残り十年を噛みしめる
残り十年を噛みしめる
「この肉、いつものと違うな」
恵子がフライパンの蓋を取る前に、居間から隆一の声が飛んできた。換気扇の下では、二つのハンバーグの縁から透明な脂が泡になって出ている。恵子は菜箸で片方を少し持ち上げ、焼き色を確かめてから蓋を戻した。
「まだ食べてもいないのに、分かるの」
「焼ける匂いが違う。駅前の肉屋の挽肉は、もっと甘い匂いがするよ」
今日の肉は、スーパーで百グラム百二十八円だった国産の合挽肉だ。先週使った黒毛和牛入りの挽肉は、百グラム三百八十円。恵子は値札の前で二つのパックを持ち比べ、安いほうを買い物かごに入れた。大根おろしをたっぷり乗せれば、隆一も気にせず食べると思っていた。
「いい肉なら、塩と胡椒だけでうまいんだ。ケチくさいこと言うなよ。自分の歯で好きなものを食えるのも、どうせあと十年くらいなんだから」
隆一はテレビを見ながら言った。その「あと十年」を、退職してから何度聞いただろう。恵子は火を弱め、コンロの横に置いたレシートを裏返した。今月の食費を足すのは、夕飯の片づけが済んでからにしたかった。
二人とも六十五歳だった。隆一は食品メーカーの営業として四十年働き、住宅ローンを払い終え、二人の子どもを独立させた。取引先と食べ歩いた店の話をするときは、今でも駅の出口や料理の順番まで覚えている。退職金を含めた貯蓄は一年半前に三千万円あり、夫婦の年金は合わせて月に約二十五万円入る。
けれど、食費は月十五万円を超えていた。家の修繕用に積み立てる分まで含めると、毎月の支出は約三十三万円になる。恵子がその話をすると、隆一は決まって「三千万もあるんだぞ」と言った。年金の日に通帳を記帳するのは恵子だけで、隆一は最初の残高を、今も現在の残高のように口にしていた。
「はい、できたわよ」
恵子がハンバーグを運ぶと、隆一は大根おろしを脇へ寄せ、肉だけを一口食べた。箸の先で断面を見て、小さくうなずく。恵子は向かいの椅子を引き、味噌汁の椀を手元に寄せた。
「食えなくはないな。でも次は、駅前の肉屋にしてくれよ」
隆一は大葉も一緒に口へ運び、そのまま野球中継に目を戻した。恵子は自分の皿のハンバーグを箸で半分に切った。玉ねぎは朝のうちに炒め、冷ましてから混ぜてある。安い肉でもおいしくなるようにした、その手間については何も言わず、大根おろしを断面に乗せた。
二週間後、十一年使った冷蔵庫が冷えなくなった。修理を頼んだ人に買い替えを勧められ、恵子は冷凍庫の肉を保冷バッグへ移した。同じ週に車検の請求書と、庭のウッドデッキの補修見積もりが届いた。どれもいつか必要になると分かっていた支払いで、三つ合わせて約二百万円になった。
銀行で定期預金を解約し、振り込みを済ませたあと、恵子は通帳を記帳した。機械から出てきた通帳を開くと、黒いインクの最後の行に「26,560,000」とあった。住宅ローンのない家で、夫婦そろって年金も受け取っている。それでも、一年半前に三千万円あった残高は、もう二千六百万円台だった。
恵子は通帳を閉じ、銀行の隅にある記帳台でしばらく立っていた。毎月八万円ほどの赤字が積み重なり、そこへ今日の支払いが重なった数字だ。計算すれば合っている。合っているからこそ、もう一度開いても黒いインクは変わらなかった。
帰りに寄ったスーパーには、真鯛の刺身が一さく八百八十円で並んでいた。隆一が好むのは、端の薄いところより、皮目に脂の乗った厚いところだ。恵子はパックに手を伸ばしかけ、代わりに隣の四百九十八円のマグロを見た。どちらもかごに入れず、入口へ戻った。家では夕べのひじきと豆腐が残っている。
翌朝、恵子は自治体の広報紙を開き直した。小さな囲み記事に、区民センターで開かれる生活設計講座の案内があった。電話で申し込むと、持ち物は筆記用具と、おおよその家計が分かるものだと言われた。恵子は昨夜書き終えた家計簿を、青いプラスチックのファイルに挟んだ。
土曜日の地下会議室には、パイプ椅子が三十脚ほど並んでいた。前の席の男性は車の買い替え費用を、斜め後ろの女性は屋根の修理代を、配られた紙の余白に書き込んでいた。講師のファイナンシャルプランナーは、将来の残高を必ず当てる表ではないと断ってから、夫婦それぞれの年齢、収入、支出を書くよう促した。
「まず、今と同じ暮らしを続けた場合を書いてください。次に、変えられる支出を一つだけ変えてみましょう。介護や医療にいくらかかるかは人によって違いますから、別の欄に、ご自分たちが備えたい金額を置いてください」
恵子はキャッシュフロー表に、年金収入を年間三百万円、普段の支出を約三百九十六万円と書いた。今の暮らしなら、毎年およそ九十六万円が貯蓄から出ていく。通帳の残高を出発点にすると、十年後には約千六百万円になる。冷蔵庫や車検のような出費が、もう一度も起きない計算だった。
恵子は七十五歳の欄に鉛筆を止めた。隆一の言う十年が終わっても、そこから先の表には八十歳、八十五歳の行がある。貯蓄の横には、家の修理と、二人の医療や介護に備えるための空欄が残っていた。金額を書こうとして、恵子は鉛筆を置いた。夫が何歳まで生きるかも、自分がどんな手助けを要するかも、ここでは決められない。
帰りの電車で、恵子は食費を月十二万円にした場合も書いた。平日の食材と、週末の少しいい魚や肉。それに隆一の晩酌代も入れる。月三万円減らせば、毎月の赤字は約五万円になる。十年後の残高は、単純計算で約二千万円。十分かどうかはまだ分からなかったが、同じ十年で三百六十万円の差がついた。
家に戻ると、隆一はソファで野球中継を見ていた。テーブルには、デパ地下の銀鱈の西京漬けが一切れ入った包みと、レシートがある。税込み千二百円。恵子が買い物袋を置くと、隆一は画面から目を離さずに包みを指さした。
「今日の夕飯、これを焼いてくれよ。いい脂が乗ってそうだ」
恵子は手を洗い、青いファイルをテーブルに置いた。野球中継はちょうど回の間に入っている。音量を下げ、通帳をファイルの横に開くと、隆一の目がレシートから最後の残高へ移った。
「隆一さん、夕飯の前に一緒に見て」
「なんだ、改まって」
「今、うちにいくらあるか、あなたにも知っていてほしいの」
恵子は黒いインクの数字を指で示した。それから、支出を書き込んだ表を横に並べた。隆一は通帳を手に取り、一行ずつさかのぼってから、今日の車検代の振り込みに指を止めた。
「三千万あったはずだろう」
「一年半前にはね。普段の暮らしで毎月八万円くらい足りなくて、今月は冷蔵庫と車検とデッキが重なったの」
「車検は仕方ない。冷蔵庫だって、買わないわけにはいかないだろう」
「そうよ。だから、この先も何かが壊れると思っておきたいの。まず、今の暮らしを続けた場合を見て」
恵子は七十五歳の欄を指した。隆一は表に顔を近づけ、現在の残高からそこまで鉛筆の線をたどった。テレビでは次の回が始まったらしい。球場の歓声が小さく聞こえたが、隆一は振り向かなかった。
「……思ったより減るな」
「あなたの言う、美味しく食べられる十年が終わっても、私たちの暮らしは続くわ」
隆一は表の下のほうを見た。八十歳を過ぎた行には、恵子がまだ埋められなかった空欄がある。彼はそこを指で押さえ、通帳をテーブルに戻した。
「お前は、ずっとこれを見てたのか」
「うん。食費の話をすると、ケチくさいって言われたから、途中で言うのをやめてた」
隆一の手が、銀鱈の包みに伸びかけて止まった。彼はレシートを裏返し、値段をもう一度見た。それから恵子の皿のない席を見て、眉間に指を当てた。
「悪かった。うまいものを食べたいばっかりに、買うほうのことを考えてなかった」
「駅前の肉屋のお肉、私も好きよ。今夜の銀鱈も食べたい。でも、毎日を特別な日にしたら、特別な日の分まで先に使ってしまう」
恵子はもう一枚の表を出した。食費を十二万円にした場合の数字が書いてある。隆一は「晩酌代を含む」と書かれた小さな文字を見つけ、恵子の顔を見上げた。
「酒も入って十二万か」
「月の上限は十二万円。外食は月二回くらいにして、駅前のお肉もデパ地下のお魚も、週末の楽しみに取っておくの。まず一年やってみて、家の修繕にいくら要るかも、二人で見直したい」
隆一はしばらく表を見ていた。やがて銀鱈の包みを持ち上げ、一切れしかないことに気づいたらしく、包みを開いて恵子へ見せた。
「これは、半分ずつだな」
「豚汁が残ってるから、ちょうどいいわ」
「それなら来週の肉屋も、買う前に値段を見て決めよう。俺も一緒に行くよ」
恵子は表を青いファイルへ戻した。隆一が通帳を渡してきたので、それも同じ場所に収める。ファイルの留め具を閉める音が、テーブルの上で小さく鳴った。
夕飯には、銀鱈を半分ずつの皿に分けた。残り野菜を入れた豚汁と、きゅうりの浅漬けを添える。隆一のグラスにはいつもの量の酒を注ぎ、恵子は麦茶を注いだ。二人の箸が揃って魚の皮を外し、白い身から西京味噌の香りが立った。
「半分でも、いい鱈だな」
「そうね。来週は特売の合挽肉よ」
隆一は箸を止め、豚汁の具を一口食べた。恵子が前に作ったハンバーグの皿を思い出したのか、少し首をかしげる。それからグラスを持ち上げた。
「大根おろしのやつか。今度は、焼ける匂いだけで決めずに食べるよ」
「食べたあとなら、注文を聞くわ」
隆一が笑い、恵子も箸を持ったまま笑った。銀鱈はもう半分ほどになっていたが、豚汁の鍋には明日の朝の分も残っている。恵子は魚の身をもう一口、ゆっくり噛んだ。




