リコローニ邸へ
次の日、陽が昇る少し前に皆起きる。
火は使わない方がよいだろうと思われたので、パンと干し肉をかじり、水筒の水を回し飲みする。
そして各々、西門と南門へと向かう。
まだ辺りは薄暗いが、もう開門を待つ商人たちが列を作り始めているのだ。
その混雑に紛れ込んで、こちらも市内へ入り込む時を待ちわびる。
もう空は白みかけていたが、城門を守る兵士が下に集う人々の顔をはっきりと確認できる明るさになるまでは、門は開かれない。
その間に、カイとニールらが並ぶ南門でも、周りは実に様々な色で満ち満ちていることが判るようになっていた。
他の都市でも南門は南方のアグバール帝国からの商人が多く通る門である。
だが、特にマプロ市ではカンドロ市を経由して、共和国南西のアグバール帝国のガナンスタ総督府からも多くの商人が出入りする。
するとただでさえ鮮やかな色合いのアグバール商人の衣装が、さらに多くの種類が目の前に揃うので、その場でひょいと首を回すだけでも随分と楽しい気分になるのだ。
さらに彼らは自分が買い付けようと考えていた品を取り扱う商人を見かけるや、そのまま商談を持ちかけることなど平気な様子なので、辺りは市内かと勘違いしてしまうほどの活気である。
イーヴ共和国の大都市では、朝は街の外から始まるのだ。
この人混みと喧噪で、二人の少年やばらばらにはぐれた男たちなど、簡単に隠れてしまえたのだった。
やがて太陽が顔を上げなければ目に入らない高さになり、人々を朝の陽ざしで照らす。
すると城壁の上で鐘が鳴り、それまで飛び交っていた言葉という言葉が一斉に消えた。
大きな城門が唸り声を上げながら引き上げられていく。
響き渡る低い音は、さながら街が欠伸をしているかのようだ。
ここは南門なので城門は一つだが、カーラニア大街道とマグナテラ大街道にそれぞれ接続する西門と東門は、なんと門が三つもある。
両側を人間用にして中央に馬車用の門を別に開けないと、交通量が桁違いに多いので酷い渋滞を起こしてしまうのだ。
そして、南門でこれだけの混雑なので、西門へ向かったトーニらはより隠れやすいどころか、もしや辟易するほどの人と馬車の量ではないだろうか。
そのようなことを考えていると、若い主人に促される。
およそ五カ月ぶりのカイにとっては訪問、ニールにとっては帰郷となった。
成すべきことはなるべく一日で片を付けて、早くヴィンタリの商人たちと連絡を取りたいところではある。
だが焦っていらぬ危険を招くことにも注意せねばならない。
このマプロでは、誰も表立って口にしはしないが、間違いなくチェモーニ家の者たちはお尋ね者なのである。
スカラー家の縁者はこちらを街中で見かければ見逃してはくれないだろう。
あるいは、今回の件では直接関係はなくとも、スカラー家との関係を強めたいと考える者には、自分たちは恰好の手土産となるのだ。
市中警備の兵士が血眼で探しているということでもないだろうが、軽率な行動は慎むべきなのである。
リコローニ氏にしたって、頼れば二つ返事で金を貸してくれる保証も、よくよく考えればどこにもない。
たしかにチェモーニ家とは縁戚関係ではあるが、代々スカラー家との友好を保ち続けてきた一族でもある。
今後もマプロで商業と金融業を営むために、吹けば飛ぶような立場の親戚を一家族見放すことがあってもおかしくはない。
送り出した際のロンドバルドの表情は自身に満ち溢れていたが、その根拠を一言でも聞いたこともない。
果たしてリコローニ氏は金を融通してくれるか否かの前に、我々の味方であるのだろうか。
しかし前を歩くニールは、人目を気にはしているが、それでも歩調が鈍る気配は一切ない。
確信を持って目的地へと向かっている風であるのだ。
それならばカイには、口を挿むことも不安を弄ぶことさえも必要ではない。
この、か細くも聡明な主人の成すことは、少なくとも自分の考えなどよりは正しいであろうから。
南大通りを半分ほど進んだところで、中央広場ほどではないが大きな十字路を東側へと折れる。
すると活気は遠のいていくものの、その分人混みが減り、落ち着いた雰囲気の通りをしばらく歩く。
この辺りは大通りが高層の建物が多いのに対し、一軒ごとに独立した店が多い。
目当ての物をしっかりと品定めしたいならこちらのような店の方が、望みの品に行き当たり易いだろう。
そのような商店街を通り過ぎれば、もう住宅街になるのだった。
地価の高いマプロ市内に一軒家を持つことは中々に難しい。
そのため、ここに家を持つ者は裕福な商人であったり、共和国政府の要人であったり、あるいは高名な学者がほとんどである。
それらの高級住宅の中でも、高い塀で周りを囲んで、さらに奥に屋敷を望むような豪邸はそう多くない。パオロ・リコローニ氏の邸宅は、その数少ない大豪邸の、この区画では最も大きなものなのだった。
ちなみに他の市民は郊外、つまり城壁の外に家を建てるか、もしくは五、六階建てのアパートを間借りすることになる。
アパートの場合は大家がマプロ市となるので、市内でも城壁近くならば相当に安い家賃で借りられた。
表の門の叩き金で来訪を告げると、中から男の声で来意を問われる。
この間周囲からは自分たちが丸見えの状態なので見咎められやしにかと気を揉んだのだが、ニールはいたって落ち着いたもので、男の問いにも自分がニール・チェモーニであると言い放つほどだった。
中の男は取次に行ったのかしばらく待たされることとなったのだが、その間も若い主人の顔からは不安などまったく感じられない。
誰かに見つかるかもしれないし、もしかするとリコローニ家の者が裏口からでもスカラーへ報せに走るかもしれないというのに。
ついに耐えきれなくなってカイから話し掛けてみるのだが、返ってきたのは、心配ないさ、程度のものであった。
たしかにカイには知り合いはいないし、ニールとてまだマプロ経済界とは少々縁遠い年齢でもあるので、自分たちの身分を一目で見抜く者は案外少ないかもしれない。
だがリコローニ家をそこまで信用してよいものなのか。
カイが知らないだけで、両家はそれほどに強い絆で結ばれているのだろうか。
中州にいた時には、覚えている限りでは一度も会話に上ることはなかったと思うのだが。
はたして、数分の後に門扉は開かれ、二人は屋敷の敷地へと招き入れられた。
守衛らしき男の先導で進むうちに目にする前庭には、木々の合間から彫刻が見え隠れしている。
芸術はまったくの門外漢であるカイだが、それらの佇まいには家主の趣味の良さを感じられる気がするのだった。
ただし、趣味の良さと人格とは必ずしも比例はしまい。
大通りの高級ホテルにも見劣りしないような邸宅の見事さとこの庭に、まるで異世界に迷い込んだかのように気後れしていたのだが、カイは今一度自分自身の心に鞭を入れた。
屋敷の中に入ると、これほどの大きさの建物といえば宿しか知らない身では、またも驚かされるような空間が広がっていた。
玄関から先は広いホールになっており、三階まで吹き抜けになっている。
これほど広ければ、ここでダンスパーティーだって開けるだろう。
上階への階段は、それを通り抜けた向こうにあり、これも普通と違って幅広く、大人が四人もすれ違えるように見える。
二人が通されたのは、その階段を上った二階の、応接室であろう部屋だった。
部屋の中は柔らかなカーペットが敷かれており、ソファも革張りである。
壁には風景画が三点ほど掛けられており、きっとどれも高価であろうことは想像に難くない。
赤々と火のともる暖炉も粗末なレンガでなく、しっかりとした石造りだ。
これがマプロ有数の、ということは世界でも一握りの富豪の邸宅というものか。
ソファは三人掛けものがテーブルを挟んで相対しているが、ニールだけ座らせてカイは後ろに立つ。
これほどあっさりと通されたのなら物々しい会話にもならないだろうが、しかし主従の筋というものがあるではないか。
そして、カイ自身、実は密かにこういった構図に憧れてもいたのである。
部屋で語らう主人の後ろに控える剣士とは、いかにもそれらしくて少年の心をくすぐるのだ。
そうとは知らないニールは、座ればいいのに、などと言ってくれるのだが、内心の得意気なことはおくびにも出さずに固辞するのだった。
そうしながら二人は十分ほど待っただろうか。
おもむろに開かれたドアから、歳ならば五十歳になるかならないかといったくらい。
顔はもう少し若く見えるが、髪は半分以上が茶色でなく白い。
ゆったりした薄い赤と紫の長衣を羽織っているので身体の線は判然としないが、背筋はしゃんと伸びているようだ。
こちらへ向けている表情は、穏やかな笑みである。
しかし口元は親しげな印象なのだが、その瞳が放つ光の鋭いことまではごまかせない。
自分たちを深く観察しようとしている眼だ。
そのようなことを一瞬のうちに感じ取っていると、ニールが立ち上がる。
この屋敷とリコローニ家の主、パオロ・リコローニであった。
続いて下男らしい男が紅茶の入ったカップを持って入り、主人と客の前に恭しく置いてゆく。
それを勧めるようにしてリコローニ氏はニールに着席を促し、促された側もそれに従った。
氏は、自分の客の後ろに控える少年には、さほど関心はない様子だった。




