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西からの来客

 右耳に遠く鐘の鳴るのをカイが聞いたのは、昼と呼ぶにはもう少し早いと感じられる時刻、肩にクラウティーノを跨らせながら運河の淵を歩いているときのことだった。

 これならば目を離す心配もないし、肩の上で拘束される本人もいたく喜んでくれるので、最近はよく肩車をしているのである。


 見張り台が鐘を鳴らすのは急な増水があった場合か、何者かがこの湿地へ近づいてきた場合と決められている。

 ここ最近は雨も降らないし、北の方にも見える限りでは雨雲などを確認していない。

 ランディアリス大陸でも北方の内陸であるこの地では、実はとっくに雨季が到来しているはずなのだが、今年はどうやら近年稀な降水量の少なさであったらしい。

 おかげで工事は捗るのだが、ニールに言わせれば暮れから来年にかけての小麦の相場が、もう今から恐ろしいとのことである。

 とにかくここしばらくは急な増水ということは考えにくい状況が続いていたし、鐘が長い間隔で鳴らされていることからも、今回は来客の方であるらしかった。


 マプロから誰か来たか、と見張り台の方を、つまり東の方を向いたのだが、これは見当違いであったようだ。

 しばらく経つと背中の方で、工夫たちが掘る作業を続けながらも何やら口々に話しているのが聞こえた。

 その向こうから馬車の車輪の音が聞こえてきたのは、それからもう少し経ってからのことであった。



 西の方からやってきたのは、ペリアー馬よりは一回り小さな馬格のシャルシュ馬三頭に曳かれた、八人乗りくらいの馬車だった。

 傍には一緒に二匹の大柄な犬が付き添っている。

 馬車は木製で天蓋が付いているだけと、ずいぶん質素なつくりだが、動物の方はどちらも毛並が良く見える。

 飼い主か世話をする者が愛情深いのだろうな、と思われる。

 最初に降りてきたのは若い男だったが、降りるやこちらより車内を気にしている様子なので、どうも主人は別の人物であるらしい。


 この頃になると、気付けば周りの工夫たちも手を止め、それとなく馬車の方を気にしていた。

 この辺の区画を受け持つ百人組の代表であるロッカも小走りで向かってきている。

 このロッカ・フォディーリという男はマディの妹婿である。

 工夫たちの総監督といった感のあるマディの縁者であるのに加えて、彼自身も勇敢さと思慮深さを併せ持っていることは皆が知るところだったので自然と運河工事にあたる各組代表の首席のような地位を務めていたのだ。

 カイにも良くしてくれる、工夫の中での兄貴分のような男でもあった。


 ロッカが立ち止まるより先に、馬車からはもう一人男が降りてきていたが、先に降りていた男がうやうやしい態度であることからも、彼が来客のうちの主人格であるらしかった。

 半分白くなった茶色の髪と肉の付いていない腕から、弱々しい印象を受けないでもなかったが、立居には品格があるように思われ、目元などは優しげである。

 こちらを振り向いてから、口を開かぬ前の微笑みを湛えた表情もまた、勢いこそないが善人であるのだろうという思いをカイたちに抱かせる。



 向こうの主人らしい男は、馬車から結局もう三人降りてくるのを待ってから、一番近い場所で窺っていたロッカへと歩み寄った。

 カイもクラウティーノを工夫たちに預け、ロッカの後ろにさり気ない風で控える。

 そして敵意が伝わらない程度に相手を警戒しておくのも忘れない。


 主人らしい男はロッカに丁寧なお辞儀をした。

 つられてロッカも返すのだが、育ちが根っからの平民であるこの青年は見様見まねになってしまうので、動きがどこかぎこちない。

 しかし男はそれを気にしたような素振りも表情も一切見せず、優しげな微笑みと柔らかな物腰のままで名乗るのだった。


「クリッジのアンドレア・トゥホールと申します」


 後者は知らないが、前者には聞き覚えがあるのに、カイははっとした。

 クリッジ市ならばここから西へ三十ロンガほどの街だと、マディらから聞いている。

 二年ほどまえに完成した、こちらもまだ新しい街で、主にコアディ家の融資で造られたということだ。

 湿地帯が途切れるぎりぎりのところで、北を通る「金の道」沿線の街ということで、コアディもかなり大胆に融資をしたらしい。

 それを教えてくれた際のマディの表情があまりよいものではなかったので、カイもつい今まで思いを馳せるようなことはしなかったのだ。

 だが向こうの方から訪ねてくるとは。

 これは応対しているロッカも同じ気持ちであるのか、この男にしては珍しく、声が若干上ずっているようにも聞こえる。



 そうしているうちに、呼びに行った工夫の一人とトーニ、そしてロンドバルドがやって来た。

 するとロンドバルドと、トゥホールと名乗った男は、互いを認めるやたちまち笑顔になり、走り寄って抱擁を交わした。


「アンドレアじゃないか、久しぶりだ」

「ああ、ロンドバルド、元気そうでなによりだ」


 カイやトーニらが驚いて見守るなか、二人は心からの喜びを表現するかのように、抱き合い、肩を叩き合い、互いに再会を祝う言葉を口にした。


 工夫たちもカイらと同じく唖然とした表情なのだが、向こうの男たちは最初から事情を呑み込んでいるようで、主人の喜びを、祝福の笑みと共に見つめている。

 皆トゥホール氏よりは若く、精悍な顔立ちと体格なので、おそらく警護でついてきているのだろう。

 だが主人を見守る視線の暖かなことからも、丸っきり仕事という様子にも思えず、氏が彼らからの個人的な敬意を得ていることが見て取れた。

 しかし、四人いる警護の男たちのうち一人だけ、頬に薄い傷の跡のある男だけは、どこか作ったような笑みであるようにも感じられる。


 ほんの僅かな違和感を覚えたカイは、もう少しだけこの男を観察してみようかとも思ったのだが、それはロンドバルドの言葉によって中断を余儀なくされた。

 もっともそれほど気になっていたということでもなかったので、むしろ雇い主とトゥホール氏の関係が明らかになる方向で話が進みそうならば、まったく異論はない。

 事態が進展するのなら、傷跡の男のことは構う暇などないのだ。


「客を迎えておいて立ち話では失礼だし、粗末だが小屋もある。そちらでゆっくり話さないか」

「君と話しに来たのだから、どこだって構うものか。どうか気を遣わないでくれよ」


 そしてロッカに後のことを任せると、ロンドバルドとトゥホールは揃って小屋の方へと歩き出した。

 慌ててカイとトーニは後を追い、警護の男たちも馬車を連れに戻った。



 カイもトーニも来客のことで頭が一杯になっていたのだが、ふと気が付くと一緒についてきていたはずのクラウティーノがいなくなっている。

 ロンドバルドを一人にさせておくわけにはいかないのでカイだけ捜しに戻ると、なんと遅れてきた馬車と並んで歩いているではないか。

 どうやらチェモーニ家の末の子息は、馬車馬の護衛の犬に強い興味を持ったらしく、一匹にまとわりついてご満悦の様子だった。

 一瞬噛まれやしないかと肝を冷やしたのだが、犬の方では馬の横を進むことさえ邪魔されないならば好きにさせるつもりと見え、ほっと胸を撫で下ろした。


 さらに見ると、馬に蹴られないように男の一人が気を配ってくれているようである。

 男と犬に礼を言って先を急ごうかとも思ったのだが、クラウティーノがあまりに楽しそうであるので、どうしたものかと迷ってしまう。

 結局ロンドバルドのことはトーニに任せてしまうことにして、馬車一行の迷惑にならない程度に並んで行くことにした。

 実はカイ自身も、犬やシャルシュ馬と並んで歩いてみたいと思っていたのだが、それはおくびにも出さないよう振る舞うのだった。

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