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泥中の鳳凰 〜第一皇子から始まる帝国再興記〜  作者: 程 浩洋
【第1章】千の爪牙と静かなる胎動
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プロローグ

「黎溟(レイメイ)様、お目覚めでございますか」


重厚な楠の扉の向こうから、聞き慣れた控えめな声が響いた。

その声にゆっくりと瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは天井を飾る繊細で豪華な龍と鳳凰の木彫り細工だった。天蓋から垂れ下がる深い紫色の絹の帳(とばり)が、朝の柔らかな光を遮り、室内に神秘的な陰影を作り出している。


(……ああ、そうだ。俺はもう『氷室凪斗』ではないんだ)


ベッドの中で自分の手を見つめる。かつて現代日本でペンを持ち、有名進学校でひたすら模試の偏差値と向き合っていた少年の手ではない。細く滑らかで、それでいてどこか冷ややかな質感を帯びた、皇族特有の美しい手。

鏡を見ずとも分かる。かつて『煌明帝国(こうめいていこく)』の宮廷絵師たちが「氷の彫刻」と称えた、整いすぎた容姿。銀糸のような光沢を持つ黒髪と、奥底に冷徹な知性を秘めた瑠璃色の瞳。この世界の皇族、それも初代皇帝の遺伝子を色濃く受け継いだ完璧な美貌だ。


「入れ、白蓮(ハクレン)」


体を起こし、簡潔に告げる。

扉が静かに開き、白銀の刺繍が施された侍従服をまとった青年が入ってきた。長年、第七皇子である黎溟(レイメイ)に仕えてきた忠実な側近、白蓮だ。


「本日の朝見の儀、並びに諸国からの献上品目録の確認の準備が整っております。皇帝陛下のお体の具合ですが……今朝も御医者(ごいしゃ)様方が頻繁に出入りしておられました」


白蓮の声には、隠しきれない緊張が混ざっていた。

黎溟は無言で頷き、差し出された上質な絹の衣装に袖を通す。


皇帝——この広大な煌明帝国を一代で築き上げた絶対的権力者。だが、その命の灯火が消えかけていることは、城内の誰もが知る公然の秘密だった。

そして皇帝が倒れた時、この帝国に訪れるのは悲劇的な権力闘争だ。


初代皇帝は、生涯で多くの妻や妾、愛人を囲み、残した子供の数は実に六十人近くに上る。男女の比率はほぼ半々。そして恐ろしいことに、帝国の律法において「皇帝の血を引く実子は、生母の身分に関わらず全員が均等に皇位継承権を有する」と定められていた。


「六十人の兄弟姉妹……まさに地獄の盤上遊戯だな」


低く呟いた言葉に、白蓮がぴくりと眉を動かした。


「黎溟様、お言葉が過ぎます。他の皇子方の耳に入れば、いらぬ口実を与えます」


「分かっている。誰もいないここでしか口にしないさ」


黎溟は淡々と答えながら、胸の内で冷たい計算を巡らせていた。


(俺の現在の立場は『第七皇子』。一見すれば上位の継承権を持っているように見えるが、母は身分の低い側室で既に他界している。バックに強力な貴族や有力部族の支援がある第一皇子や第二皇子に比べれば、実質的な勢力は皆無に等しい。……ふん、だからこそ誰も俺を本格的な脅威としては見ていない)


だが、周囲の油断こそが最大の武器だ。

現代の進学校で培った圧倒的な論理的思考力、そして転生後にこの世界の政治・軍事・歴史を貪るように学んで得た膨大な知識。黎溟の頭脳は、すでにこの帝国の権力構造を完璧に把握していた。


帝国の東方は常に小規模な紛争が絶えない危険地帯。

北方の広大な草原を駆ける「首長国」の騎馬民族は、古くから帝国の国境を脅かし続けている。

西には世界最大の宗教拠点を擁し、精神的支配力を誇る「聖皇国」。

南には小国がひしめく「諸国連合」があり、さらに鍛冶技術で世界をリードする永世中立国「ドワーフの王国」や、強力な魔物が潜む神秘の「樹林」が存在する。


人間を中心としつつも、エルフやドワーフ、獣人といった多種種族が存在するこの世界で、煌明帝国は中央に位置する大国だ。しかし内情は、皇帝の余命と共に崩壊寸前の均衡を保っているに過ぎない。


「白蓮、今日の午後の予定は?」


「第三皇子・炎龍(エンリュウ)様からの茶会のご招待がございます。また、財務院からの報告書が届いております」


「第三兄上か……」


黎溟は瑠璃色の瞳をわずかに細めた。

第三皇子・炎龍。武勇に優れ、軍部の一部に強い影響力を持つ男だ。一見すると豪快で単純な性格に見えるが、その裏でどのような策を巡らせているかは分からない。


(皆、自分が次の皇帝になると信じて疑っていない。だが、皇帝の座に就くのは俺だ。そのためなら、利用できるものはすべて利用する)


冷徹な決意を胸に秘め、黎溟は紫翠宮(しすいきゅう)の廊下へと踏み出した。


その頃、帝国の後宮に近い庭園の東屋(あずまや)では、一人の少女が可憐な桃色の衣装の裾を揺らしながら、お茶を口にしていた。


彼女の名は、諸国連合を構成する小国の一つから「平和の証」として差し出された姫君、恋華(レンカ)。

しかし、彼女には誰にも言えない重大な秘密があった。


(信じられない……まさか本当に、あの乙女ゲーム『煌めきの帝国〜蓮華の恋歌〜』の世界に転生しちゃうなんて!)


恋華は心の中で絶叫していた。

現実世界で生きていた頃、彼女はこの大ヒット乙女ゲームの重度なヘビーユーザーだった。古代中国風の架空の帝国を舞台に、ヒロインが様々なイケメン皇子や将軍たちと恋に落ち、権力闘争の渦中で愛を育む物語。


(そして……私の最推しにして、ゲーム内屈指の難関攻略対象! 第七皇子・黎溟様!)


恋華は頬を染め、思い出していた。

完璧な美貌を持ちながら、クールで滅多に感情を表に出さない氷の皇子。しかし、裏ルートでは悲しい過去に胸を痛め、一人で静かに涙を流すというギャップに全プレイヤーが悶絶したのだ。


(ゲームのシナリオ通りなら、これから皇帝陛下が崩御されて本格的な後継者争いが始まるわ。黎溟様は生母の身分が低くて苦戦するけれど、私がゲームの知識を使って彼を助ければ……絶対にハッピーエンドを迎えられるはず!)


恋華の瞳に強い光が宿る。


(待っていてくださいね、黎溟様。私があなたを絶対に皇帝にして、そして……あなたの特別な存在になってみせますから!)


少女の野心と純情が交錯する中で、帝国の運命の歯車は静かに、しかし確実に動き始めていた。


午後、第一皇子派と第二皇子派の牽制が激しさを増す中、黎溟は第三皇子・炎龍の宮殿を訪れていた。


「よく来たな、黎溟! さあ座れ」


豪華な装飾が施された応接の間で、豪快な笑い声をあげたのは赤銅色の髪を持つ力強い体格の男、第三皇子・炎龍だった。その隣には、静かに笑みを浮かべる初老の軍師風の男、頼権(ライケン)が控えている。


「お招きいただき光栄です、第三兄上」


黎溟は完璧な作法で一礼し、用意された椅子に腰掛けた。

表情には一切の隙がない。


「堅苦しい挨拶は抜きだ。父上の余命が幾ばくもないことは、お前も分かっているだろう?」


炎龍は茶を一口飲むと、単刀直入に切り出した。その目は鋭く黎溟を射抜いている。


「はい。城内の緊張は日に日に高まっております」


「第一兄上の『文官派』と、第二兄上の『大貴族派』が正面からぶつかれば、この国は割れる。俺は軍を率いて国境を守ってきた。この国に必要なのは力だ。どうだ黎溟、お前も俺を支える気はないか? お前のその知恵と器量、俺の下で存分に振る舞ってみよ。お前を無駄には扱わん」


甘い誘いだった。勢力を持たない第七皇子にとって、強力な第三皇子の庇護下に入ることは、生き残るための現実的な選択肢に見える。


だが、黎溟の頭脳は瞬時に炎龍の真意を見抜いていた。

横に控える軍師・頼権の僅かな目線の動き、そして炎龍の言葉の端々に見え隠れする打算。


(俺を味方につけたいのではない。俺という『身分の低い皇子』を看板にして、文官層や中流貴族の懐柔に使いたいだけだ。用が済めば、都合の良い傀儡として処理されるか、最前線に送られるのが目に見えている)


「身に余るお言葉、恐縮に存じます」


黎溟は静かに伏し目になり、悲しげな陰りを顔に浮かべた。その演技は完璧だった。


「ですが、私は母の身分も低く、政治や軍事の才など持ち合わせておりません。ただ、兄弟の皆様が争うことなく、この帝国が平穏であることを祈るばかりでございます……」


儚げで繊細な皇子を完璧に演じる黎溟を見て、炎龍は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。軍師の頼権も満足そうに頷いている。「この第七皇子は害にはならない」と判断したのだ。


「……そうか。お前らしいな、黎溟。まあいい、困ったことがあればいつでも俺を頼るがいい」


「感謝いたします、兄上」


茶会を終え、宮殿を後にした黎溟の足取りは冷ややかだった。

背後に続く白蓮が、低く囁く。


「……見事な御芝居でした、黎溟様。第三皇子派は完全に油断いたしましたね」


「油断させておけばいい。第三兄上は武勇に優れるが、大局を見る目が欠けている。次の嵐で最初に足をすくわれるのはあの人だ」


「では、我々の次の手は?」


「外の力を使う」


黎溟は静かに立ち止まり、遠く南の空を見上げた。


「諸国連合、あるいは聖皇国。帝国の内情が混乱すれば、必ず外圧がかかる。その混乱を制した者こそが、本当の覇者となる。白蓮、暗躍している諸国の使者たちの動向を探れ。特に、最近入国したという諸国連合の姫の動きをな」


「かしこまりました」


冷徹な指示を出しながら、黎溟は胸の奥に小さな痛みを覚えていた。


(本当は……こんな欺き合いなどしたくはない)


ふと、現代日本で過ごした穏やかな日々が脳裏をよぎる。勉強に追われながらも、友人たちとくだらない話で笑い合っていたあの時間。

ここには、誰も信用できない孤独な世界しかない。兄弟ですら蹴落とし合う死地だ。


(泣くのは、全てが終わってからだ)


黎溟は胸の中で呟き、弱気を押し殺すように深く息を吐いた。


——しかし、この時の黎溟はまだ知らなかった。

彼を巡る運命の渦の中に、彼を心から愛しようとする者、彼を激しい情念で利用しようとする者、そして異世界からの『知識』を持った少女が、複雑に絡み合っていくことを。


帝国の黄昏と、過酷な覇道への第一歩が、いま静かに踏み出されたのだった。

誤字報告、ここ好き、感想楽しみに待っています

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