エピローグ
スタジオの中から菜々美さんの歌声が聞こえてくる。
六ヶ月のブランクなど全く感じさせない圧巻の歌声だ。
笹木さんは光輝に顔を近づけて、
「ママすごいねー!」
と小さく話しかけた。
私の胸元にある抱っこひもの中で光輝はふにゃあ……と柔らかい笑顔を見せた。
ここは下北沢のライブハウスだ。
産後半年が経過、菜々美さんは音楽教室の伴奏歌を仕事として頼まれて、久しぶりに来ている。
スタジオ内は音が大きく生後半年の光輝を連れて入れないので、ドアの外で抱っこして私が見ている。
光輝はさっきまで「なんだここは?!」とキョロキョロしていたのに菜々美さんの歌声が聞こえてくると眠そうにうっとりと目を閉じた。
光輝は菜々美さんの歌声を聞いている時が一番眠る。
それに産後二ヶ月目くらいに、菜々美さんが子守歌としてハミングを聞かせ始めて気がついた。
言葉もない、メッセージもない、ただの鼻歌。
それを聞くと光輝はいつも目を閉じて眠りはじめた。
美穂にそれを言ったら「お腹の中で聞いてたからでしょう」と言った。
納得しかない。
扉の前に立ち、光輝を抱っこで揺らして眠らせながら笹木さんと話す。
「保育園がやっと決まったの」
「おお、空きが出て良かったですね。タイミングが鬼悪でしたもんね。武蔵野の保育園は都内でもエグい競争率ですから」
「少子化だと思って舐めてたけど、全然ダメで困ってたけど、良かったわ」
私は両肩を上げて苦笑した。
菜々美さんが出産したのが12月、そして1月に正式に凌と離婚して、1月に菜々美さんの住民票を千葉から武蔵野……私の部屋に移動させた。
そこから4月の0才児保育園に申し込めると思ったら、もう募集は終了していた。
菜々美さんはシングルマザーで働かないと子育て出来ないのに、もう枠は無かったのだ。
でも何度も市役所に通い、情報を集めて、シングルマザーということもあり優先的に探して貰い、来月から入れる場所が見つかった。
笹木さんは光輝を見ながら、
「詩織さんの所にいて勉強しながら高卒認定取って、就職目指す感じですか」
「そうね、近所のスーパーで働き始めたの。働きながら勉強を頑張ってるわ。笹木さん歴史得意?」
「バカクソ苦手です。国語と英語ならいけます」
「それはもう秋に受けて合格したの」
「妊娠中に二科目取ったんですか偉いですね。あ、美穂さん理系ですよ」
「私だって理系だけど、歴史って理系の範囲? 文系じゃないあれ」
私と笹木さんは「勉強の筋肉がもう死んでいる」と笑った。
私はずっと気になってたことを口にする。
「……凌は、誰か連絡を取ってる?」
「旦那がたまに話してるみたいです。大阪かな、東京にはいないみたいですね。まあ懲戒解雇で退職手当も全部不支給ですからこっちには居られないですよ」
笹木さんは静かにハッキリと言った。
あの後、凌は自らの罪を会社に告白、そのまま懲戒解雇となった。
その際、自らリボンマートに対する不正の証拠も提出し、リボンマートは営業停止、寮には出入国在留管理庁や労働基準監督署、同時に警察も入った。
結果20人以上の不法滞在者が見つかり、テレビで大きなニュースになった。
菜々美さんは家でそのニュースを見ながら静かに涙を落としていた。
動画の中にはグエンさんも映っていて……私は菜々美さんの背中を優しく撫でることしか出来なかった。
リボンマートの店長は店だけではなく、運送、飲食店でも同様の寮を持ち、従業員に性的接待をさせていたとして刑事告発された。
笹木さんは、
「ああいう奴らがはびこらないために私たちがいるのに……ってそれをいうと同時に凌さんを全力でディスることになりますけど、まあ残念です」
「罪は罪よ。私は菜々美さんにも告発を勧めたけど、それでネットに名前が残って、大人になった光輝が調べて知ったら……って断られたわ。凌だけじゃなくて寮の子達を利用していた人たちは聞くだけでたくさんいたけれど、みんなしないって」
「調査が入ってるので余罪で起訴はされると思います。でもモグラ叩きなんですよ、あの店長も雇われです。元はキャバクラのオーナーで二年前から店長してました。誰かが上にいて店長を置いてるだけ。ここからは警察の仕事ですけど」
笹木さんは菜々美さんの声がするドアに背中をつけて声を聞きながら、
「私たちが仕事して世界全部を綺麗にできるなんて思ってないです。ひとりこうやって救えた。それだけでヒーロー、そう思ってます」
「そうね、最高のヒーローよ」
私は笹木さんに向かって微笑んだ。
離婚してすぐに笹木さんを家に呼び、あったことを話した。
正月だったこともありまだ会社は始まってなかった。笹木さんは「凌さんが初日に動かなかったら私が動きます」と宣言した。
凌は出社した初日に全てを告白して、笹木さんは告発する必要は無くなった。でもその後逐一報告をしてくれて私たちは安心することが出来た。
菜々美さんは凌がクリスマスに来て怒鳴って以来、かなり落ち込んでいて、メンタルの調子が悪そうに見えた。
光輝が寝ているのに眠れなかったり、叫んで起きたり、常に泣いていたり、部屋から出られなかったり。
美穂に相談して漢方を飲み、正月は私がメインで光輝を見た。
その結果面白いほど疲れ果てて、人生で一番寝不足な年末年始になったけれど、それでも光輝が可愛くて乗り切った。
そして凌がいなくなり、リボンマートは潰れて、寮もなくなり、菜々美さんは歌い始めてから元気になっていった。
すべてを知った両親も周りも裁判をして慰謝料を……という。
考えてはいるけれど証拠がない裁判は長引くし、もう二度と凌に関わりたくないとも思う。
今はこれで良いと、私は胸元で完全に眠った光輝を確認して、ソファーに座った。
店長がコーヒーとクッキーを持って来てくれて、光輝の頭上で落とさないように横を向いてそれを食べた。
こんな生活にも慣れてきた。
「にょえ~~、気持ち良かったです、ありがとうございます!」
「次は二週間後、歌のオーダーはメールで送ります、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
そう言って菜々美さんは頭を下げた。
音楽教室には多種多様な楽器を習っている人たちがいて、発表会は頻繁にある。
ギターだけを鳴らす発表会より、有名な曲をギターで弾いて、そこに歌詞をつけたほうがお客さんもノリが良くなる。
それに気がついた音楽教室は、ライブハウスで発表会をするようになり、安定して色々な歌を歌える菜々美さんは重宝されているようだ。
オーダーされるのは過去のヒット曲から最新のボカロまで幅広く、相当高い歌唱力が求められる。
練習も含めると拘束時間が長く、時給にするととんでもなく安いが、菜々美さんは楽しそうに仕事している。
店長が菜々美さんのところにきて、
「セブン、バズってるの知ってる?」
「え? 何がですか?」
「ほらこれセブンでしょ。妊婦ですごいってバズってる」
店長が見せてくれたのは、あのクリスマス……児童館横の公園で菜々美さんが歌った動画だった。
夕方が迎えにくるツリーの下で、菜々美さんが大きなお腹を抱えてそれでもどうしようもなく気持ち良さそうに歌っている。
私はこのときに凌の不倫を確信したのだ。なんで半年経った今バズるのか……それを見て心が痛んだ。
私はSNSを全くしないので知らなかったけれど、まだ聞きたい曲ではない。
私が顔を背けると菜々美さんが店長に向かって、
「その曲はもう古いですね。じゃあ新しい曲を撮ってさらにバズりましょう。出産したのも見せつつ……おはよう光輝。うーん可愛い可愛い」
そう言って菜々美さんは私から光輝を受け取って抱っこした。
そして店長に自分が赤ちゃんを抱っこしてるところから撮影させた。
光輝の顔は映さず、背中から。自分だけカメラのほうを見て「無事に生まれたよ~」と言って光輝を私に大切に渡して自分は舞台の上に上る。
そして舞台の上で過去の全部を吸い込むように息をして、歌い始めた。
それは光輝をいつも寝かしつける時に歌っていた鼻歌から始まる。
ゆっくりと落ち着かせるように、風の流れを読むように歌い始めた。
ここは地下のライブハウスで暗くて、自然の風なんて全く感じないのに、菜々美さんが歌うと春の終わりに吹く青風を感じる。
ひらり、そこには無いはずの桜の花びらが舞い降りた。
軽く続くハミングは、まるで光輝の泣き声をなぞるように気持ち良く。
春の日差しで光輝がまぶしくないように、菜々美さんに日傘をさして歩いたあの日のよう。
満開の桜と菜々美さんと光輝を上手に撮影したくて、スマホ片手に膝をついたら泥がついてしまって菜々美さんに笑われた。
菜々美さんが「飲みたい!」と言ったので二つ買ったコーヒーはノンカフェインで、久しぶりにクッキーも買った。
大きなクッキーをふたりでパリンと割るように高い音を響かせて、菜々美さんが運動靴をぶつけて声を響かせる。
その指先に桜の花びらが見える。
ひらり舞い落ちる花びらを包むように踊って声をまとわせると、いつも声を出さない光輝が「ふふっ」と私の胸元で笑った。
店長はそれを嬉しそうに撮影して、菜々美さんは舞台から降りて来て光輝の頬にキスをしてくるりと回る。
それはまるで川沿いを三人で歩いていた時のように。
保育園が決まらず一緒に市役所に通い、相談していた帰り道、見つけたあのトマトを買って「嘘でしょ酸っぱい」と笑った。
帰り道雨の匂いがして、慌てて帰るころには真っ黒な雲が道路の花びらを流す。
雨音のように静かに心地よく声を落としていき、指先で冷たい雨を弾き飛ばすように歌う。
菜々美さんが舞台の上で、あの歌の先を歌う。
もう私の横に冷たい指先はない。
もう消えたいとは思わない。
歌詞にはなってない、それでもそれが分かる、私たちの普遍的で、それでいてどうしようもなくゆっくりと傷を癒やす毎日が、そこにあった。
私は静かに涙を落とす。
菜々美さんはゆっくりと大切そうにその歌を歌い上げて、舞台の上で音を結んだ。
店長と笹木さんと、音楽教室の子どもたちが大きな拍手をしたのに、私の胸元で光輝はスヤスヤと今までで一番気持ち良さそうに眠っている。
私は温かい光輝の身体を抱きしめた。
ここから始まる小さな幸せが詰まった毎日を、私は愛している。
(終わり)
この話はここで完結です。
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読んで下さり、ありがとうございました。




