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私が産んでない私の子 ~見知らぬ女が旦那の子を妊娠したと言ってきた~  作者: コイル@オタク同僚発売中


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9/10

聞かせてぶつけて、粉々に

「おかえり」


 千葉から家に帰ってくると、凌が笑顔で出迎えてくれた。

 先月まで出張が多く、家に帰って来る時間も遅かったように感じるけど、ここ数日は毎日早い。

 晩ご飯を作ってくれたようで、良い香りがする。

 凌が自然と私を抱きしめようとするので「手を洗ってないから」と制して洗面所に向かった。

 蛇口をひねって手を洗いながら、話す順序を再度組み立てる。

 大学時代から発表が得意だった。

 聞いている人たちは何も知らない。

 ここからどうしたら人の興味を引けるか、最後まで聞いてもらえるか、迷子にせずゴールまで連れて行けるか。

 それだけ考えて発表を考えた。


「……その時の感覚に似てる」


 私は手に水を当てながら呟いた。

 指先に当たる冷たい水で、指がぶれる。

 私は手を水の中で逆らうように握った。

 そして水をすくって顔を洗った。

 着替えてリビングに向かうと、今日はシチューを作ってくれたようで凌が私に向かって、


「パンどれくらい食べる? ワインもあるけど」

「今日無理言って休んだから、明日早いの。だからお酒は飲めないな」

「そうか。俺は飲もうかな。だってやっと詩織とふたりっきりになれたんだ」

「そうね、ずっとふたりだったけど」


 私はそう言って椅子に座った。

 ずっと考えながら帰ってきたから全くお腹がすいてない。

 私は「いただきます」と言って食べ始める凌を見て口を開いた。


「ねえ、私が三年前の誕生日にプレゼントした電気シェーバーの袋って、どこにある?」

「え、突然なに? 会社で使ってるから会社にあるんじゃないかな。あれもう一個欲しいな。革が柔らかくて使いやすいんだ」

「そう。それが今日ね、菜々美さんの荷物から出てきたよ」


 私はポケットに入れておいた凌の電気シェーバー入れを机の真ん中に置いた。

 凌の最初の反応から目を離さないようにしようと思って見ていたら、表情ひとつ変えずに、


「え、無くしたと思ってた! そうか、リボンマートに忘れていったのか」


 そう言ってその袋に手を伸ばした。

 私はその袋を引っ込めた。


「電気シェーバーをリボンマートで使うの?」

「無くしたのがいつ頃か覚えてないけどあの頃は忙しくて、前の日千葉に泊まってたんだよ。それでそのままリボンマート行ったから、その時にトイレで剃ったんだ。面談前に気になったんだよな、髭が。悪いだろ相談前に髭が伸びてるなんて」


 凌はスラスラと答えるが、私は首を振る。


「凌が外出先のトイレで髭を剃ったのなんて見たことがない。凌は汚いトイレは使わない。ホテルやショッピングセンターのトイレをわざわざ探して使う。いつもそう。新宿駅の有料トイレを私に教えてくれたのは誰? その人がリボンマートのトイレで髭を剃ったの?」

「俺だってイヤだけど、緊急事態には使うよ」

「ホテルに泊まっていたのに? 面談前に突然? 凌は髭を剃るのに時間がかかるのに?」

「忘れていたんだ、剃るのを」


 嘘だ。

 これは正直凌の性分からしてあり得ない。

 今まで一緒にいて凌がスーパーのトイレに入る所自体をみたことがない。

 我慢して必ず駅のトイレや、ある程度綺麗なところを探す。「苦手なんだ、汚いトイレが」そう言っていたのを覚えている。

 でもお腹の調子が悪かったら入るだろう。絶対にゼロだなんて証明しようがない。

 ここから先は水掛け論だし、私は世界で一番それが苦手だ。

 答えが出ないことで言い争うことを、私は時間と感情の無駄使いだと感じる。

 私は凌を見て、


「運動率0%でも自然妊娠をしている人が世界に数人いると知ったわ」

「……なんの話だ……?」

「凌と同じ。重度乏精子症で運動率0%。それでも自然妊娠している夫婦がいたのよ」


 凌と菜々美さんがセックスしているかもしれない。

 そう思った時に、私は男性不妊の文献や論文を片っ端から読み始めた。

 本当に絶対に0%なのか、凌と同じ状態の人で自然妊娠した可能性はないのか。

 そして知ったのだ、運動率0%でも自然妊娠したことがあると。

 正常の精子なら1ミリリットルの中に1500万個の精子がある。

 凌は2万個しかいなかった。そして運動率0%。全く動いていなかったのだ。

 私は胚培養士で、その数字が完全に「重度乏精子症」だと言い切ることができる。

 しかし凌の精子は2万個あるのだ。そこが0ではない。

 それは日々作られているし、検査は二度した。

 全ての精子を毎日調べているわけではないし、精子の生成サイクルは約3ヶ月。毎回新しく作られている。

 精子が動いていなかったなんらかの原因を取り除き、三ヶ月後に『運動率0%ではない精子』が作られる可能性はある。

 つまりのこの運動率0%で自然妊娠した夫婦は、凌で言うと「検査外の時に、奇跡的に動いていた精子で妊娠した」のだ。

 凌は私をぼんやりと見て、


「……そんなことがあり得るのか」

「事実、あったわ。症例報告の端に単発で載っていたものを見つけたの」


 私はスマホで写真を撮ってきた文献を凌に見せた。

 凌は私のスマホを持って、じっくりとそれを読んで、私を見た。


「……0%だと言ったじゃないか。どうしてあの時その情報をもっと必死になって探してくれなかったんだ?!」


 凌は突然叫んだ。

 私も叫び返す。


「TESEが終わって帰ってきた日、凌はずっとベッドで寝たきりで痛みと悲しみで動けなかった。私は凌に元気を出してほしくて必死に『凌と同じ病気の人は多い、凌だけじゃない、それだけが凌の魅力じゃない』そう必死に伝えたとき、凌はなんて言ったと思う? 詩織みたいなプロに言われると一番つらい、あなたはそういったのよ。そう言われた私の気持ちを想像したことある? じゃあ私はなんて言えばよかったの? 何も言わないほうが良かったの?!」


 凌は検査後、妊娠の確率は0%だと聞かされた時、病院で全く傷ついていない、そんな顔をして笑った。

 笑顔で「分かりました」と伝えて家に帰り、資料を前に家でひとりで泣き叫んだ。

 私は縋って必死に説明した。これだけの人が同じ症状で苦しんでいる。凌だけじゃない。

 私も悲しい、苦しいと。

 でも凌に「詩織みたいなプロに言われると一番つらい」そう言われて、私の心は間違いなくあの瞬間完全に壊れた。

 じゃあどうしたらいい、私がいることを、私という存在を根こそぎ否定されたあの瞬間。


「あの時の私に更に調べるなんてことできるはずないじゃない。だって、私に言われるのが一番つらい、そう言われてもっと調べるはずないじゃない! プロに言われたくないって言われて、プロの仕事を更にするの、私が?! 鈍感ですべてから目をそらす女になって欲しかったんじゃないの?!」


 私は叫んだ。

 すると凌は大きく膨らんだ風船が突然空気が抜けるように椅子に座り込み、


「……ごめん。そうだな。俺は……確かに詩織にそのことに触れられるのが一番いやだった」


 私はそれを聞いて、私こそ冷静にならなくては……と深呼吸して、


「聞いて、凌。私が見つけたのは統計の例外の話よ。世界で十数例。100万年生きて、ようやく一度雷に打たれる、そんな確率」

「でもあったんだろ?」

「奇跡に縋らないで。ちゃんと説明するわ。大きいのは検査精度の問題。本当に運動率0%だったのか、測定に誤差はあるし、一時的な変動の可能性を否定できない。だから例外は例外のまま扱われて、正式なデータベースには反映されない。つまり私が見つけたのは奇跡じゃなくて、症例報告の端に単発で残っていただけのケース。私が知らなかったのは統計に入れられないほど小さい例外だったから。そんな話をしてるのよ」

「でも俺と詩織の子どもができる可能性があるんだろ! 三ヶ月で精子が更新されて可能性があるんだろ? 何をしたらいい、何をしたらその確率が上がるんだ? なんだってする、毎日する、毎日出して調べる。奇跡があるなら、俺はこれから毎日詩織とする」

「つまり、菜々美さんの子どもが凌の子ども、という可能性もある」


 私がそう言うと凌は「?!」と私の方をみて、


「だからしてないって言ってるだろ!!」


 と再び声を荒らげた。 

 びっくりして机の上に置いてあったスプーンに触れてしまい、それが床に落ちる。

 シャン……と高い音を立てて床に転がるスプーン。

 それを持ってみると、それは数年前に凌が「これから毎日一緒にご飯を食べよう」と買ってくれた高級なスプーンだと気がついた。

 私はそれを机に戻した。お互いに本音で、こんなに叫び合って話しているのがはじめてで……怖くて指先が震えている。

 私は自分の手を、自分で安心するように握った。

 大丈夫、大丈夫。

 凌は慌てたように柔らかい声にして、


「違う待ってくれ。電気シェーバーの袋を疑っているなら、リボンマートに聞けば良い。俺はあそこに忘れたんだ」

「凌ごめん。もうこれは、答えが出ないの。誰が本当のことを言っていて、誰が嘘をついているか、もう分からない」

「だったら俺を信じてくれよ!」

「落ち着きましょう、もう大声を出したくない」

「……ああ、すまない」


 凌は掌で自分の口を塞いで首を振った。

 私は大きく息を吸って、胸を膨らませて、空気を吸い込む。

 目を閉じてゆっくりと吐き出して、凌を見る。


「もう私はここから先、事実しか要らない」

「……ああ」

「凌を疑いたくない、これ以上文句を言いたくない、でも信じられない、でも信じたい、どうしても信じたいの」

「そうだ、俺は浮気してない」

「だから菜々美さんの子どものDNA検査をしよう」


 私がそう言うと凌は机の上に肘をついて、両手の掌で顔を覆い、何度も鼻をこすりながら、


「科学、検査、数字。それなら詩織は信じられるってことか」

「……そうね」

「そうだ、それが一番良いな。そうだろうな、そうだ、詩織は俺を信じられないんだから……そういうことだよな」

「悪いけど、私は菜々美さんも信じられないの。菜々美さんは私と凌から逃げようとしている。どう考えても悪阻が重い妊婦が住むのに向かない部屋に入るというし、私の前から姿を消そうとしている」

「消えたいならそれでいいじゃないか、もう会わないんだし」

「ううん。今日はホテルに泊めてきたけど、明日から再び客間に入って貰うわ」

「詩織?!」


 凌は叫ぶ。

 私は凌を真っ直ぐに見て、


「あのね凌。私は疑ってる。信じられないの」

「詩織」

「凌を信じられなくて、菜々美さんを信じられなくて、それなのに他人のリボンマートの人たちの証言を信じられる? 今から証拠を見つけるなんて無理なのよ。移動時間をすべて出して膝をつき合わせて浮気してないか調べるの? そんなの分からないわ。だから私は信じられる結果だけを求める」


 私は言い切って手を強く握り、続ける。


「菜々美さんのお腹にいる子どもが凌の子どもじゃなかったら、電気シェーバーのことは忘れる。そこから私たちの夫婦をもう一度はじめましょう。だって今回本気で調べて知ったのよ、凌とたくさんしたら、子どもを妊娠できるかもしれない。私は凌を愛してるから、菜々美さんの子どもが『凌の子どもではない可能性』を捨てたくない。菜々美さん消えるわよ。そしたら私はもう凌を疑ったまま愛せない、浮気した旦那なんて愛せない」


 私が言い切ると、凌は「はは……」と崩れ落ちるように笑い、


「詩織らしい」

「白だと分かったら、私は凌を愛す。白なんでしょう? 浮気してないんでしょう? 私以外とならできた……ねえ、そんなこと無いわよね? 私がオーダーして作ってもらった袋、菜々美さんのところに忘れてきたりしてないよね? 私が選んで作ってもらったやつだよ。ねえ、そんなことないって信じさせて、信じたいの、お願い、裏切ってないよね?」


 私は懇願するように凌に言う。

 凌は自信満々、


「ああ、もちろんだ、約束する」


 と頷いた。

 私は目を閉じて静かに、


「だったら普通にしましょう。正確な情報と事実を手に入れるまで、私は菜々美さんも離さないし、凌も離さない」

「……分かった」

「正直かなりリスキーな時間を過ごすことになるから、普段以上に、凌とちゃんと話して、しっかり夫婦したいと思ってる。いいかな?」

「……分かった」

「じゃあシチュー食べようかな、冷めちゃった? 凌のも温める?」

「……ごめん、こんな話をしたあとに一緒に食事なんて取れない。部屋で休む」


 そう言って凌は部屋に消えてしまった。

 私は筋立てていた話をしっかり話せて安心したのか、凌が作ったシチューを美味しく食べ始めた。

 本音を言うと、どうしようもなく凌の浮気を疑っている。

 それでも今この状況から凌が浮気をした事実なんて、どうやっても見つけられない。

 こうなったら私自身が納得できるDNA検査を待つしかない。

 凌の子どもだという確率より、凌が浮気してた可能性のほうが高い。

 それでも凌が「そう言い続けるなら」私はその世界を信じる。

 これ以上の何かを見せずに信じさせてほしい。

 間違っている、間違っているけれど。

 それでも。


 私は妙にスッキリしている自分に気がついていた。


 凌がTESEをした時、精子が無かったとき、凌は世界で一番傷ついたような表情で泣いていた。そして私の仕事を、私自身を責めた。

 あの時私は、人生でたった一度だけ「自分が自分であることを悔やんだ」。


 実はきっと……私、あの時のことを凌にぶちまけたかったんだ。

 私はきっと……今みたいに叫びたかったんだ。


 そんな気持ちに、ずっと気がついてなかった。

 「菜々美さんという異分子が入ったからこそ」やっと吐き出せたこの言葉に、今は清々している。

 私たちは夫婦という箱の中で、ずっと背中合わせだったのだ。


 ずっとずっと私自身が否定されたあの言葉を、いやだったと伝えたかった。

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― 新着の感想 ―
 うわぁ…  喧嘩して本音をぶつけ合って、修復できるのって、結構難しいんですよねぇ。  全くないわけでもないけど。  凌ってダメになりそうな感じあるけど、明日の夕飯作って待っててくれるかなぁ。
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