ロンドバルド・チェモーニ
「ところでロンドバルド。こっちに戻ってきたってことは、金の目途が立ったのか」
トーニに手伝わせて、仰向けになっていた最後のテーブルを元通りにし終えたマスターは、椅子を並べ直すのはこの騒ぎの元凶の一人に任せることで、ようやく余裕ができたようだった。
前掛けを軽く両手ではたいて、またカウンターの向こう側の定位置へと戻っている。
不意に呼びかけられたロンドバルドは、目の前に見下ろしていた少年との会話をやめてしまい、傍らの椅子に腰を下ろしてそちら側を向いてしまった。
カイはまた掴みかけた好機を寸前で逃したかと感じ、もうこの店では仕事にありつくことはなさそうだと思って、半ば諦めたような気持ちになっていた。
それでも出て行かなかったのはロンドバルドとの会話が正式に終わったわけではないという思いと、騒ぎの片棒を担いでおいて何も言わずに立ち去るのも失礼だろうので、二人の話が終わったらマスターに一言謝罪しようと考えていたからである。
椅子とテーブルは元通りになったようには見えるが、まだあちこちにコップとその中身が飛び散らかったままになっているのだ。
「ああ、何とか目標まで集まったよ。それよりシェッド、さっきの連中はよく来るのか」
マスターの名はシェッドというらしい。
彼は苦笑いをしながら、トーニの集めてきたコップを布で拭き出した。
「そうだな、特に最近だ。スカラーが雇い出したんだよ」
「スカラーが、か。というと、いよいよケンプロとの間に一悶着ありそうだな」
スカラーとケンプロはカイですら聞き覚えのある名だ。
どちらも共和国有数の大商人の家系である。
イーヴ共和国は表向きこそ民衆の代表たる代議士らが治める共和国だが、その実、オルフェス辺境伯国の時代から続くいくつかの大商人が裏で大きな影響力を持っていることは、もはや人々にとっては公然の秘密なのだ。
この、首都マプロをはじめとしたイーヴ北西の一帯は、大商人たちの中でも一頭地を抜くスカラー家の勢力が強い。
首都を丸々勢力圏に置くその影響力は非常に大きく、共和国最高評議会すら時には、スカラー家の政治・外交顧問団だ、と揶揄されることもあるほどである。
ケンプロ家は、そのスカラー家とは勢力圏を西に接する、イーヴ中部から北部にかけての大商人である。
大商人たちは互いにライバル関係にあることは知っていたが、ならず者を雇って抗するほどの一面もあるとは、商人の世界も意外と血生臭いものだ。
「ギルドじゃ剣士を抗争に貸さないから、奴らはああいった手合いに、わざわざうちなんかで飲ませてるのさ。お前さん、スカラーなんかに借りなかっただろうな」
八つ当たり気味の口調で言われたロンドバルドだったが、それには言い返すこともなく、ただ同情したような微笑みを浮かべるのみであった。
「借りないさ。スカラーどころか、ケンプロにもマズマティコにもコアディにも、一アッスも借りてない」
「そうなるとベクルッティか」
これで商人の国イーヴでも最上層に位置すること間違いない大商人の名が出揃ったことになる。
イーヴ商人が足を運ぶところならば誰もがその名を一度は耳にする、いわゆる五大商である。
なるほど、大金を都合しなければならない場合、それをポンと融資できるほどの資力を持つ者といえばこれらの五大商と、彼らの経営する銀行ということになる。
金の目途、ということはロンドバルドも金策のため、今までマプロを離れていたらしい。ベクルッティならば南部のホルトを拠点としているので、ありえない話ではない。
しかし、ロンドバルドはそれにも穏やかな笑みとともに首を横に振るのだった。
「いや、ベクルッティにも借りていない」
これにはシェッドは大層驚いた様子だった。コップを拭く手を止めてしまい、目を丸くしてこちらを見ている。
「じゃあ、どうやって六千万セステルも用意したっていうんだ」
その言葉には、カイも思わずぎょっとした。
ただこちらは、先ほどたった三セステルのハムサンドを食べそびれていたところへ途方もない額を聞いたのでびっくりしてしまっただけで、その六千万セステルの使途も見当すらつかない。
しかし、そんな莫大な金額を何に使うのかという興味なら湧いたので、今までは話が一段落するのを待ちながら適当に聞いていたのを、より注意深く聞き耳を立てたのである。
この少年は自分が再三陥った境遇など、今ではすっかり忘れていた。
「財産をすべて処分したら二千万セステルになったよ。後は伝手を片っ端から回って頼み込んだ。リコローニは一人で一千万貸してくれたが、後は百万とか十万とか。それをかき集めて、なんとか六千万だ」
それを言うロンドバルドの顔は、相変わらず微笑みを浮かべて、とても清々しいというように見えた。
今の話が本当ならば彼は全財産以上の金を何かにつぎ込むつもりらしい。
事業なのか投資なのかは知らないが、何にせよ失敗すればすべてを失うのだろう。
それなのに、どうしてこれほど落ち着いた、自信に満ち溢れた振舞いなのか。
不思議な人だ、それがカイの抱いた、この男への感想であった。
「ちゃんとした技術者とやらも見つかったのか」
「もちろんだ。マグナテラ人だが、あの国の人間はイーヴ人より信用できる」
「そうかもしれないな」
技術者とはどういうことだろう。
しかし、その響きはカイの興味をさらに刺激する。
何をするつもりなのか聞いてみようか、と一瞬考えた。
だが今日会ってすぐ別れるだろう程度の関係の自分が聞いても良いものなのだろうか。
聞いたところで教えてくれなければ残念な思いをするだけだ。
六千万セステルの大金、技術者、そしてこのロンドバルド。
カイの歳相応の想像力は、どれも彼を惹きつけてやまないものたちの取り合わせを、あれやこれや色々試すのに夢中になっていた。