マント
酒場を出た後どこへ行くかということに関してカイにはまったく考えはない。
ニールが立ち上がったので、自分も供をするのだろうという思いで行動を同じくしただけなのだ。
ただ、差し当たっては自分の行動の指針ともなる少年が歩き出す前にカウンターへと駆け寄り、何度目のことか酒樽を構うシェッドに声を掛けた。
鳥の丸焼きの感想と、改めて騒ぎを起こした謝意を述べるためである。
「シェッドさん、鳥、おいしかったです。蜂蜜の水も。それと店をメチャクチャにして、すみませんでした」
呼びかけられたシェッドの方は振り向くと、酒樽に軽く左手を置いて朗らかな笑顔だった。
白髪交じりの茶髪と口髭で微笑んだ表情は、やや肉付きのよい身体つきとも相まって、なんとも人の好さそうな印象を与える。
カイも詫びを口にしながら、だが今では恐縮よりは親しみの方を強く感じるのだった。
「なに、あれくらい慣れっこだよ」
それより、と加えるシェッドの笑みが、もう幾度か見たことのあるようなものになる。
声を上げて笑い出す寸前の顔である。
大人もこういう顔をするものか、とカイはロンドバルドがしていたものも思い出しながら、自分の中の大人の像を少しばかり手直しするのだった。
昨日まで彼が生きてきた世界では、大人とはもっと難しい表情をすることの方が多かったからだ。
「ロンドバルドは人使いが荒いらしいぞ。これは雇い主を間違えたかもしれないな」
そう言って酒場の店主は近くのテーブルでこちらを見守っていた少年に視線を送った。
思いがけず話を振られた方では、それでも二人の会話は聞いていたので苦笑いを返すのみである。
少し肩をすくめた姿は大人にからかわれた同年代の少年そのものに思え、自分と話していたときの大人びた雰囲気とは違った一面を見たようで、それはどこか新鮮な衝撃なのだった。
再び視線をカウンターのすぐ向かい側へと戻した男に、カイは力強く言った。
「俺、頑張ります。剣士の仕事ですから」
シェッドの眼は知らずのうちに細くなっていた。
それは麦の穂が揺れる畑を思わせる髪の少年の、頼もしい言葉のせいではない。
まだ未成熟な身体を目一杯伸ばした仕草と、自分を真っ直ぐ見つめる大きな瞳が、いつのまにか彼をそうさせたのだった。
そして再三の礼を述べて回れ右しようとするカイを呼び止めたのは、今度はシェッドの方だった。
カウンターの中をごそごそと探るのを何事か、と見守るカイとニールに彼が取り出してみせたのは、少し色あせた茶色のマントだった。
「ずっと前からちょっとした時に羽織れるようにと思って置いておいたんだが、どうもお前さんの方がこいつを使ってやれそうだ」
驚いた顔で遠慮しようとするカイのことはお構いなしとでもいった様子で、マントを手にしたシェッドはカウンターから出てきた。
そしていかにも少年らしい細い肩を両手で掴むと、ひょいとその身体を回して背中を向けさせ、そのままマントを羽織らせてしまった。
大人のシェッドが元は自分のためにしつらえたマントは、カイにとっては当たり前のことだが大きすぎた。
端はかろうじて床に着くことはなかったが、彼の膝の裏までは易々と隠し切ってしまっている。
その姿を後ろから眺めることとなったニールは、茶色の円錐の頂上に頭だけがちょこんと乗っかっているのを見て、思わず吹き出してしまった。
「なに、そのうちすぐに大きくなって、こいつがぴったりになる時が来る。お前たちくらいの歳は皆そうなんだ。俺だって昔はそんなに大きい方じゃなかった。物は良いからそれまで十分使えるだろう」
自分の身体をすっぽりと包みこまれてしまったのに情けない顔をしていたカイも、その言葉に元気が湧いたようにシェッドに笑顔を向けた。
本当のところは、好意からくれた物に落胆の表情なんてできはしないと思い直したからなのだが、着た感触に慣れてくると裏地もしっかりとしていて、夏場の野宿くらいならこれ一枚でも凌げそうだ。
それにしても外に手を出すことさえ一苦労なほど身体全体をしっかりと覆うマントにじたばたしていると、シェッドがまた笑いながら首のあたりの紐を引き、やっと両手が自由になったのだった。
右側は肩が出るくらい、左側は剣の柄に引っ掛けてそれ以上は前に来ないようにすると、これが随分としっくりくる着方に思えた。
胸の少しばかり上にくる留め具の扱いもちゃんと覚えた頃には、カイ自身、随分とこのマントのことを気に入っていた。
なにやら一端の旅人にでもなったようで、少し大人になったような、ほんのちょっとした高揚を感じるのだ。
ゆったりと揺らめく左肩からの線に柄の先だけ見えているのも、養父の旅装もそうであったと思い出されて、より心が躍る。
しばらく傍目からすればその場でくるくるとしていたカイだったが、ふとマントの贈り主の顔を正面から見据えた。
「ありがとうございます。これ、きっと大事にします」
そして、シェッドが頷くのを見届けると、ニールに目配せをした。
二人は軽く笑みを交わすと、まずニールが歩き出す。
その少し後ろをカイが付いて行く。
ニールは雇い主のロンドバルドの家族なので、カイにとっては同じく主人となる。
主従ならば主人が先に進み、従者が後を追うのは当たり前の光景だろう。
だが、入口の扉を開けて待っている主人と、こちらへ手を振りながらそれをくぐる従者とは、なんとも微笑ましい主従であることだ。
彼らが去った後、シェッドは頬にふと、風を感じた。
二人が荒っぽく扉を閉めたというわけではない。
けれど、今日随分久しぶりに再び静まりかえった店の中に、たしかに彼は快い春の風を感じたのだった。
胸に暖かなものを抱きながら、酒場の主はおもむろに皿を取り上げて磨き始めた。
一人で黙々と作業をこなすのだが、どうしても時折込み上げる思いが、その度に彼の表情を朗らかなものにする。
あの少年が去り際残した笑顔が原因なのは明らかだった。