序章
南北よりは東西に広いランディアリス大陸。
この大陸の随所では遠い過去より多くの国が興り、栄え、滅び、今もなおその営みの行く末に結論が出される気配はない。
恐らくはこれからも、これまでそうであったように栄枯盛衰は繰り返されることであろう。
だが、その中でもほんの一時、たとえば後の世には古代を脱しきった直後の時代として扱われることの多い創歴九百年頃ならば、大陸の主役たちは次のようであった。
大陸中央部の大国、マグナテラ帝国。
マグナテラ帝国とは北に国境を接する、これも大国、アグバール帝国。
両帝国からは西方のカーラン王国。
それとは反対に東方のシャイア帝国。
北方のラナホウン王国。
そして、シャイアを除いた右のすべての国に囲まれた、イーヴ共和国。
これら六国が、この時代を彩る華であり、明々と照らす灯であり、どくどくと脈打つ心臓なのであった。
そして、これらの国々は当たり前のことだが、他のそれぞれの国から超越してあったのではない。
互いに干渉し合っていたのである。
それはある時は友好的なものだっただろうし、またある時は血を見ずには済まないようなものだっただろう。
それは一人の人物の思惑によって行われたことかもしれなかったし、あるいは誰にもどうしようもなく、気付いたらそうなっていたのだったかもしれない。
とにかくこれら国と国との間は、いつの時代でもそうなのだが、この時代でも事あれば兵士たちが、平和なときでも外交官らが、頻繁に行き来していたのである。
しかし国々を行き来するのは、なにも外交官らの専売特許だったというわけではない。
むしろ外交官とて、とある人種と比べれば他の人間など素人もよいところかもしれない。
なにしろ彼らときたら、耳と鼻が図抜けて高性能にできており、どんな些細な噂にもつまらない事実にも国境を越える必要性を見出してしまうのだ。
「マルジーバでは今年、葡萄が採れすぎてしまったらしい」
「トリンピアの公爵様の館は、もう随分家具が傷んでしまっているってね」
「エルタカスタをまた盗賊が襲ったそうだ。皆テテュス湖を迂回しているよ」
等々、人によっては相槌一つ打って終わってしまいそうな話題でも彼ら商人、そう、商人にとってはすべてに一儲けの芳香が漂っているのである。
そして銅貨一枚でも多く懐に入れることのできそうな地を求めて、隣町に出掛けでもするかのように決断し、発ってゆくのだ。
まったく、国が心臓ならば、まるで彼らは酸素やらなにやらを隅々まで行き渡らせる血液なのであった。
血液には血管が不可欠だ。
つまり目的地まで彼ら商人を滞りなく進ませる道がなければならない。
人体ならば不思議なもので、頼みもしないのに必要だと思われる器官が無造作に、しかし驚くほど精緻に造り上げられる。
ならば実際の人間世界の方はどうかというと、これまた不思議なもので、人々の営みに必要になるものは、それを使う者からすればいつのまにか出来上がっていたりするものなのだ。
道とてそのうちの一つである。
さて、その道なのだが、この時代のランディアリス大陸には大きなもので「大街道」と呼ばれるいくつかの道がある。
とはいっても他の道に比べて目に見えて大きな道路というわけではなく、六国を、その前身であった国の時代から結び付けていた歴史ある道といった方が実態により近い。
それらのいくつかは時代ごとに名前が変わったりしたこともあったが、道筋が大きくずれるなどということはない。
大街道といえば誰もが頭の中の世界地図に、父から、祖父から聞いた幾条かの筋を思い浮かべる。
それがランディアリス大陸の大動脈であることを、直接踏みしめぬ人々ですら知っていたのだ。
それぞれの大街道は、いずれも変事でもない限りはその路上を東西へ、あるいは南北へと急ぐ商人や旅人の姿を目にしない日はない。
各街道の整備や補修はその街道の通る国によって違うので、国境を越えた途端に足元の感触が変わるなどということはざらである。
そして、大街道に限っては道行く人々を見るだけでは、そこがどの国かは判然としないということも、またざらであるのだ。
このように世界を巡る血管である街道と、その中でも大動脈である大街道なのだが、その中でも特に行き交う人の数が多く、ために別名で呼ばれるルートが存在する。
この時代でいえばアグバール帝国の首都アシュベルタとカーラン王国の首都ウォニアを結ぶルートになるのだが、この間のいくつかの街道を総称した名となる。
人々はその道の名を「金の道」と呼ぶのだった。
とはいえ「金の道」と呼ばれてはいるが、なにも本当に金を運ぶための道であったわけではない。
金とは富のこと、すなわち世界の富の多くが行き交う通商路であったことからそう呼ばれるようになったのである。
富の集まるところには人も集まる。
人が集まれば、そこにはそれだけのストーリーが生まれる。
金の道は、その上を往く品々や金銀に劣らぬ量の人間世界の悲喜、愛憎、成功、絶望、それらを乗せては送り出してきたのだった。
そしてそれは昨日も、今日も、明日も、どの時代でも行き交う人がいる限りは止まることはない。
本当にこの世が見たくば金の道へ行くことだ、と言った者までいる始末。
そして、それに対して道は一言も物言わぬ。
ただそこにあって、通り過ぎる人と、物と、それらにまつわる物語を冷ややかに、しかしすべてを包み込むように見守るのみである。
それでもなお、この道を往く者は皆希望を胸にしている。
この道を往ききれば、後何日後かに、この荷がこれだけで売りさばければ、そうなればこの世の蜜を口一杯に含めると信じて。
そうはならぬ者もいることは、彼らとて重々承知のことだろう。
富とは、それに根差した幸せとは、他人と相容れぬ場合が不幸にして大半である。
誰かが笑えば、その陰で誰かが泣くのである。
しかし彼らは、我こそが唯一人の栄華を手にすると信じて、今日も金の道をひた急ぐ。
それが彼らの足を前へ進ませる原動力なのだ。
この物語の主人公も、金の道や他の大街道に汗と涙を染み込ませたことでは、先人とも同じ時代の人々とも変わらない。
彼の一生もまた、多くの話と同じく金の道の草原に、まるで海原に浮かんでは弾ける泡のように、一時の烈しさを伝えられるのみだろう。
ただ彼が他の泡のように、消えて後はどこへいったか知れぬように思われるのと違うのは、彼の足跡が永く残ったからである。
それを前にした人の幾人かは彼を胸の中に思い描くのだ。
人は名を残す限りは死なない。
それどころか生前より活き活きとその姿と生き様とを、年を経るごとにより多くの人々の瞼の裏に写し出すことさえある。
そうなった時、一抹の泡が、実はそれを生んだ海と同じほど大きな存在であったと人は気付かされるのである。
そして物語は、その頃の緑の海原そのものとして語られるのだ。
後世、この栄誉に浴することとなる一人の男の成したことを知りたいと欲するなら、英雄譚の数篇でも読めばたちまちわかってしまう。
多少の誇張は免れないものの、どのような叙事詩も要所は外さずに書いているからだ。
それは彼の遺した、彼の生きた証が、詩人たちに想像の余地も与えぬほどに明確だった証拠でもあるのだが。
しかしこの物語は、まだ彼がその名を誰にも知られぬ頃から始めたい。
彼の最も有名な時期を知るには少々回り道だが、そうした方がよりこの男の息遣いを近くに感じられることになると思うから。
そしてそれは唯一、この時期がどの書物にも載っていないために余人は味わうことのできない、ある意味では最高の贅沢であるのだ。