老人の胸中
宿の近くまで送ろうかという老人の申し出を、少年は丁重に断ることにした。
人ごみをわざわざ引き返させるのは申し訳ない気がしたのもあったが、何より彼自身、この世がごちゃまぜになったような街を自分の足で歩いてみたいと思っていたのだ。
馬車は倉庫へ向かうために入った路地の脇で止まった。荷台から少年が軽やかに飛び降り、石畳に心地よい音を響かせた。
背丈は同い年のなかでも中の下くらい。
肉付きも良い方ではなく、むしろ、ひょろっとしている。
これが老人の、少年を一目見た時の印象であった。
だが身のこなしはしなやかで軽やかなものと思い、彼を剣士だと一応認めるに至ったのである。
そして風になびく畑一面の麦の穂を思わせる柔らかな金色の髪と、くりっとして透き通った緑色の瞳は、歳相応の子供らしさを好い印象として相手に伝えるものだった。
腰に差し直した長剣が不釣り合いに大きく見える。
老人は今までにも幾度か感じた、微笑ましさと切なさの入り混じった、複雑な思いであった。
すでに腰は曲がってきているのだが、それでも目の前の少年は自分と目を合わせるには、やや上を向かねばならない。
「本当に金はいらんのかい」
少年は恐縮したような笑顔で、今日までにも何度もそうしていたのだが、改めて一所懸命に両手を振って謝意を述べた。
「いいんです、いいんです。馬車に乗せてもらえただけで、ありがたかったですから」
時に大人びた仕草を見せることさえあるのに、こういうところは人好きのする子だ。老人はそう思うのだった。
「そうかい、ならいいんじゃが。ところで剣士さん、最後に名前を聞かせてくれんかね」
そう言われて少年はわずかに顔を赤らめた。
この老人と三日三晩の道中に、自分の名すら明かしていなかったのだ。
それは失礼なことだったかと思うと、今さらながら恥ずかしさを覚えずにはいられなかったのである。
少年は少し赤い頬で、しかし真直ぐに老人を見つめた。
このひたむきな眼がまた人好きするのだ、と老人の口元もほころぶのだった。
「カイです、カイ・ツェゼッリ。お世話になりました」
「そうかい。儂はミトーという。クルプ村のミトーじゃ。宿ではそう言うといい。あんたの旅が実りあるものとなるよう、祈っとるよ」
「ありがとうございます。ミトーさんも帰りの道中お気をつけて」
深々と頭を下げたカイは、回れ右をして元の大通りへと向かおうとした。それを後ろからミトーが呼び止める。
何事か、と振り返ったカイの胸元に小さな袋が飛んできた。
山なりの放物線が落ち始めるところで受け止めた感触は優しく柔らかなものだったが、この老人が物を投げて寄越すこともあるのかと意外な気がして、少しどきりとしたのだった。
「村で採れた葡萄を干したものじゃ。粒は不揃いじゃが、うまいぞ」
そう言ってにっこりと微笑むミトーの皺の深い顔に、暖かな笑みが浮かんだ。
その微笑みにカイも、ともすれば養父の死以来に他人からの温もりを感じ、久方ぶりの満面の笑みになるのだった。
「ありがとう、ミトーさん。お元気で」
ぶんぶんと手を振りながら、少年は元の人波の中へと駆け足で飛び込んでいった。
その背中に、老人は若さが凝縮されたものの片鱗を感じて、しばらくはそのままの笑顔を保っていた。
そして大人の胸元当たりの高さで右へ左へと揺れる金髪がもうどこにも見えなくなってやっと、それまで暇そうにしていた馬の手綱を握ったのだった。
「さあ、儂らも行こうか。それにしても・・・」
ミトーはそれまでの笑顔をやめてしまい、くたびれた老馬の瞳をじっと見つめて語りかけるように呟いた。
その表情は常の老人のものではあったのだが、彼を知る人が傍にいたならば、どこか寂しげなものを感じ取ったことだろう。
「あの歳で剣士とは、大変なことじゃて」
愛馬の首を撫でながら倉庫へ向かって歩き出した老人は、もう何年もしたことのない神への祈りを、歩きながらだが、久しぶりにした。
一人の少年の、今後の多幸を願って。