産後
「菜々美さん、起きてたの」
「……詩織さん、おはようございますー……もう諦めました……置いたら起きます……」
出産して一週間後、菜々美さんは退院した。
生まれたのは男の子で、菜々美さんは「光輝」くんと名付けた。
生まれたのが正に日の出のタイミングだったと私が伝えたら、じゃあ「光輝にします」と言ったのだ。
光輝くんはとても元気な男の子で、菜々美さんが「乳首が取れる」と泣くほど母乳を飲み、ミルクもしっかり飲む。
よく泣き……よく泣き……本当によく泣く。
大声で泣いて、眠っても三時間程度ですぐに起きて泣く。
新生児の検査では何も問題がなく、光輝くんは元気だけど、菜々美さんは寝不足だ。
光輝くんは眠ったあとベッドに置くと一瞬で目を開いて「は?」といった表情でこっちを見る。
最初菜々美さんが産院で「は?」みたいな顔するんです! と言ってた時に、またおもしろおかしく話しているのねと思ったけれど、うちで私が抱っこして眠らせてベッドに置いたら「は?」みたいな顔をして、なんなら首を傾げてこっちを見て、笑ってしまった。
とにかく抱っこされて眠っているのが大好きなようで、もう菜々美さんは退院して一週間、ずっとソファーで過ごしている。
私は使い終わった哺乳瓶を洗いながら、
「朝ご飯作るわね。味噌汁は夜の分まで作っておく。ご飯は三合炊いてあるから好きに食べて。冷蔵庫にゆで卵、ひじき、煮物。なんでもあるから食べられそうなタイミングで食べるのよ」
「はい……ありがとうございます……もうたぶん今ですね、めっちゃぶりぶりうんこ左衛門してます」
「あら起きたの。分かった、じゃあ菜々美さんが味噌汁作って。私光輝くんのオムツ替えるわ、台所のほうが気分転換になるでしょう?」
「ありがとうございます……そうします……」
そう言って菜々美さんは抱っこしていた光輝くんを私に渡した。
うん、確かにうんこしてる。私はベビーベッドに光輝くんを寝転ばせた。
光輝くんは私を見て思いっきりキックしてくる。足が立派で元気で正直めちゃくちゃ可愛い。
オムツを変えたことなんて無かったけれど、一日何度もしていたらすぐに慣れた。
お尻をお湯のスプレーで洗いオムツを替える。
服も洗濯前に新しくしようと着替えさせて、ベビーベッドの柵をあげて洗濯を始める。
台所では菜々美さんが味噌汁を作っているので、余っていた椎茸や大根の葉を出した。
「全部入れちゃいましょう」
「はい、もう何でも入れます。味噌汁が一番いいです、すぐに食べられて」
「あとご飯ね。あ、泣いてる」
私はベビーベッドで泣き始めた光輝くんを抱っこして、再び台所に戻った。
光輝くんは産後14日、小さくてそれでも元気で柔らかくて、いつもミルクの匂いがしてとんでもなく可愛い。
退院したその日から菜々美さんと一緒に抱っこしてきたので、私にも慣れていてふにゃふにゃの笑顔を見せてくれるのがたまらない。
菜々美さんは野菜を炒めながら、
「光輝、すっきりした? さっきおっぱい飲んでるからお腹は大丈夫だと思うんです」
「じゃあ寝ないかな。ちょっと向こうで抱っこしてみる」
「お願いします」
私は台所から離れて光輝くんをゆらゆら揺らして抱っこする。
光輝くんはすぐに眠りそうになるけれど……ものすごく頑固で少しでも気に食わない動きをすると「は?」といった表情でこっちを見る。
それが面白くて可愛くて仕方が無い。でも菜々美さんがご飯を作っている数分で眠るはずもなく、
「菜々美さん先に食べちゃって」
「はい、では頂きます」
そう言って菜々美さんは朝ご飯を食べ始めた。
光輝くんは目を輝かせてこっちを見ているので、これは寝ない。
抱っこしたままベランダから外を見る。菜々美さんが出産して二週間、明日はクリスマスイブだ。
街はクリスマスカラー一色なのに、家にいるとそんなことは全く関係がない。
そもそも母乳を出している菜々美さんにクリスマスの食べ物はすべて乳腺を詰まらせる地獄の食べ物ばかりだ。
母乳が出ていないなら無理する必要はないけれど、出ているなら飲ませたほうが栄養的にも良い。
それに合わせて私も白米中心の食事にしているが、身体に良い気がする。
食べ物でクリスマスが出来ないのならば、せめて……。
私は菜々美さんの方を見て、
「ねえ、光輝くんのはじめてのクリスマスプレゼントどうするの?」
「そうだ、どうしましょうか」
「何か小さなプレゼントを買ってくるわ。え、でもあれよ、一緒に菜々美さんに何か買ってくるわ。入浴剤とか。あと今週末は私が光輝くん見るから一晩寝なさい」
「あの……私に何か選ぶ時間があるならはやく帰ってきてほしいです、それで一緒に光輝をみてほしい。プレゼントを頂けるなら睡眠と味噌汁で……」
「分かったわ、それが一番のプレゼントね」
「それに……今日の夜には、DNA検査の結果が届きます」
「そうね、分かってる。夜には凌も来るから今日は早めに帰って掃除するわ。菜々美さんは何もしなくていい。産後よ、まだ身体が厳しいから、このままで。ただ光輝くんの面倒だけみて寝てて」
「はい……そうします……」
菜々美さんは寝不足でぼんやりした表情で答えた。
産後一ヶ月が疲れのピークと教科書では知ってたけど、ここまで疲れ果てるとは……。
私は家に菜々美さんと光輝くん、それにすることが増えてむしろ毎日に張り合いが出た。
寝不足の日も増えたけれど、正直仕事だけしていた時より毎日が楽しい。
だったら……と精力的に菜々美さんを助けている。
凌は菜々美さんが出産した日から二週間、ずっと実家から会社に通っている。
お義母さんから「何があったの?!」と何度も聞かれたが、凌が「ちょっとだけ待ってくれ」と言ったようで、そのまま一度も帰ってきていない。正直部屋は散らかり放題、そこら中にスタイやタオル、保湿クリームに体温計まで散乱しているし、台所にはゴミ捨てに間に合わなかったミルク缶が積まれている。だから凌が居なくて気楽だと少し思ってしまう。
「おはようございます」
家事を済ませてクリニックに到着して着替える。
明日がクリスマスでも正月でも何があってもここは変わらない。
通ってくる患者の数は変わらないし、私も淡々と作業着に着替えて仕事を始める。
するとすぐに後輩が私の横にきて、
「詩織さん、加藤さんが急遽お休みで、院長が午後のICSI頼みたいって言ってるんですけど」
「分かったわ、大丈夫」
「あとさっき川手さんの結果も上がってきたんですけど……」
「見たわ。厳しいわね。一度院長に相談したほうがいいと思うの。三度目よね」
「はい。もう来月の予約が入ってるので、早めに話します」
そう言って後輩の女の子は部屋を出て行った。
私は顕微鏡周りを片付けて次の作業の準備をして、午後のスケジュールを脳内で組み直す。
前は残業を積極的に引き受けていたけど、菜々美さんが出産して家でひとりでいると思うと少しでも早く帰ろうと思う。
正直あそこまで泣く子と日中ずっとふたりだとメンタルが厳しいと思う。
私は正直、こうして何一つ変わらない仕事場が息抜きになっている。
泣き声が聞こえず、光輝が起きてしまうのではと食器ひとつ洗えない空間ではなく、ここは私のテリトリーだ。
出産して仕事のほうが楽だという先輩たちの話を聞いていたが、それは本当に単純に子どもが大切だからだと思う。
気になって仕方が無いのだ。それがないと本当に楽。
「詩織さん、これ見て貰えますか、分からなくて」
「いくわ」
私はパソコンルームに入ってデータを見る。
クリスマスも正月も何も関係無い。卵はそこで分割を繰り返している。
菜々美さんが出産してから仕事に関しての意識が何か変わるかしら……と思ったけれど、何も変わらなかった。
昔から私はなにひとつ変わらない。
子どもを望む人が、あんな風に笑顔で子どもを抱っこできる世界の、少しでも手助けがしたい。
この先に幸せがある、それを実感して、更に頑張ろうと思う。
家に帰って静かにドアを開けて中に入る。部屋が暗い。
菜々美さんが出産した後から、私は音を立てて家に帰ってくるのを辞めた。
光輝くんがあまりに眠らないので、せっかく寝たタイミングで音を出して目覚めさせてしまうのがイヤなのだ。
静かに家の中に入ると、どうやら菜々美さんのベッドで光輝くんも眠っているようだった。
……珍しい、良かった。一週間家にいてはじめてなのでは。
私は台所に入り、買ってきた材料を冷蔵庫に入れた。
検査結果が書かれた宅急便がくるのが17時以降。いつも置き配だけど、DNA検査の結果を置き配にする勇気はなく、受け取り限定にした。
今16時なので一時間で部屋を片付ける。食べ終わった食器は水につけてあるのでそれを食洗機、炊飯ジャーも洗って、そうだ洗濯物。
光輝くんの服が結構汚れるからもう少し服があったほうがいい。産後二ヶ月はそれほど出かけないし、シンプルで着替えさせやすい服があと二枚くらいあると楽よね。でも正直今一番欲しいのは電動のバウンサーだ。光輝くんゆらゆらしてると寝るから、あったら楽できないのかしら。
でもネットで調べたら産後数ヶ月しか使わないし、使える期間のわりに高いのよね……と考えながら掃除をしていたら、チャイムがなり、私は慌てて玄関に向かった。菜々美さんと光輝くんが起きてしまうし、ヤマト運輸かも知れない。
するとそこに立っていたのは凌だった。
「……どうも」
「……久しぶり」
私は凌を見て呟いた。
二週間光輝くんのことを考えて動き続けて菜々美さんとあれこれ調べて買い物をして、仕事ばかりしていたので凌という日常が頭に付いてこない。
凌は玄関で私に紙袋を渡してきた。そして、
「クリスマスプレゼント」
と言った。それは少し前に私が好きだった高級ブランドのバッグだった。
凌は玄関で、
「前に欲しいって言ってたから」
「……そうね。ありがとう。ごめんまだ片付けてないの。それに私……凌にプレゼント準備できてない、ごめんね」
「大丈夫。ケーキも買ってきた」
そう言って反対側の手からケーキが入った箱を渡してきた。
いつも買っているお店のもので、私は完全に予約を忘れていたけど凌は覚えていたようだ。覚えていてくれたことは嬉しく感じる。
でも今はケーキをゆっくり食べている場合ではない……けれど……それを伝えるのは最も正しいことのように感じたし、最も間違っているようにも感じて、黙って受け取って、納豆と豆腐と煮物ばかり入っている冷蔵庫に入れた。
凌は部屋の惨状を見てどこに座れば良いのか困っているようだったので、私は台所の椅子を薦める。
凌が座ったので私は机の上に積まれた本などを退かして山にする。
凌はそれを見て、
「……勉強してるのか」
「ええ、これは……でもすごく前のね。出産前の。次は数学と歴史を受けるの。数学は得意なんだけど歴史が厳しいわ」
凌は得意だったわよね? と喉元まで出て、違うと飲み込んだ。
凌にコーヒーを出して私は部屋の掃除を再開した。
菜々美さんには育児に集中してほしいこと、家事はすべて一旦投げ出すこと……と伝えているので、汚れてしまった光輝くんの服がそのまま放置してある。
私はそれをかき集めて洗面所に行き、洗濯板で洗う。色々洗剤を試したけれど、どう考えてもこれが一番速い。
帰ってきて即これをすれば帰宅後の手洗いの手間がはぶけると思うほどルーティーンに組み込まれた。
今日はうんちがすこし緩いのか、もうストックが無い気がする。今着ているのがラスト?
帰りにヨドバシカメラにある西松屋に行くべきだった。洗って洗濯機に入れて、まだ隙間があるから光輝くんのシーツも洗おう。
部屋を片付けながら移動してると、凌は台所の椅子に居心地悪そうに座ってスマホをいじっていた。
すると客間から菜々美さんが光輝くんを抱っこした状態で起きてきた。
「寝れました……! すごい……やったーーー」
「何時間寝られたの?」
「今17時半……おお、4時間寝ました。うわー、光輝ありがとううう」
起きてきた菜々美さんは光輝くんを大切そうに抱っこした。
光輝くんは不満げに足をバタバタさせている。
そして菜々美さんはリビングにいる凌に気がついた。
「……こんばんは」
「……どうも」
ふたりは完全に他人行儀な挨拶をした。
その間で光輝くんが大声で泣き始めて、慌てて菜々美さんはオムツを替えて客間に戻り母乳を与えた。
私は今ある分だけでもオムツをまとめてマンションの地下に持っていこうと集めていたら部屋のチャイムが鳴った。
凌は「!」と玄関を見るだけで動かない。私はオムツを片付けるのを辞めて玄関に向かい、ヤマト運輸が持って来た薄い封筒を受け取った。
DNA検査の結果が届いた。




