交渉
会話はまずリコローニ氏が先日の火災を心配するようなことを言い、それにニールが謝意を述べる形で始まった。
傍で聴いていると氏の言葉は優しさに満ち溢れており、チェモーニ家の工事の進捗を気にかけている風である。
だが、やはり時折垣間見せる眼光は、その言葉が心からのものでないことを雄弁に語っていた。
この人物がこちらの敵か否かということまでは、まだ何とも言えない。
ただ、無条件で味方であるとは到底言えもしないだろう。
交わされる言葉は親戚同士の砕けたものとも思われるが、部屋にはそのような会話が弾むにつれ、どこか緊張感さえ漂うようなのだった。
「ところでニール、今日は一体どのような要件があるというのかね。私には悲しみ以外の何物でもないが、この街では君の一家は歓迎されざる存在となってしまった。それなのに戻って来たのには、何か理由があるのだろう」
とうとう話が本題に入ったようだ。
二人の間を満たしていた、相手を窺うような張りつめた空気も、一気に濃いものになったようである。
後ろで立っているだけのカイも、思わず足に力が入ってしまう。
しかしホストに比べると幼いとさえ思える客は、まずは表情を変えることはしなかった。
挨拶をしてから今までの、柔らかな笑顔を保ち続けている。
「だからこそ、パオロ殿に我々の工事は予定通り進んでいるとお伝えしなければ、と父が私を遣わしたのです。チェモーニ家を取り巻く状況は少々変わってしまったのは事実ですが、それは街の工事に何ら影響は与えていません。どうかご安心いただきたいのです」
「それはなによりだ。あの工事はロンドバルドの長年の夢なのだからね。私としてもそれが実現に近付いているというのなら喜ばしい限りだよ」
二人の顔つきは相変わらず穏やかなままだ。
しかし、すでに戦端が開かれたことは確かである。
いよいよ肩が重く感じられるほどになってきたのだ。
「そうは言っても、これからの工事はそう順調に進むのかね。聞くところでは、ほとんどの商人が取引をやめたいと申し出たそうじゃないか」
「パオロ殿もご存じの通り、まだ我々に協力してくれる商人はいます。彼らの力を借りられれば、後は技術的な問題はすべて解決していますから」
「私はそんなに何もかも知っているわけではないよ。だが、そうだね。ある都市で長く暮らした商人が他に本拠を移すというのは、実に大変なことだ。それは重々承知しているがね」
やはりすべて知っているではないか。
もうこちらが資金面で困難に直面していることも気づいているに違いない。
どこか会話をはぐらかすリコローニの言葉に、カイは苛立ちを覚える。
だが、最初から訪問の意図を知っていて屋敷の中に入れたのなら、それに答えるつもりがあるのではないか。
これはもしや、頼めば金を貸してくれるのでは。
しかし、そう考えるカイの思いと裏腹に、ニールは依然として金銭面の話題に移ろうとはしない。
「彼らは自分たちの意志でマプロを去ると決意してくれました。当然そのようなことも承知の上なのです。まったく父共々、彼らにはいくら感謝してもしきれません」
さらりと言葉を継ぐニールのすまし顔と比べると、心なしか相手の表情から笑みが消えてきたようにも思われる。
なまじ本題の内容を心得ているだけに、それが切り出されないのがじれったくなってきたのか。
しかし相手とて経験豊かな商人である。
二人の腹の探り合いは、その後もしばらく続けられたのだった。
リコローニが水を向け、ニールがそれを受け流す。
それはまるで、互いに必殺の一撃を叩きこもうとして相手の剣を払い続ける様子に似ている、とカイは思うのであった。
話はまだまだ続きそうだ。
これでは下手をすると来訪の理由を言い出さないまま日が暮れるのではないか、そう考え始めていた矢先のことだった。
それまで互いに立て板に水、とばかりに会話のやり取りをしていたのだが、ふとリコローニが口を閉ざしたのだ。
何事か、とカイばかりか、ニールまでもどきりとしたらしかった。
その瞬間、僅かに顔が引き締まったのを見たのである。
だが、再び開かれた氏の口から出たのは、思いもよらない一言だった。
「ふむ、紅茶がなくなってしまったようだね。淹れ直させよう」
そう言って手を高らかに鳴らすと、ドアのすぐ外に控えていたらしい下男が入ってきて、主人の言い付けとともにカップを下げる。
「今年のアーディアット産は香りが今一つなのが実に惜しい。だが毎年同じものを飲まされてもつまらないからね。これも愉しみの一つと思えば腹も立たないというものさ」
主人が、これは心からだろう微笑みで語るうちに、新しいカップと中身を持った下男が再びやって来た。
そして、前とまったく同じようにして置いてゆくと、また一礼して退出する。
そうこうしていると、ふと気が付けばつい先ほどまで部屋に充満していた重苦しい雰囲気が、なくなったように感じられた。
これにはさすがのニールも毒気を抜かれたらしかった。
片やリコローニ氏はというと、こちらはすっかり当初の余裕を取り戻したようである。
交渉の駆け引きなど微塵も知らないカイも、これは大したものだと思うのだった。
「ニール、君は本当に賢い男のようだね。私の目に狂いはなかった、ということだ」
氏はそう言いながら新しい紅茶を満足気に啜る。どうやら戦いは終わったようだった。
「だが、あまり賢く振舞い過ぎても逆効果になる場合がある、ということも覚えなければならない。時には相手の理性だけでなく、感情に訴えかけることも必要なのだよ」
「恐れ入ります」
ニールもどこかほっとしたようで、より深くソファに座り直していた。
いかにニールといえど、マプロ経済界の大物相手に渡り合うのは、相当に骨が折れたようだ。
人はその人格以外にも、身分や自身の置かれている環境さえも背負って日々を生きるものである。
まだ何も背負わない身には、相手はあまりに重厚だったのだろう。
優れた才能も、それだけでは抗しえない状況が往々にしてあるものなのだ。
「どれ、もう十分だろう。今日訪ねて来た本当の理由を言ってみなさい」
これで、相手に先に言わせることによって少しでも交渉の主導権を握ろうという目論見は、水泡と帰した。
事ここに至っては、もはや包み隠さず打ち明けるしかない。
「まだ協力してくれる商人がいるのはいいのですが、当初の予定より資材費が膨らんで足りなくなってしまいました。その分を貸していただこうと参ったのです」
「いくらだね」
「二千万セステルです」
その金額に、カイは呆然とした。
まさかそれほど不足しているとは思わなかったのである。
もう少しだけ融通してもらうのかと思いきや、大変な額を借りに来たものだ。
しかし、三人のうちで驚いているのは、どうやら自分一人らしかった。
「そうか。では小切手を渡すから好きにしたまえ」
そう言うと氏は懐から細長い紙を一枚取り出して、テーブルにあった羽ペンで数字を記入した。
そして最後に自分の名前を書くと、それを本当にただの紙切れでもあるかのように、こちらへ差し出す。
それを受け取った瞬間、今回の旅は成功に終わったらしかった。
最後は何やら釈然としない気もするが、これで中州の工事計画も虎口を脱したのだった。
二人の小さな来訪者が帰った後も、パオロ・リコローニは大金を手渡した感慨などとは無縁である。
それは彼にとって二千万セステル程度はなんとでもなる額だったということもある。
だが、そのようなことは些細なことに過ぎない。
なぜならこの融資は、どちらに転んでも彼には取りっぱぐれがないからである。
工事が成功して街が完成すれば、そこからあがる収益で利子と共に返済されるのを待てばよい。
もし彼らの工事が失敗しても、その時は融資の担保として、事業主の次男を貰い受けることになっているのだ。
自分の後継ぎになるかもしれない少年は、去年彼の父親と共に来訪した時より、一段と賢明さを増したようだ。
あの少年が自分の養子となってリコローニ家を継ぐならば、三千万セステルなど、むしろ破格の安値にも思えるのであった。
そうでないなら、彼の現状の後継ぎ候補は、皆押し並べて凡庸なのである。
パオロ・リコローニは、五十一歳になった今でも独身だった。




