「南風」亭
まったく幸運なことに「南風」亭は酒場からそう遠くないところで見つけられた。
大通りから三区画ほど入ったせいだろうか、賑やかさは程々に薄まり、しかし静寂とまではいかない落ち着きを感じさせる路地である。
玄関から吊り下げられた看板には共和国の公用語であるエタールア語の他に、ガルドニア語とアグバール語で「南風」と書かれていた。
カーランとアグバールからの客も多いからなのだろう。
建物は三階建てで、典型的な中くらいの宿だ。
しかし壁の漆喰は剥げたところが見当たらず、屋根の赤色も鮮やかで陽に映える。
花壇の花々も毎日ちゃんと水を与えられているらしく、どれも健やかに咲いている。
大きくはないが小ぎれいな宿だ、という印象である。
これくらいならば頼めば何とか置いてくれそうだろうか。
とにかくカイは玄関の扉を開けることにした。
今のところ、ここより他に行くあてなどないのだから。
扉を引くと、中も外見と変わらず小ぎれいにされていた。
白塗りの壁と木の床もしっかり拭いているらしく、特に床には埃一つ落ちていない。
しかし内観の感想など悠長に述べている余裕などはない。
扉から顔だけ出した状態で中を窺っているカイには、ただこの後の交渉がうまくいってくれと願う気持ちのみだった。
扉は音もなく開いたので、室内では誰も来客には気が付いていないようだった。
カイがおずおずと中へ入っていっても、フロントで座って眠たそうに帳面を捲っている太った男は、顔を上げる気配すらない。
「あの、すみません」
恐る恐る前に立って声を掛けると、男は初めて少年の存在に気付き、こちらを向いた。
帳面を見ているときにはわからなかったが、しわなのか弛みなのか判然としない線が多い顔が自分を見つめる目つきは、あまり良いとは思えなかった。
吊り上った細い目を前にして、少なくとも気の好さそうな人ではないなという印象が、カイの心を不安にさせた。
「何だね、君は」
いきなり現れた少年を一通り観察し終えた男の表情は、その少年の身に纏う服のあまり上品でないのに、早速顔をしかめ始めていた。
男の表情が見る見る曇ってゆくのに不安が決定的になったカイだったが、それでも紹介であることを告げれば多少は相手の気分も変わるだろう、と気を取り直す。
自分まで心の内を正直に顔で表すわけにはいかないのだ。
無理をしてでも少年らしい笑顔を作って見せた方が得というものである。
口の両端をうんと持ち上げてにっこり微笑みながら、彼は本題を切り出した。
「クルプ村のミトーさんの紹介で来たんですが」
これで男の態度と表情も変わるはずである。
カイは少し得意になりながら、その瞬間を待った。
しかし、少し考えた風ではあった男の口から出たのは、少年の期待とは大きく異なるものだった。
「ミトー?知らんな、そんな名前」
その言葉に、一瞬カイの頭は真っ白になった。
ここからただで泊めてもらうという難しい交渉をするつもりだったのに。
その可否は知り合いの紹介という点に活路を見出していたというのに。
これではそもそも交渉の余地がなくなってしまうではないか。
予想だにしなかった事態にしばし呆然としたカイだったが、ここで諦めてしまっては本当に頼るところがなくなってしまう。
思い違いということだって誰しも間々あることだ。
今はその可能性に懸けるより他にない。
「おじいさんなんです、ミトーさんは、クルプ村の。本当に知りませんか」
フロントに手をついて、身を乗り出すように訴える少年に、しかし男は特に心を動かされた様子もなかった。
元々そうだと思っていなかったではあろうが、いよいよ客ではないと判明した今では面倒だという風を隠そうともしない。
「クルプ村は知ってるがね。あの村に知り合いなんかいないよ」
「そんな・・・」
男のこの言葉には、もはやこれ以上なす術がないことを悟らずにはいられなかった。
知り合いというのは老人の方の思い違いだったのだろうか。
あるいはこの男が嘘をついているのか。
どちらにせよ自分が大変な苦境に陥ったことだけは確からしかった。
がっくりとうなだれたカイは、独り言にしては少々大きめの声で呟いた。
「ミトーさんは知り合いの宿だって言ってたのに」
もう話は済んだとばかりに帳面を捲る作業を再開していた男は、その呟きに顔も上げずに、ぶっきらぼうな口調で答えた。
「前のオーナーなら知り合いだったかもしれんがね。この宿は去年潰れかけてたのを俺が買い取ったんだ。きれいなもんだろう。ほとんど建て直しみたいなものさ」
話している間に宿の自慢が入ったからか、この主人の顔は心なしか得意気になっているように見えた。
しかし、そのようなことはカイにはどうでもよいことだった。彼はただ、たった今聞かされた事実の衝撃に、心を弄ばれていたのだから。
なんということだ。これでは取りつく島がないのも当然のことである。
ミトー老人の知り合いはとっくにこの宿の主人ではなくなっていたのだ。
それも去年のことならば、たまにしかマプロへ来ない老人にとっては最近のことで、知る由もなかったのだろう。
カイは情けない気持ちでいっぱいになってはいたが、どこか、最後に干し葡萄をくれたあの老人に騙されたのではなかったことに、ほっとしてもいた。
傍目にはその場に固まってしまった少年を横目で見て、男は帳面から再び顔を上げた。
その顔はどう見ても慈悲の心に突き動かされた様子ではなかったが。
「どうするんだね。まさか、泊まろうってのかい」
彼の言葉は金をあまり持っていなさそうだという推察に基づいたものならば、その推察はかなり正しい。
唯一の修正点といえば「あまり」ではなく「まったく」程度のものなのだから。だが、その差ならばあまりに大きいのだ。
返事のないのを否定の証拠とは捉えなかったらしい主人は、そのまま続けた。
「素泊まりなら一人部屋は一晩二十セステル。なに、安いもんだよ。大通りのホテルなら最低でも一晩六十デナリアからだ。さ、どうするね」
これでも彼は目の前の少年と商売をする気が、少しならばあるようだった。
ただ一週間もいることはなさそうだと思って、扱いが軽いだけなのである。
だが、互いにとって残念なことに、この少年と彼との間に商売など成り立つことはないのだ。
宿の主人には彼なりの思惑があったが、少年にも自分なりの事情がある。
それが相容れないだろうことはもはや明白ではあったが、少年は最後に一縷の望みを託して、言うだけでも試してみることにしたのだった。
「その、僕、お金がないんです。西の大通りで盗られちゃって。だから物置でもなんでもいいんです、どこかに少しの間置いてくれませんか。掃除でも洗濯でも、何でもしますから。お願いします」
言い切った瞬間、カイはほんの少しだけ期待した。
もしかすると同情してくれるかもしれない。
同情どころか、自分を置いておくと役に立つぞ。
料理だって、作れと言われたらまずまずのものを作れる自信がある。
なにせ養父との生活では、家事一般はほとんど自分の仕事だったのだ。
だが宿の主人が口を開くや、いや、本当は聞き終わったときの顔からして、甘い考えなどほんの少しにしておいてよかったと言わざるを得ない結果が彼を待っていた。
「だめに決まってるだろう。うちは慈善事業じゃないんだ。宿代が払えないなら、たとえ最高評議会の議長だって泊めるわけにはいかないね」
そう言い放ってしたり顔の主人に、嘘をつけ、大喜びで泊めるくせに、などと言い返すことはあまりに無益なのでやめておいた。
そんなことより、何とかしてここに我が身をねじ込まなければならない。
そのためには極力、この主人に建設的な提案をしなければならないのである。
「仕事を見つけたらお金だって払います。それまででいいんです。お願いします」
「見つけたらって、じゃあ仕事のあてもないってのか」
この一言には、カイは黙り込むしかなくなってしまった。
そうなのだ。都合の良い仕事が必ず見つかるという保証も、実は一つもない。
ギルドの支部に頼み込んで剣士の仕事を分けてもらって、などと考えてもいたものの、年齢相応かそれ以下の身体つきの自分には、普通の肉体労働さえありつけるか怪しいものなのである。
つい先ほどまで身体全体を伸ばしに伸ばして訴えていた少年は、今では小さくなって、上目遣いで口ごもってしまった。
そして、二人の間にしばし奇妙な沈黙が訪れた。
玄関の扉は開け放していたままだったので、遠くで犬の鳴くのが聞こえる。
三回ほど鳴いただろうか。その間にとても長い時間が流れていたように感じられた。
ふと、主人が頬杖に使っていた右手を外して、真直ぐ座り直した。
もう数十秒このままならもう一度頼み直そうか、と思い始めていたカイは、とにかく主人から返事がもらえそうでほっとした。
だが、同時に、それは緊張の瞬間の到来も意味している。
少年は不安気に閉じていた口を、真一文字に固く結び直した。
主人の右手が肩くらいの高さに挙がる。気だるげに伸ばされた腕の先は、しかし無情にも玄関を指差した。
「お帰りはあちらだよ」