辞そうとした時のことだった。

 それまで不敵に口をつぐんでいたニールが口を開いた。

 少年らしい、やや高めの声色だったが、言葉の一つひとつが選ばれて口にされていることはよくわかった。

 そしてその選択は、これも不気味なほどに子供離れして的確であると感じられた。


「初めまして、ダライラン殿。これまでお目にかかる機会がなく残念に思っておりましたが、今日このようにお会いできたこと、父の導きとも思われます。あなたのことは市長からも伺って、大変感銘を受けておりました。我々も新しく街を造ろうという身であれば、あなたのように市政を切盛りできる人材の希少さを痛感しております」

「これは過分なお言葉、恐縮のしきりですな。こちらこそロンドバルド殿の人望は広く聞き知っていましたので、今回のことはまったく痛恨事としか言い表しようがありません」

「命ある身はいつか滅びる身、という格言は生前に父がよく口にしていた言葉でもあります。残された我々が遺志を引き継ぐことこそ肝要でしょう」

「ご立派なことです。まさに子を持つならあなたのように聡明であってほしいものですな」


 ふとニールが微笑みを見せたので、つられてダライランもやや気を緩めた。

 本当に親交が深く、かつ最寄であるこの街の市長へ報告に来訪したのかと、少しだけ考えもした。


 だが次の瞬間、まだ微笑みを浮かべたままの少年の口から発せられた言葉は、再びダライランを慄然とさせた。


「しかし、死も自ら望んで迎えたものならば納得もいきますが、そうでないならばやりきれないのは仕方のないことでもあります。正直に打ち明けますと父はドゴノフという男の手にかかりました」

「なんと、それはむごいことを。さぞかし故人もご子息らも無念であることでしょう」

「ええ、無念ですとも。これを晴らすには罪人にしかるべき裁きが下されるより他はありません。それは直接手を下した者と、そして裏で操っていた者にも」

「もちろん、その通りですとも。正義と法がこの世の光ですからな」

「それではダライラン殿、ドゴノフという男、ご存じではありませんか」


 ついにこの話題になったか、そう思う男の胸中は意外にも冷静であった。

 初めからトゥホールには隠し続けていた関係である。

 それをもう一人欺くくらい大したことではない。

 とにかく白を切ることだ。


「そのことについては残念だが私では力になれそうにありませんな。何しろ私はその男のことを知りません。ただし今からできる限りの助力はさせていただくことは約束できますよ。何か聞き及べば、すぐにでも知らせて差し上げましょうとも」

「そうですか、本当に知らないのですね」

「残念ながら」


 4


 これでこの話も終わるだろう。

 そう思い改めて二人の前を辞する言葉を探そうとした矢先のこと、不意に客の少年は手を鳴らした。

 何の真似かと思っていると、部屋の横にあるドアが開き、中から新たに三つの人影が現れた。


 一つは今まで話していたよりはやや背の高い、柔らかな金髪の少年である。

 隣室から出てくるや、そのままロンドバルドの遺児という少年の背後についた。


 もう一つはよく知った顔で、マウナルド・カレージオであった。

 そしてマウナルドが引きずるようにして連れている最後の一人が、すぐには誰だか判らなかった。

 目には布が巻かれ、耳は泥を乾かして塞がれている。

 泥の下は綿でも詰めてあるのだろう。

 何も見えず、何も聞こえていないことは不安そうな振舞いからも見て取れた。


「カレージオ、こんな所で何をしているのかね。君に用のある場所とも思えんが」

「俺にはないがな。あんたに用のある男がいたので引き合わせようと思ったのさ」


 そう言ってマウナルドが突きだした男は、良く見ると目を覆う布の下から傷が覗いているではないか。

 もしやこの男は、と嫌な予感が沸き起こるのと、その男が後ろ手で縛られた左の小指を掴まれたのはほとんど同時だった。

 右手の指は親指を除いて全てが紫色に腫れ上がっていた。


「ドゴノフを雇ったのはダライランだ。コアディの紹介で、今まで雇ってる。チェモーニはドゴノフが殺した。ダライランも承知のことだ」


 そう叫んだのは、他ならぬロディーネだった。

 素性も知れないごろつき共の中では気の回る男だったし、人懐こいところもあってよく使い走りにしていたが、まさかこのようなことになるとは。

 何よりまずいことに、この男は自分の外出中には市長の傍につけて、反コアディ的な商人たちが何を言ってくるかを探らせていたので、今さら無関係は装えない。

 しばし呆然としていたのを、ふと顔を上げると、トゥホールが何とも言えない、泣き出すかとも思える顔でこちらを覗き込んでいる。


「コゾン、話はすべて聞いていたのだ。その上でお前から何か言うことはあるか」


 その顔は事実を受け容れながらも、信頼していた部下の無実を心のどこかで願うものだった。

 しかし、彼にはそれが自分から、最後の抗弁の気力を奪うものに感じられた。

 そして、もう尊敬しているはずの上司の顔を一瞥することさえなくなった。


「貴様、カレージオ、何故裏切った」

「裏切るもなにも、あんたに義理はないさ。もっともコアディに対して、というなら、たしかに裏切りかもしれんがな」

「もう人も金も入ってこなくなる。この街が立ち行かなくなる。貴様だって今のすべてを失うんだぞ」

「どのみち今のままでは飼い殺しだ。強欲な獣どもに食い物にされるよりはましだろう」


 もはや何もかもかなぐり捨てたように語気を荒げ、指を差して怒鳴りつける男と、それを腕組みしたまま睥睨する男はまったく対照的に見えるのだった。


 5


 哀れな市長は部下の潔白に一縷の望みもなくなったとわかるや、放心した様子で椅子にへたり込んでしまっている。

 そこへ放たれたニールの一言は、カイをしても酷だと思わしめるほどに辛辣なものであった。


「ドゴノフという男の行方はようとして知れませんが、一味の一人はここにいます。どうか彼の身柄を我々に預けていただきたく思います」


 それを聞くと、魂の抜けたようだったトゥホールはこちらを振り向いた。

 一瞬きっと睨んだかに見えたが、すぐに悲しみを顔中で表して哀願する。


「ニール、たしかにコゾンのことは許し難いだろう。だが彼がいなければ私のすべてが夢と果てていたのも事実なのだ。どうか、どうか私に免じて処遇はこちらに任せてもらえないだろうか」

「では我々と父が納得のいくご裁可を」

「ああ、わかっているとも。コゾン、本当に残念だ。君をこの街から追放する」


 そう言うとトゥホールは最後の力を使い果たしたのか、がっくりとうな垂れてしまった。

 いまだに表情を変えずにそれを見つめるニールは、隣の市長が座ってやっと顔の高さが同じくらいになるのだが、カイにはずっと少年が中年を見下ろしているように見えていた。

 そして追放を宣告されたかつての市長の右腕は、それにはもう心動かされることはなかったのか、身じろぎもしなかった。

 ただ、その場にいた全員を恨みがましい眼でしばらく見まわした後、何も言わずにドアを開けて出て行った。

 残された誰もが、同じように一言も発することはなかった。

 ロディーネがたまに、探るように首を振るばかりで、それ以外は沈黙が支配する部屋となった。

 チェモーニ家のささやかな反抗は、こうして成功に終わったのだった。

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