騒ぎの予感
カイとマスターの押し問答は、もう随分続いていた。
どちらも相手の言うことと自分の言うことの前提が違うことなどわかりきっているのだが、カイの粘り強い姿勢によって、なんとか話し合いだけは打ち切られずにいる。
ただ、マスターの方でも妥協する気配は一切見せない。
言うだけ言わせて、それからお引き取り願うつもりなのだろう。
元からの柔和な顔つきの通り、あまり押しの強い人柄ではないらしい。
カイも本来はそういった側の性格なのだが、こちらはいよいよ追い詰められているので、常にはなく強情である。
もう後ろの男たちが騒ぎ立てても気にならなくなっている。
声やテーブルを叩く音こそ大きいものの、特段何を言うでもなく、ただゲラゲラと笑っているだけなので、慣れさえすれば街の喧噪とそれほど変わりはしないのである。
そういうわけでここしばらくは、カイはマスターとの交渉に心から専念することができていた。
相手の方でもうんざりとした様子ではあるが、どうにかまだ付き合ってはくれるらしい。
これは持久戦か、そう思った矢先のことだった。
それまで聞き流していた野太い笑い声ではない大声が聞こえ、思わずぎょっとさせられたのである。
驚いて振り向くと、掃除番の少年がモップを逆立てて、男たちに喰いかかろうとしているところだった。
少年は随分と鼻息も荒い様子で、それを受けて立つ格好の男たちも先ほどまでのようにおちゃらかしたような雰囲気ではなくなっている。
何人かは椅子から立ち上がり、腰のものに手をやってさえいる。
「おい、小僧。吐いた唾は飲めねぇんだぜ」
「ああ、何度だって吐いてやるさ。必死な奴を笑うしか能のないお前らには、いくら言ってもわかりゃしないだろうけどな」
カイはせっかく根競べの形まで持ち込んだのが、今の騒ぎですべて最初からやり直しになってしまったことを悟った。
休ませる暇なくしつこく頼み込み続ける戦法に唯一の光明を見出していたというのに、仕切り直しになってしまってはもういい加減マスターも付き合う気は失せていることだろう。
形勢は圧倒的に不利になってしまうではないか。
それにしても、騒ぎの原因はやはり自分のことだったか。
あの少年のことをすっかり忘れて話し込んでいたが、それがこうなるとは思いもよらないことだった。
いや、こうなるとわかっていたところで一体何ができたというのだろう。
自分のことなら大丈夫だから気にするな、とでも一言かけておけばよかったとでもいうのか。
どうやらこの酒場で仕事にありつこうとした試みは、そこにいた人間の取り合わせによって、最初から失敗する運命だったらしい。
カイはがっくりと肩を落として、この日もう幾度目かの大きな溜息を吐きだした。
しかし、発端は金髪の小柄な少年のことだったとしても、睨み合う茶髪の少年と男たちには、もはやその原因などとうに忘れたかのような罵り合いが繰り広げられていた。
「ガキが、偉そうにしやがって」
「ガキに偉そうにされて悔しいなら、少しは立派な振舞をしてみろ。こんな陽の高いうちから酒なんて飲んでないでさ」
「てめぇ、痛い目見ないとわかんねぇってか」
「やれるもんならやってみな。情けないお前らみたいなのが、どんな目見せてくれるってんだよ」
その一言が、開戦の合図だったらしい。
男の一人が投げつけたコップを、少年はひらりと上半身をひねるだけでかわし、続いて飛んできたコップも、モップの柄で軽くいなしてしまった。
「血を見ないじゃ済まねぇぞ、小僧」
男たちは一斉に剣を抜き、こちらを睨み付けている。
さすがにこれは大変だ、と内心あたふたしていたカイに少年は振り返り、にっこりと笑いかけた。
そして、その笑みの意味を理解しかねているカイに向かって、先を外して柄だけになったモップを投げて寄越してきた。
「来るぞ、金髪」
どうも金髪というのは自分のことらしいが、一体何が来るというのか。
しかし、その答えならばすぐに目の前に迫っていた。