トゥホールの話
一足先に呼びに行った工夫たちはよほど急いだらしく、談笑しながら歩く二人とそれぞれの従者たちが小屋に着いた頃には、もうアムテッロとパエトリウスも、ニールとともに入口の前で待ちかねていた。
唯一マディだけはクリッジからの来客だと告げると、そうか、と言ったきり、あからさまに同席したくない様子だったということである。
クリッジの所在を教わった時のことといい、あの大男は工事が済めば一番近所となるだろう街に良い感情を持ってはいないらしい。
それが何故なのか、カイには知る由もなかった。
ようやくたどり着いた客を小屋の中へ招じ入れようとしたアムテッロを見て、トゥホールはまたも喜びが静かに爆発したような笑顔となった。
「君はアムテッロか。立派になったものだ」
ちゃんとした挨拶は中で落ち着いてからと思っていたアムテッロも、相手が誰であるかは名乗る前から判っていたようだ。
抱きしめんばかりに前へ広げられたトゥホールの片手を取って、両手で包み込むように握る。
「長らくご無沙汰をしておりました、トゥホールさん」
よほど友人の息子の健やかな成長が嬉しかったのだろう。
アムテッロの沈着ながらも暖かみのある物言いに、さらに氏は感動した様子で、今にも泣きだしそうにも見える。
アムテッロはそのまま挨拶を終えてしまおうと思ったようで、自らの横へニールを招いて、自己紹介をさせた。
実際の年齢は知らないが、普段は白髪の多い頭髪としわがちの顔でやや年寄じみて見えるトゥホールは、この時ばかりはまだ若々しいとも思える。
「覚えているとも、ニール。だが君は私のことは覚えてはいないだろうね。なにしろ最後に会ったのは、まだ君が言葉を話すよりも前のことだからね」
そして、ついでのような形で紹介されたパエトリウスの手も同じような感激ぶりでしっかりと握り、最後にはクラウティーノは抱き上げられてしまった。
突然のことに呆然とするクラウティーノに一方的に挨拶を済ませると、そこでようやく満足がいったらしい。
それは一段落付いたとでも言わんばかりに安堵した表情からも、誰もが見て取れた。
小屋に入るとトゥホール氏はチェモーニ家の男たちともっとも応接にふさわしいであろう部屋へ、氏の警護の男たちは別室へと通された。
カイが気にしていた男は同席すると言い張ったが、警護対象の本人に窘められると、渋々といった顔で別室の長椅子に腰を下ろしていた。
これもまたカイには不思議と印象に残ってしまう出来事ではあった。
大人の話し合いに巻き込まれて退屈すること必定となったクラウティーノだったが、トゥホールの申し出で犬も小屋に入ることとなった。
一人で犬と遊ばせておくのはさすがに心配だと思っていると、トーニがほっとした表情でクラウティーノの子守りを買って出た。
この少年は今から始まるであろう類の話があまり好みでないらしい。
これ幸いと応接室を出て、二人と二匹で食堂に使っている部屋からとうとう戻ってくることはなかった。
二つの小ぶりなソファがあるだけの応接室では、片方にロンドバルドとニールが座り、もう片方にトゥホールとアムテッロが腰掛ける格好となった。
カイはロンドバルドの側の後ろに立って控える。
ソファに座ってからもこの客人は変わることなく喜びに満ち溢れた表情で、そんなにこちらの主人とは仲が良かったのだろうかと思わせる。
話の内容を聞く限りでは、思った通り二人は若い頃からの友人で、昔は一緒に商売をしていた時期もあったらしい。
そしてトゥホールが一足先に街の建設、つまり政治家兼実業家的な立場へと転身したのだそうだ。
クリッジ市はこのアンドレア・トゥホール氏が建設し、そして市長を務める街なのである。
ロンドバルドに先駆けてとは、この男も意外と大胆なところがあるということだろうか。
だが先ほどから本人の口から出るのは、昔がいかに楽しい日々であったか、再び親子に会えてどれほど嬉しいか、といったことばかりなのが、カイには少々気がかりでもあった。
ひとしきり昔話もし終えたというところで、ロンドバルドがクリッジ市のことについて尋ねた。
最初は当たり障りのないような話題だったのだが、しかし自らが市長を務める街の話だというのに、表情からは段々と笑みが消えてゆく。
いや、笑顔ならば保ってはいるのだ。
だがあれほど捲し立てるように自分から昔話をしていたことさえ過去のことのようで、今では聞かれたことに言葉少なに答えるようになってしまった。
浮かべる笑みも、どう見ても苦笑いである。
これはどうしたことかという思いでいると、その原因の少なくとも一端は、彼と彼の街のスポンサーにあるらしかった。
資金繰りは上手くいっているのかと尋ねるロンドバルドとニールに、とうとうトゥホールは笑みだけは残しながらも、溜息をついたのだった。
「なかなかコアディの方々も強引なところがあってね」
一度弱音を漏らすと、後の言葉からは徐々にその割合が増えてゆく。
コアディ家とは資本金を気前よく貸してくれたところまでは良い間柄だったが、最近ではどうもそうではないと感じられることが多いらしい。
コアディからの提案で、言われるままに低い利子で資材などへの融資を受け続けた結果、今ではその額が膨れ上がってしまい元本の返済の目途が立たないのだという。
まだ街も完成したばかりで商人らの誘致も本格的には進まず、利子の支払いだけで手一杯になってしまったのだ。
いずれコアディ家が商人を集めてくれるという話ではあるのだが、そうなると尚更街がコアディ色に染まってゆくだろうことが気がかりでもあると言う。
友人の弱々しい告白を黙って聴くロンドバルドの横顔に、カイはなせこの男が五大商のいずれにも頼ろうとしなかったのかが理解できた気がした。
チェモーニ家の当主は、完成した街が他人の影響下に入るような危険性を排除しようとしたのだった。
このイーヴでは、都市の主な担い手は商人である。
いくら市長が一人気を吐いてみたところで、商人が経済を回さねば都市の財政は健全に機能しない。
こうした事情を背景に彼らが多数派となれば、市長とてその意向には従わざるを得ないのである。
クリッジ市においてコアディ派の商人が増加するということは、街がよりコアディ家の強い影響下に置かれることを意味するのだ。
トゥホールは今まさにその状況に直面しているのだった。
ここまで頼り無げに話していたトゥホールだったが、周りが皆渋い表情で聴き入っており、部屋中が暗い雰囲気に包まれかけていたのにふと気づいたらしい。
慌てて先ほどまでのような笑顔を、と言っても苦笑いではあるのだが、取り繕って明るい声で続けた。
「しかし補佐をさせている者が優秀でね。コアディとの間に立って色々と骨を折ってくれているので、まだしばらくはやって行けそうだよ。ダライランといって、若いが見どころのある男だ」
そう言うともうこの話は終わりとばかりにまた同じ昔話を始め、ロンドバルドらも喜色を取り戻した客人を尊重して、楽しげに合わせて話すのだった。
帰り際に馬車へ乗り込もうとしたトゥホールは、ふと思い出したようにこちらへと引き返してくると、もう再三のことだったがロンドバルドの手を親しげに取った。
「君が近くにいるというのは何とも心強いことだ。ここに街が完成したあかつきには互いに助け合い、共に繁栄を目指していけるね」
もちろんだ、と返す友人の言葉に泣き出しそうな笑顔のまま、クリッジ市の市長は再び馬車へと乗り込んだ。
それを待ちかねたように御者が鞭をいれ、馬車はまだ明るさを残している西の地平線をめがけて進み出す。
東の空はもうすでに黒色の夜着を被り、それは反対側の空もそのうちのことだろうと思われた。
三十ロンガの距離なら、馬車の速さならば三時間足らずといったところだろうか。
彼らが帰り着いた頃にはもう月と星だけが、草の上の轍を仄かに照らすだけだろう。
遠ざかる車輪の音をいつまでも聴いているかのようなロンドバルドの表情からは、この男が何かを考えているらしいことが読み取れるのみであった。
では何を思っているかまでは、それはカイには判りかねることだった。




