運命の出会い
男たちの側にある最後の椅子が投げられた。
それを茶髪の少年がモップで受けて、後ろへ逸らす。
やや上の方へ向かって受け流された椅子は、そのままカウンターを飛び越して酒樽に直撃しそうになったのだが、そこはマスターが受け止めて事なきを得た。
破れかぶれになったのか、カイを目がけて男の一人がでたらめにナイフを振り回して向かってくる。
切っ先を見極めてかわすとカイが手の甲に、少年が首の後ろに、それぞれ痛烈な一撃を浴びせ、男はもんどり打って倒れこんだ。
八人いた男たちのうち、すでに三人が戦闘不能に陥っており、今また倒れこんだ男も、ちょっとやそっとでは起き上がってきそうには見えない。
誰も向かってこなくなったので、茶髪の少年が一歩、彼らの方へと踏み出した。
床に転がっている者たちは視界に入っていないように思えたので、そちらの方はカイが注意を払っておいてやる。
「どうする。まだやるのか」
男たちは答えに窮したような顔つきになり、このまま睨み合いが続くかと思われたそのとき、入口の扉がわざと大きな音を立てるかのように、勢いよく開かれた。
「互いにそこまでだ」
そう言って入ってきた男は、やや角ばった輪郭の中に豊かな口髭をたくわえた、初老くらいの紳士であった。
多少巻き気味の黒髪を頭上に頂いたその体格は、背丈ならば通りに出れば埋もれるか否かといったくらいではあったが、無駄なくしなやかな筋肉が付いているのだろうか、不思議な存在感を与える。
高くも低くもない鼻の先はつんと上を向き、得意がっているのだろうかという風にも見えるが、真直ぐにこちらへ向けられた瞳が、本当にこの騒ぎを納めようとしている意思を伝えてくる。
急な登場ということもあったが、何よりこの人物の持つ雰囲気に、カイはしばし呆然としてしまっていた。
「ロンドバルドじゃないか」
この人物に対して、一番に口を開いたのは、助け舟を出された心持ちのマスターであった。
手放しで歓迎するような声色である。
それには、ロンドバルドと呼ばれた紳士は微笑みと片手を軽く挙げるだけで応え、再びこちらの方へと向き直った。
「チェモーニの旦那」
茶髪の少年も構えていたモップの柄を下ろし、紳士へ呼びかける。
その言い方が打ち解けた印象であったので、紳士はマスター、少年の両方と知り合いであるようだ。
ただ、少年からの呼びかけは紳士は無視してしまい、そのまま男たちの方へと歩み寄っていった。
そしてその前で腕を組むと、大して厳しい表情でもないのだが、何とも言われない威厳と迫力を感じるのであった。
「君たち、もしかすると彼が無礼を働いたかもしれないが、私に免じて今日は別で飲んでくれないかね。酒代も私がもたせてもらおう」
そう言われた男たちは、一度憎々しげに茶髪の少年の方を睨み付けたのだが、紳士が変わらぬ様子で自分たちを見つめているのに気が付くや、転がっている仲間を引きずったり無理やり立たせたりして、渋々といった様子で出ていった。
男たちが全員店の外へと出ていったのを認めると、紳士はカウンターの方で始終を見守っていた少年に声をかけた。
「ニール、支払いを頼む」
ニールと呼ばれた少年は、はい、と一言だけ返事をし、マスターの方へと向いてしまった。
背丈は自分と同じくらいか。
ということは同年代なのだろうか。
しかし体格ならば、あまり良くはない方の自分の目からも細いように思える。
そのせいで頭が少しばかり大きく見える気もする。
顔は、長らく父親であるらしい男にばかり気を取られていたせいでチラリとしか見なかったが、どうも父親似ではないらしく、すらっとした細面であった。
カウンターで支払いをしているニールの背中を見つめていると、すぐ横で再び紳士の声が聞こえた。
「トーニ、また騒ぎを起こしたようだな」
茶髪の少年の名はトーニというのか。
そのトーニの方へ眼をやると、先ほどまではふてぶてしいまでの面構えであったのに、今は心から恐縮してしまった、とでも言わんばかりの顔つきで、旦那と呼んだ男を見上げている。
彼も同じくらいの歳の中では高い方なのだろうが、目の前にした男は、それよりもまだ少しばかり背が高い。
「いや、違うんだよ。そうじゃないんだよ、旦那」
「何が違うんだ、トーニ」
さっきまで男たちを睨み付けていたのと同じ、あの眼で見つめられては、いかにあの少年とて心地悪かろう。
そう同情にも似た気持ちでそれを眺めていたのだが、トーニはその視線を逸らす手段を身近に見つけたようだった。
顔だけでそちらを窺っていたカイは、トーニに身体ごと素早く引き寄せられ、羽交い絞めにされてしまった。
「旦那、こいつだ。こいつが奴らにからかわれてたから、頭にきちゃったんだよ。な?」
いきなり身体を攫われたカイは、自分の扱い方には異議があったのだが、彼が、店に入るなり自分を嘲笑した男たちに敵意を剥き出しにしていたのも事実ではある。
それなので、同意を求められれば一応のってやるくらいには感謝の念もあったらしい。
心情としてはまだ、頼んでもいない揉め事に巻き込まれた、という思いの方が強かったのだが。
「え、ええ、そうです。俺のために怒ってくれたんです」
トーニの成すことすべてが急なのでしどろもどろしているカイを、疑うというよりはよほど興味深そうな目で、紳士は見回している。
離れていたときは気付かなかった細かなしわが、この成熟した男の半生の、さらに一端ずつを物語っているかのようである。
そして、深くまで透き通った青の瞳に見入られると、さっきまでの威圧的な風ではなくとも、また違った落ち着かなさを感じてしまう。
「あ、あの」
観察される緊張に耐えかねて、思わず声を発してしまう。
その声に、まるで今までまったく違うことでも考えていたかのように、紳士もはっとした表情になる。
「お、何かね」
何かね、と言われたところで、実は聞きたいことなど浮かんでこない。
いくつかあるにはあるのだが、どれも言葉になる前に次のことに押し流されて、ぐるぐると頭の中を回り続けている。
だが話しかけた以上は、何か言わないといけないだろう。
「本当なんです、彼が俺のことで揉め事になったの」
また言ったきり口をがっちり結んでしまった少年を、今度は幾分柔らかな表情で見て、紳士は一人合点のいったような、満足気な顔になった。
その表情の変化から、思う所を全然読み取れないカイは隣のトーニの表情も窺ったのだが、こちらはもう自分が追及されることはなさそうだというような笑顔を浮かべているのみである。