ナタルーゴの手紙
クリッジ市を目の当たりにし、そこに住む兄妹との邂逅からまた一月が経った。
帰ってきてしばらくは少女のことが気がかりでならなかったのだが、最近では元通りの忙しさもあり、ふとした瞬間に顔が浮かび上がっては消えることがあるくらいになっていた。
物思いに耽るような季節であればもう少し心をかき乱されもしただろうが、今は日に日に、まったく逆の方へと向かう最中なのだ。
つい数カ月前までは天上の神々の慈愛を感じさせるようでもあった陽光は、今日などはまるで肌を焼き尽くそうとでもするかのように照りつけている。
額から頬へと流れる汗を拭うのはこれで何度目になるだろう。
ここから南のアグバールを越えて、さらに南のアーディアットなどは、この時期は立っているだけで汗が止まらないという。
これもロンドバルドの夜の散歩に付き合っているときに聞いた話なのだったが。
今日はトーニがクラウティーノをつれて川の工事現場へ行ってしまったため、カイは運河の方で待機である。
いずれ本来の用途に使用される際には水を湛えて涼しげになるのだろうが、眼前に広がる大きな溝は、今のところは鍬や槌を振り上げる工夫たちの汗が染み込む以外には、一切の水気がない。
もう半分以上は掘られたであろう運河の両側は、中州側はほぼ垂直に、反対に外側はややなだらかになっている。
これはもし水を堰き止められても空堀として使えるようにとの、パエトリウスの提案を容れてのことである。
敵が足を踏み入れやすく戻りにくい傾斜ということで、これはマグナテラ帝国軍の宿営地と同じ造りなのだそうだ。
三方を川に、残る一方を運河に囲まれたこの中州は、城壁が無くとも難攻不落になると言い放つ技師の表情は、彼自身の出自への誇りを窺わせるものだった。
中州ももはや以前の面影は所々にしかなく、ずいぶんと土の地面が多くなっていた。
排水がうまくいったからでもあるが、川の工事が順調なのも大きな要因となっているのだろう。
水深を掘り下げた結果、川の水は以前より深く、そして流れの幅は狭くなっていた。
来て間もなくの頃のように、ややもすれば湿地へと溢れ出そうになっていた気配は、今ではまったくない。
これらの基礎的な工事は、できることなら十月末から遅くとも十一月の中旬までには終わらせておきたいところだ。
それを越えると本格的な冬となり、工事がほぼ不可能になるからである。
この地域は内陸なので、それほどたくさん雪が積もるということはないが、冷え込みが厳しいので、一度薄く降り積もったら春の訪れるまで融けることはないのだ。
次に再開できるのは、おそらく三月の初旬を待たねばならないだろう。
そのため冬の間は仕上げの資材などを運び込むだけにし、雪解けを待って一気に完成させる目論見なのである。
そして、それを見届ければ、カイの仕事も終わりとなる。
ロンドバルドを視界から外さないようにしながら工夫の冗談に苦笑していると、これも一月ぶりに、鐘の音が聞こえてきた。
またクリッジからトゥホールが訪ねて来たか、と西の方へと目を凝らすが、どうもこちらからは何もやって来る気配がない。
そうしているうちに中州の方から一人の工夫が走ってきて、ロンドバルドに何かを手渡した。
見ればそれは手紙であった。
それをしばらく眺めた後、
「主だった者を小屋へ集めてくれ」
という彼の言葉に、工夫はまた中州へと走って戻って行くのだった。
手紙を手にする主人の表情にいつもと違うところは見当たらないように思えるが、皆を集めるということはそれなりの内容であったということだろう。
それでも顔色一つ変えないところなど、自分とこの男の器の違いにも思え、しばらくカイはその横顔を見つめてしまうのだった。
小屋へと集まったのはチェモーニ親子の他にはパエトリウス、マディ、そしてトーニと自分という顔ぶれである。
これが主だった、というときにまず間違いなく該当するであろう人々なのだが、カイはそこに自分も含まれていることに、いまだ面はゆいような思いを捨てきれないでいた。
トーニはともかくとして、自分はついこの間雇われたばかりで、しかも歳だって、雇われ人の中では工夫たちを含めても最も若い。
はたしてこの場所に何食わぬ顔でいていいものか。
だが、そのことを気にしているようなのはカイだけだということも、また事実だった。
この小屋で共に起居しているうちに、一緒にいて当然という、なかば家族のような連帯感を誰もが、そしてカイも感じていたのだ。
アムテッロはパエトリウスを兄のように慕っているし、トーニとも同じ年頃ということもあって、性格は正反対だが強い信頼感を互いに持っているようだ。
それは自分とニールにも同じことが言えるだろう。
今は外で工夫に見てもらっているが、クラウティーノなどは一日のうち、本当の兄たちよりカイと共にいる時間の方が長い。
家長なのだが奔放なロンドバルドの代わりにマディがあれこれと世話を焼いてくれているし、そのことに皆が感謝していた。
まったくこの面々は家族なのだった。
だから何かあれば、これらの人の間で情報を共有するのは当たり前のことなのだろう。
ついこの間までは知らない者同士だった者たちの中でこういった雰囲気を作り出せるのは、これもロンドバルドの人柄ということかもしれない。
いや、彼を始めとしてチェモーニ家の男たちは皆人見知りをしない性質なのだ。
ただその中にあって、唯一ニールのみ、他の兄弟と違うところがあるかもしれない、とカイは思ってもいた。
三人のうちで彼だけは、常に何かを考えているのだろうという印象を強く受けるからだった。
だが、そんなニールでさえ自分のことを受け容れてくれている。
だからカイは、ほんの少しだけ面はゆいながらも、この食堂のテーブルと手紙を囲んでいてもよいのだった。
筒の外側に捺された紋章から、マプロからのものであるらしかった。
「ナタルーゴからの手紙だが、ナタルーゴ商会はたしかニールに任せていたな」
そう言うと父親は手紙を、息子へと木筒に入ったままの状態で手渡す。
受け取ったニールは蓋を開け、中から丸められた一枚の紙を取り出した。
後ろに控えていたカイも一緒に覗き込むのだが、あの良くも悪くもさっぱりしたという印象の男が書いたにしては修辞に富んだ文章である。
だが伝えたい内容ならば一事のみであるようだった。
読み終えた手紙を隣のアムテッロに渡すと、ニールは父へと向かって静かに、だが意志の固いことを言葉の裏に込めて言う。
「僕がヴィンタリに行ってくるよ、父さん」
皆がニールの方を振り返る。
だがそれは反対の意を述べようとしてのことではない。
誰もがこの少年の、ひとたび断言すれば貫き通す性格を知っているからだ。
だから彼が行くと言えば、そのこと自体はその瞬間に決定するのである。
父親の一途なところを、チェモーニ家の次男は頑固さとして受け継いでいたのだった。
ロンドバルドもそれは承知のことなので、些事でも聞き流すかのように軽く頷くのみだった。
そしてニールが発つとなれば、彼を一人で行かせるわけにはいかない。
では誰が同道するかだが、その答えはカイの中ではすでに決まっていた。
それを確認すべく、この件に関しての権限者に目配せをすると、向こうでも同じ考えであったらしく、二人は笑顔で合意に達したのだった。
「それで、カイに一緒に来てもらおうと思うのだけれど」
それも父親の予想の範疇であったらしい。
ちらりとこちらを見やったかと思うと、また先ほどのように頷いただけだった。
こうしてニールとカイの主従は、手紙の送り主に会いに、一路ヴィンタリへ赴くことが決まったのである。
マディなどは、せめてもう二人ほど付けてはどうかと心配気味だったが、とんぼ返りになるであろうし、二人の方が身軽だということで遠慮しておいた。
それ以外では、この件について強いて不満気なのはトーニだった。
なぜなら、カイが不在の間はロンドバルドに付きっきりになるに決まっているからだ。
それはもう、日中クラウティーノの子守りと称して川で涼むのを、諦めざるを得ないということを意味しているのである。




