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私が産んでない私の子 ~見知らぬ女が旦那の子を妊娠したと言ってきた~  作者: コイル@オタク同僚発売中


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21/23

こっちを見なさい

「おかえり」


 家に帰ってくると、リビングには凌がいた。

 心臓が鷲づかみにされたように痛む。私はすぐに視線を外して、


「菜々美さんに陣痛が来たの。出産には時間がかかると思うけどもう産院にいくわ」

「! ……分かった」


 凌はその場で立ったまま亡霊のように言った。

 凌の顔を見ると、凌が菜々美さんが言っていたようなことをしていたと……どうして思えない。

 私と凌の付き合いは長く、凌にモラハラのような気質があったか……と問われても、機嫌が悪い時に何か言ったらそれは怒るだろう……みたいなことしかなく、何かあったら時に常に理由を探し、次には同じようなことがないようにして、常にミスを潰してきた私からすると……正直分からない。

 もう凌が怒ることを先にしないようになっていた。

 いやでも菜々美さんがしていたのは怒るというより性癖の話なのだろうか。

 でも私とは普通のセックスをしていたから、もう何も分からない。

 膝を突き合わせて話したいという気持ちと、突き詰めて話すのか、見つめるのかと問う私がいる。

 「俺は菜々美の首を絞めながらセックスした」……言うわけがない。

 ふと私は井の頭公園を菜々美さんと散歩していた時に「鷹は見えない所から首を折る」と私の頬に触れたことを思い出した。

 凌は見えない所から首を折っていたのかも知れないし、見えなかった私は、もう首を折られているのかも知れない。

 本当のことを言ってよと泣いてすがりたい。

 本当のことを言ってよとぶん殴りたい。 

 ふたりの私がリビングで無力に立っている。


「……おっほ……こうあれですね、この門は絶対に開かないと、伝えてあげたいです」


 私の意識を引き戻すように玄関に立っていた菜々美さんが呟く。

 私はすぐに現実に戻り、


「スマホのメモに今の時間を書いて。間隔を測りましょう」

「はい。えっと17時45分。おっほ……いやこうなんですかね、絶対開かない門をノックしてます」

「それが陣痛よ、行きましょう」


 私は菜々美さんの部屋から入院バッグを持った。私が持って行く物は……スマホと財布だけで良いので小さなポーチに入れた。そしてリビングのソファーに座り私のほうも見ない凌に向かって、


「行ってくる」

「ああ」


 凌は私のほうも見ずにテレビに向かって返事を吐いた。

 その肩、その背中、その後ろ姿を見て、私の中の何かが切れた。

 私は凌のほうに駆け寄って、肩を引っ張ってこっちを向かせた。

 凌はそれでも私のほうを見ない。さっきはあんなに楽しそうに菜々美さんの歌を歌って笑顔だったのに、その唇が動かない。

 一滴の混じりもない、出会ってただ恋をして結ばれた夫婦としては、きっとこうして向き合うのはもう最後だ。

 凌の顔を見たかった。私が好きで愛して結婚した男の顔を。その顔を見て、何か受け取りたかった。

 でも凌は私の方を見ない。真っ暗な部屋の中、台所の光に輪郭だけ照らされた凌は一言も話さなかった。

 ねえ、何に怯えてるの?

 何か言え、何も言うな。

 私は唇を噛んで出産用の荷物が詰まった鞄を持って家を出た。

 マンションの廊下を歩いていると涙が出てきて、それをそのままに歩く。

 すぐ横に菜々美さんがくる。


「……あえて。ここはあえて全く空気を読まない言葉を発することにします」

「いいわよ、言って」

「出産前に牛丼が食べたいです」

「……あはははは! 本当に全く空気を読まずに来たわね。そうね、食べてから行きましょうか。まだ次の陣痛来てない?」

「はい、まだです」

「間もかなり空いてるし、本来なら家で数時間待てって言われる状態よ。食べてから行きましょうか」

「はいっ! やっぱりどうしてもですね、吉野家がいいです」

「駅前にあったわね、行きましょう」


 私は車に菜々美さんを乗せて走り出した。

 菜々美さんは車に乗って数分後に「おおう……これはあれですよ、座ってるほうが痛い」と嘆いた。

 それでも数分間嘆くと、すぐに「あ、終わった。なるほどこれが続くのかー。えー、イヤだなあ」と素で言った。

 菜々美さんに無痛分娩も勧めたけど、菜々美さんは「お金がかかると思うので」と断った。

 私の周りで出産している人たちはみんな無痛分娩を希望してるけど、タイミングが合わず半分の人が使えていない。

 だから正直難しいのだろうとは思う。車を止めて吉野家に向かって歩き始める。

 街はクリスマスカラーに染まっている。菜々美さんは私の横を歩きながら、


「今ここ、吉祥寺に居る人の中で、陣痛がきてるのって、私だけかもって思うと、ちょっと楽しいです」

「……まあそうかも知れないわね。でも言わないだけで、実は結構いるのかも」


 私は小さく呟いた。

 さっきの凌の顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 私が呼びかけたら、私が肩に触れたら、いつだって笑顔を見せてくれたのに。

 どうして菜々美さんの歌を歌っていた時は笑顔だったのに、どうして私にはあの笑顔を見せてくれないの?

 牛丼屋に入り注文すると、すぐに運ばれてきた。菜々美さんは大盛りを頼み、私は小さいものを頼んだ。

 食べられるのかしら……と思って菜々美さんを見ていたら、スプーンですくって大きな口を開けて食べ始めた。

 そして、


「少し塩分取るとすぐ浮腫んじゃって、美穂先生さんから塩分もうダメ! って怒られてたんですけど、今日は怒られません。モグモグいきます」

「なるほど。そういう事情」

「ラーメンもダメ、牛丼もダメ、たこ焼きも、ポテチも、ダメダメダメダメ。もう一生妊娠なんてしません」

「家族が欲しいんじゃなかったの?」

「家族は今から増えます。私の能力ではひとりが限界。たぶんひとりも社会の力を借りないと育てられない。だから……強がりです。本当はあと10人くらい産んでもいい。牛丼が食べられなくなるのはイヤですけど。おいちー! おっほ、痛ったい、メモメモ。おっほい! 座ってるほうが痛いわこれ」


 菜々美さんは口にスプーンを入れたままその場で立ち上がった。

 店内のお客さんも、店員さんも驚いて菜々美さんを見る。

 菜々美さんは口に入れたスプーンを出して、


「あ、すいません、陣痛痛くて」

「陣痛?!」


 ひとつ離れた席に座っていた年配の男性が叫ぶ。

 反対側の席に座っていたカップルが笑う。

 菜々美さんは、


「牛丼食べて頑張って産んできます」

「おおー、頑張れ頑張れ。グミあげるー」


 後ろで会計をしていたカップルが菜々美さんに向かってグミを渡してくれた。

 菜々美さんはそれを受け取って、


「ありがとうございます! 頑張って産んできます!」


 と笑顔を見せてふたりを見送った。

 私はあまりにも意味が分からない時間に、もう声を出して笑ってしまう。

 声を出して笑ってしまったらなんだか私の中にいたどす黒いグチャグチャが息と共に出て行って空間ができたので、そこに目の前にあった牛丼を詰めた。

 吉野家の牛丼なんて、たぶん10年単位で食べてないけれど、普通に美味しくて、綺麗に食べた。

 店を出るとメンチカツの匂いがした。吉祥寺の有名店で行列が途切れることのない店だ。

 菜々美さんは目を輝かせて、


「これも食べたかったのに食べられませんでした~~塩分油揚げ物~~」

「ここで一番美味しいのはじつはコロッケよ。食べる?」

「コロッケ?!」


 菜々美さんが食べたそうにしたので、メンチカツの行列を横目にコロッケを買う。

 それを渡すと、菜々美さんはパクリとそれを食べて、


「! イモの味が、肉!」

「そうなの。揚げる油にステーキの美味しい油が入ってるのよ。その油がイモに染みこんでるから、こっちのが美味しいの。メンチカツも美味しいけどお肉食べたばかりの今はさすがに重いわ」

「イモの味が、肉! すごい!」


 そう言って菜々美さんは私のほうを見て叫んだ。

 食べながら何度も言うから笑ってしまう。私と菜々美さんはコロッケを食べながら駐車場に戻るように歩く。

 私はコロッケを食べながら、


「……凌が、菜々美さんのオリジナルソングを……公園で歌っていたわ」

「あー……なるほど。だからそういう感じになったんですね……なるほど」


 私は聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。

 でも聞けずにいた。それでもやっぱり知りたくて菜々美さんを見て、


「……あの曲、凌が昔聞いてたってこと? いつから? だってあれおばあちゃんのために作った曲なんじゃないの? どうして凌が」

「この話をして、詩織さんが泣かないなら、苦しまないならします。でも別に聞かなくていいと思います」


 菜々美さんは商店街の真ん中、たくさんの人たちが行き交う道の真ん中で私を真っ直ぐに見て言った。

 私の中が揺らぐ。そう、私はきっと……、


「……それを見て、凌と菜々美さんがしていると確信を持ったと、菜々美さんに伝えたかったの」

「ここで終わらせましょう。私は関係を持ったとしていたと、それははっきり言いました。でもこれ以上詩織さん傷つく必要は無いです。痛いからって分からないからって、そこの傷口が見えるまで、何度も何度も削らなくていいです。傷はそこにあって、でもそれを直視する必要なんてない。見なくていい。凌さんの顔なんて、見なくていい。私これから出産するんだから、私の応援だけしてください、痛いです! すごく痛いんですからね!!」


 そう言って菜々美さんは吉祥寺の商店街の真ん中で叫んだ。

 周りの人が「……?」と不思議そうに私たちを見ている。

 言葉と気持ちが嬉しくて、でも陣痛がきてるのに吉祥寺で牛丼たべてコロッケまで食べて商店街で泣いて。

 全部間違っているのに、さっき凌の顔をみてどうしようもなく傷ついた私が、私を見て部屋を出た。

 菜々美さんは私の手を取って、


「病院に行きましょう、産みますから」

「……ええ、そうね」


 私は菜々美さんと手を繋いで車に戻り、美穂の病院に向かって車を走らせた。

 菜々美さんはポケットからさっきのカップルから貰ったグミを取り出してひとつ食べて、


「もにゃもにゃしてるのに、なんかシャリシャリしてて……最近のグミは変なの多いですねえ。はい詩織さんも、あーん」

「……ん。不味い」

「そうですか。変だけど美味しいですよ。おっほいまた陣痛だ。あれー、ちょっとだけ期間早くなったかも」

「行きましょう」


 私は口の中にやたら甘みを残すグミを飲み込んでアクセルを踏み込んだ。

 そして美穂の病院に到着した。先に連絡していたし、菜々美さんは個室を予約している。

 だから陣痛がきた時間を書き込んだメモを見せて産院内に入った。

 個室に荷物を置くとすぐに美穂が来た。そして眉間に皺を入れる。


「なにこの匂い」

「あ、サトウのコロッケよ。美穂好きでしょ、食べて」


 私はビニール袋に入れて持って来たサトウのコロッケを美穂に渡した。

 「このままでお持ちください」と言われたので紙袋をあけたまま。

 コロッケが入っている袋はしっとりと濡れていた。

 それを受け取った美穂は目を丸くして、


「はあああ?? 何で? え、温かい。買ってきたの?」

「ええ、来る前に」

「あはははは!! ちょっと待って、この手土産は産婦人科医しててはじめて。よっしゃ、温かいうちに食べようかな。長丁場になるよ、うーん。美味しい、ビールがほしい」


 美穂は笑いながら私がお土産に買ってきたサトウのコロッケをその場で取り出して食べた。

 ベッドに横になり、あれこれモニターをつけられている菜々美さんは美穂に向かって、


「すごく美味しかったです。先生はダメってずっと言ってましたけどもう良いですよね?! もう食べても怒られないですよね?!」

「怒らない怒らない。でも母乳出したいならメンチカツは厳しいかも。絶対詰まる」

「えー?! やっぱり産む前に食べるべきだったー! 詩織さんー、並ぶべきでしたー」


 菜々美さんは叫び同室に居た看護師さんたちに呆れられた。

 最初は余裕だったけれど、そこからが長かった。

 陣痛間隔は何時間も変わらず、菜々美さんは陣痛が来るたびに「おっほ!」と言って叫んで歩き回った。

 美穂や看護師に「座っていて」と言われても「歩いてるほうが楽です」と病院内をウロウロしてやっと出産する部屋に入ったのは七時間後のことだった。

 苦しそうな声が響いていた時はまだ夜だった。深くて長い夜だった。

 夜が星が飲み込まれて地球の終わりから朝日が見えるころ、この世界にはじめて響く声が聞こえていた。

 それは子宮の中から出て外気に触れ、空気を吸い込んで身体中を動かすと決めた声。

 泣いて泣いて泣いて空気を吸い込んで、身体を膨らませて、血を送りだして、指先を動かし、世界をはじめて見る。


 産まれた。


 そして私は分かった。


 泣くのはきっと生きると決めることなのだ。


 泣いて泣いて、この世界で生きると決めるのだ。

 私はずっと自分のためじゃない、人のために泣いてきた気がする。

 私はこの世界で生きると決めて、自分のために泣いた。



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― 新着の感想 ―
 凌を放り出して、菜々美と子供と3人で生きていく未来があってもいいかな。
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