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ティーポット

作者:

 私が経営している喫茶店は、私の祖父が若い頃にオープンした小さな店である。当時は人が行き交う大きな通り沿いにあったが、時代の流れによって現在は道をひとつ外れた静かな裏通りにひっそりとあり、昼でも少しばかり暗いことが難点ではあるが、夕方の時刻だけは、西日が店の前にある細い道を照らしてくれ、私はそこが気に入っていた。


この喫茶店には毎週水曜日、ぱったりと人が来なくなる時間がある。その代わり、いつも店を入って奥の窓際の席に、一人の女性が座っている。彼女は私が少しよそ見をしている間にいつのまにか現れており、扉には小さな鐘が取り付けられているので、誰かが店に入ってくれば必ず気付くはずなのだが、私は今までで、一度も彼女が扉を開けて中に入るところを見たことがなかった。


初めは幽霊なのかと思ったが、私はなぜか冷静だった。普通の客にするのと同じように注文を伺いに行くと、彼女は無言でメニューを指さす。その指先には『アールグレイ(ティーポット)』とあった。メニューを伝える指は、皮膚を通してうっすらと血管が見えるほど白かった。


 注文されたアールグレイを持っていくと、彼女はやはり無言であったが、軽く頭を下げた。


「ごゆっくり」


 彼女は無反応だったが、私は気にせずカウンターに戻ってグラスを拭く振りをしながら、そっと彼女の様子をうかがう。彼女はしばらく黙ってポットを見つめていたが、数分後にポットに手を伸ばし、そしてゆっくりとカップに紅茶を注いでいく。ちょうどいいところで手を止め、ポットをそっとテーブルに置くと両手でカップを持ち、またしてもゆっくりとカップに口を近付けた。


 彼女が三度ほどそれを繰り返し、私はもう彼女を気に留めることをしなかった。しかし、ふと彼女がいた席を見ると、いつのまにか彼女は姿を消していた。あわてて彼女がいたテーブル席へ行くと、テーブルの上には紅茶の値段ぴったりのお金が綺麗に並べて置かれている。いったいいつのまに店を出たのか。扉の鐘の音は聞こえなかった。いや、もしかしたら聞き逃しているのかもしれない。そんなことを考え、しかしもう来ることはないだろうと思っていたが、彼女はその日と同じ曜日、同じ時間にまたいつのまにか現れた。


 彼女は先週と同じように無言でメニューを指さし、そこには同じように『アールグレイ(ティーポット)』とあった。なぜった。いつのまにか現れ、いつのまにかお代を置いて消えるというだけで、それ以外はまったく他の客と一緒であった。







 ある日の水曜日、いつもの時間になった頃、カランカラン、と店の扉を開ける音を聞き、一息つくために入れていたコーヒーを注ぐ手を止めた。もしやあの女性かと顔を上げると、扉の前には杖を持った上品そうな初老の男性が立っていた。この時間に、あの女性以外の客が来ることに驚いた私は、しばらく呆然と彼を見つめていたが、はっとして「お好きな席にどうぞ」と平静を装って彼に声をかけた。彼は穏やかな笑顔を私に見せると、微かに頷き、迷うことなく店の奥にある窓際の席にゆっくりと腰をおろした。いつも彼女が座る席―――、私は少しばかり動揺した。もし彼女が現れたらどうしたらいいのかと考えた。しかし、もしかしたら彼女の知り合いで、ひょっとしたら待ち合わせをしているのかもしれないとも考える。


 私がそんなことを考えているなんて知るはずもない男性は、私にコーヒーを注文した後、のんびりと窓の外を眺めていた。


昔であったなら、きっと昼間でも陽が当たり暖かい道を行き交う人々を窓の外から見ることができたかもしれない。しかし今は昼間でも薄暗い路地裏になっており、通りがかるのは野良猫くらいである。窓の外を眺めて何が楽しいのだろうかと思いながらコーヒーを注意深く注ぎ、ふと顔を上げると、いつのまにか男性の目の前に、あの女性が男性と向かい合うかたちで腰かけていた。彼女は少しだけ俯き、しかし微かに笑っている。私は彼女がそのような表情をすることに驚いたが、感心のないふりをしながら、彼の元へコーヒーを持っていき、次いで彼女に顔を向ける。


「アールグレイのティーポットでよろしいですか」


 彼女は私を見上げ、こくりと頷く。初めて見る彼女の目はとても澄んだ色をしていた。


 私はいつものように、紅茶が入ったポットとカップを持って彼女の元へ向かう。彼女は普段通り、しばらくポットを見つめて、それからゆっくりとカップにお茶を注ぎ、そしてそっとカップに口をつけた。しばらく二人は無言だった。私はなぜか二人から目を離すことが出来ず、じっと二人の行方を見守っていた。すると、窓の外には人が何人も行き交い、太陽の光を浴びた大通りが視界に飛び込んできた。何度も瞬きを繰り返すが、確かに今、かつてこの喫茶店から見えたであろう暖かな通りが外に存在している。私はもう驚くことはなかった。初老だったはずの男性は、いつのまにか若い男に変わっており、しかしその人物は確かにあの初老の男性なのである。


「随分と待たせてしまった」


 彼が優しく言うと、彼女はゆっくりと首を横に振る。


「もう少しだけ、待っていてくれるかな」


 彼女はこくりと頷き、そして立ち上がった。私の元へやってくると、そっと手のひらを差し出す。初めて彼女と正面から向かい合うことに緊張し、固まっていると、彼女はカウンターの上に紅茶のお代をそっと置いた。


「いつも何も言わずに、お金だけ置いてしまってすみませんでした。紅茶、とてもおいしかったです」


 ごちそうさまでした、と言い終え彼女は入口へ歩いて行く。店を出て扉が閉まる前に私は「またお待ちしております」と声をかけた。彼女は横顔を見せて微笑むと軽く会釈をした。


 初めて彼女を見送り、残された男性のほうを見ると、そこにはもう誰も座っていなかった。窓に映っていた大通りもいつのまにかなくなっており、人も歩いていない。テーブルに近付くと、そこにはコーヒーのお代ぴったりのお金が、綺麗に並べられていた。窓から見える、店の前の細い道は、橙色に染まっている。


〈了〉

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