どうして
「おはよう、凌」
「おはよう詩織。俺もう出るね」
「……いってらっしゃい」
土曜日の朝7時。凌はもう家を出て行った。
12月に入り菜々美さんが臨月になった。
予定日は12月10日なので、もういつ生まれてもおかしくない。
高校卒業認定試験を11月頭に終えて、菜々美さんは部屋で勉強をして、たまにライブハウスに歌いに行って過ごしている。
最近の週末は菜々美さんと産後使用するものを買いに行くのが多く、凌と過ごしていない。
結局……出産後の菜々美さんを家に置いて良いのか悪いのか、どうしたらいいのか、それを話すことも出来ず、結果が出るまで触れてはいけないブラックボックスのようになってきている。
それが部屋の真ん中にごろんと無遠慮に転がっていて、どこから移動しても、どこから見ても見える状態。
言葉も視線も、そのブラックボックスに吸い込まれる。
とにかくDNA検査の結果が出ないとこの先の事に誰も触れられない。
凌は最近ずっと調子が悪くて週に何度か病院に通っている。
ボカロの話をふたりでしていたのを聞いて心臓が掴まれるように苦しくなったあの時以来、凌と菜々美さんが話しているのを見たことが無い。
凌も菜々美さんを避けて、菜々美さんも凌を避けている。
それでも私と凌は普通に暮らし、菜々美さんと私は最近外で「姉妹?」と呼ばれるほど仲が良くなった。
「詩織さん、おはようございます」
「おはよう菜々美さん。調子はどう?」
「バリバリなんの傾向もありません! ……どうしようー。促進剤がめっちゃ痛いってさっき読みましたー……」
「まだ予定日前よ。大丈夫」
「お腹の中でめっちゃ元気なの分かります。おーいもうそろそろ準備してねー!」
菜々美さんはお腹に向けて叫んでいる。
私は菜々美さんに白米と焼き魚、それにゴマと出汁だけで作ったお浸し、具だくさんの味噌汁を出した。
菜々美さんはそれを「わーい! 美味しそう、嬉しい、頂きます!」と美味しそうに食べ始めた。
ずっと朝ご飯はパン一枚とコーヒーだったけど、菜々美さんに和食を出したくて作り始めたら、私も一緒に食べるようになった。
その結果午前中の仕事が明確に進むようになり身体に入れるものはエンジンそのものだと気がついた。
凌も食べるかなと思って多めに作った味噌汁……具だけ食べちゃおう。
私が具を出していると菜々美さんが横に立って、
「あの、それ残っているならお昼に頂きたいです。白米とゆで卵と納豆とこのお味噌汁でお願いします」
「……食べてくれる?」
「はい。食費も何も出せてないので……本当に申し訳なくて」
「千葉の施設を断らせたのは私よ、人質さん? それでお昼足りるの?」
「美穂さん曰くかなり貧血っぽくて、納豆とゆで卵たべて歩け! だそうです」
「妊娠中に貧血だと産後も厳しいわね。体質なのか分からないけど切り干し大根を作りためしましょう」
「はいっ、詩織さんが作ってくれる切り干し大根、甘くて大好きです」
「……甘いかしら」
「甘いです。そこが好きです」
そう言って菜々美さんは眉毛を下げて微笑んだ。
元気にこのまま出産してほしい……と思ってしまう。茶碗をシンクに持っていくと菜々美さんが立ち上がって、
「食器は私が洗います。あとですね、今日私、マンションでするクリスマスパーティーに呼ばれたんです」
「えっ? あの子ども達?」
「そうです。私、暇でベンチに座ってたら子どもたちと仲良くなって、ママさんたちにも自然と子守を頼まれるようになり、クリスマス会に呼ばれました。折り紙でサンタを作る係のお手伝いをしますっ!」
そう言って菜々美さんはチラシを見せてくれた。
そこにはマンションの一階にある共有スペースでクリスマス準備パーティーをすると書いてあった。
どうやらクリスマスに関する色々なものを手作りしよう……という会のようで、簡単な編み物や、折り紙コーナー、本格的なものだとぷっくりシールの作り方などもあった。
「研究会が終わって間に合ったら顔出すわ。16時には終わるから」
「他のママさんたちが色々赤ちゃんのものを使い終わったのを下さるみたいです。良い小児科とか、おすすめの保育園とかも教えてくれるんです」
「あのスペース、ウォーターサーバーの押し売りしかいなかったけど、そういう存在価値もあるのね」
「とっても勉強になります。みなさん優しくて。私不審者扱いされると思ったのに」
それはきっと菜々美さんの人間性によるものが大きいと思う。
菜々美さんは偉ぶらない、何も知らない、助けてほしいと素直に言う。
助ければ素直に感謝して気もきくし、妊婦という最強の記号を持っている。
菜々美さんは遠慮がちに、
「あの……皆さん私のことを詩織さんの妹だと思ってるみたいで……そうだと言ってしまいました……」
「その設定でいいわ。じゃあ児童館……ここは入るための登録とか必要ないの?」
「子どもを遊ばせるためには必要なんですけど、今日は誰でも普通に入れます」
私は菜々美さんが持って来たチラシを写真に撮って家から出た。
最近菜々美さんが食器を洗い、部屋の掃除をしてくれるので、家事が楽になった。
それに土曜日なのに仕事がないはずの凌がひとりで何も言わずに出て行くような朝に、菜々美さんがいて良かったと思ってしまう。
……今日も凌は病院なのかな、なんだろう、仕事かな。頭の片隅にずっと、ライブハウスがある駅で凌を見たという笹木さんの言葉が住み着いている。
それを何度も思い出して、今では凌と誰か女性がふたりで夜の街に消えて行く映像が流れてしまう。
……考えたくない。私は電車の中で軽く首を振った。
「水城さん」
「菊池教授、お久しぶりです」
今日は生殖補助医療技術情報交換会……半年に一度胚培養士や産婦人科医や周産期医が集まり、症例検討を話し合う会だ。
今日主催の菊池教授は私の父と古い友人で、私が高校を卒業してこの大学に行きたいと言った時、母は一人暮らしをする必要があるから反対した。
でも父は菊池教授がいるから……と私の希望を許可してくれた。
そして菊池教授はたまに父と食事をしていて、私も幼い頃に何度か会ったことがあり、親戚の叔父さんのような人だ。
菊池教授はコーヒーを飲みながら、
「最近全く家に帰ってないんだって? この前お父さんに会ったとき愚痴られたよ」
「そうですね、仕事が忙しい……いいえ、楽しくて。それに結婚もした娘なんてそう何度も実家に行かないでしょう」
「そうかな。俺の娘は毎月来てお金をせびっていくんだけど」
「それは……私もあれこれおねだりしたいなら行くかもしれません」
「詩織さんにおねだりされたらお父さん家だって買いそうだけど」
「どうですかね」
私は両肩を上げて苦笑しておいた。
菊池教授は胚盤胞培養の培地条件アップデートの研究者として有名で、私は教授と今度研究会にお邪魔させていただきたい……と話を進めた。
あまり触れられたくない事に話が進んだときは、教授の専門分野を話してもらえるように話を流す。
教授は嬉しそうにそれを話し、最後に、
「星和さんで結構長いね、指導者になるのかい?」
「打診は受けてますが、自信がなくて。人に教えるより卵子を見てるほうが好きなんです」
「詩織さんは研究熱心だから、うちの方が向いてるよ。指導者は指導者で別の苦労があるからね。研究者としてもっと時間を持ちたいのなら、いつでも相談にのるよ」
そう言ってくれた。
私は丁寧に頭を下げてコンベンションセンターを後にした。
大学を卒業して星和クリニックで働いて数年経った。ふたりの同期は妊娠出産して今産休中だ。
このまま出産しないなら指導者よりは研究者側に行きたいという気持ちもある。
私は朝見ていて菜々美さんの大きなお腹と、渡辺さんの出産したというLINEを思い出す。
私はどうしたいのかな、分からないままだ。
「なるほど、こういう感じでここを使うのね」
研究会が終わり、私はマンションの敷地内に戻ってきて、共有スペースを見て納得した。
うちはかなり広大な土地に複数のタイプが建っている分譲マンションだ。
一人暮らしの人が住む単身向けマンション、そして私たちのようにふたり程度の夫婦が住むタイプ、そしてファミリータイプのマンション、そして道路沿いには一軒家も建っている。それ全て含めてひとつの業者が管理していて、敷地内にはスーパーも百円均一もあり、真ん中に共有スペースと公園がある。
使っているのは基本的にマンションの住人だけど、今日は付近の子たちも来ているようで、自転車がたくさん止まっている。
昼はいつもウォーターサーバーの業者や、血圧を下げる健康食品を販売する人たちがいる。
昼過ぎから夜までは簡易の児童館のようになり、市のスタッフが見守る中、子ども達が楽しそうに遊んでいる。
菜々美さんがシャボン玉をして歌っていたのも、この広場だ。
公園横には使い古されたフラフープ、縄跳び、一輪車が置いてあり自由に使える。
建物の入り口は緑と赤色のリボンがかけられていて『クリスマスの準備をしよう会』という文字が見える。
中を覗くと、どうやら会は終了したようで、中の片付けが進んでいた。
菜々美さんはどこかしら……と見ていたら、目の前にふわりとシャボン玉が見えた。
私はそのシャボン玉があるほうに向かう。すると公園の大きな木にあるベンチに菜々美さんが座っていた。
私を見つけて、
「詩織さん!」
「ただいま」
「おかえりなさい。ちょうど会が終わって詩織さんにLINEしようって思ってたんです。良かったです」
そう言って菜々美さんは眉毛を下げて微笑んだ。
その頬と耳は少し赤い。待たせたのかもしれない。私は自分がしてたマフラーを菜々美さんにかけた。
菜々美さんの服は私が着ていなかった服を渡しているんだけど、臨月の妊婦が着られるような余裕がある服は持っていない。
もうすぐ出産だし、前に赤ちゃんを抱っこした状態でも着れる上着を一枚買うべきかしら……とマフラーをしっかりと巻いた。
菜々美さんはそれを鼻下まで持ち上げて、
「……詩織さんの匂いがする。ありがとうございます、温かいです」
「待ったんじゃない? 先に帰って良かったのに」
「いえ、一緒にお買い物行きたくて」
話しているとそこにシャボン玉をしていた女の子が走ってきた。
「菜々美ちゃん! もうすぐここの木、ピッカピカになるよ!」
「お。点灯するの?」
「そう、準備出来たって!」
そう言って女の子は菜々美さんの横で跳びはねた。
どうやら私たちのすぐ後ろにある大きな木に電飾が施されて、今からライトアップするようだ。
そうだった。12月の頭からクリスマス周辺まで、この共有施設の木は夕方から夜の間、ライトアップされていた気がする。
毎年この『作ろう会』で電飾をつけるのだと、その女の子は楽しそうに教えてくれた。
見ていると、パッ……と色取り取りのLEDライトが光り、まさにクリスマスツリーという雰囲気になった。
女の子は菜々美さんに向かって、
「ねえTikTok撮りたい。ここであの曲歌って! あのお姉さんの曲! ひらひら踊るヤツ」
「あ、あの曲?」
「そうお姉さんの作った曲なんでしょ? あれすっごいから。あれTikTokに載せたらバズると思う。歌って歌って! その木の前で!」
そう言って女の子は菜々美さんの手を引っ張った。
菜々美さんは嬉しそうに私を見て、
「頼まれちゃった。一曲だけいいですか?」
「良いわよ、もちろん」
私は木の前にあるベンチから離れた。
それを合図に周辺にいた五人くらいの子どもたちがスマホを構える。
夕方が始まった空の下、菜々美さんは私が貸したマフラを少しだけズラしてスウ……と息を吸い込んだ。
そして金色の髪の毛をサラリと揺らして問いかけるように歌い始める。
その歌詞は疑問から始まる。そこにいますか? 聞こえてますか? 私の言葉が届いていますか?
小さな子の遊びのように音が飛んで、それは楽しそうに、それでもひとりで、小さなあめ玉、蹴飛ばした水たまり。
歌のなかで時が進むのがわかる、感じて見て進んで掴んで、愛していると伝える。
それをここにいると全てを思い出す、私は何もできなかった、無力だと泣く。
それでもあの人が愛してくれた自分を捨てられないと笑う。
腕を広げて言葉を広げると、シャボン玉が舞う夕方の空に、菜々美さんの指先が浮く。
ここにはたったひとつの心臓しかない、たったひとつの声で、それでも届けたくて、何も出来なくて。
高らかに歌い上げて小さな声で願いを伝え続ける。
ひとりにしないでほしい、どうしても、冷たい、その指先を離したくない、温度が伝わらない、ひとりだと歌う。
聞きながらこれは菜々美さんがおばあちゃんを看取った時の曲だと気がつく。
きっと菜々美さんはこの歌を、この曲を死にゆくおばあちゃんのために歌い続けたのだ。
これは菜々美さんの軌跡。
キラキラ、キラキラ、あなたが好きだった言葉。
雲の向こうに見えているのは光ではなく記憶。
送る空の下に見えるのは涙なのかと金色の髪の毛が問う。
揺れて、揺れて、触れて。
必死に細い指をもがくように動かして、何も掴めないはずの指先に電飾の光が宿り、無数に飛ぶシャボン玉が空に昇る。
もうこれ以上私に触れないでほしいと泣き、痛みを苦しみを吐き、それでも一人にしないでほしいと叫ぶ。
圧倒的な歌唱力と世界観に言葉を失う。
そして気がつく。
広場の奥に凌が立っていた。
そして菜々美さんの歌を聞いている。
そして口を動かして、その歌を歌っているのが見えた。
菜々美さんが心臓がひとつで悲しい、優しくしないでほしい、それでもあなたがいれば、心臓はふたつになると歌う。
それに合わせて凌の唇は動く。
間違いなく歌っている。
視界を遮るようにシャボン玉が浮いて、菜々美さんがそれを全て吸い込むように手を広げて「ここにいてよ」と叫ぶ。
そして凌は少し首を振りながら一緒に「ここにいてよ」。
その言葉を噛みしめるように歌った。
ふたりが同時に歌った。
それでも私はひとりだと、ひとりで生きるのだと、やっぱりひとりだから。
歌い終わって声が空に昇るころ、シャボン玉が割れて菜々美さんは白い息を魂のように吐き出した。
周りで聞いていた子たちが一斉に拍手してスマホが床に落ちて異音を響かせる。
その時には凌は広場を離れて、マンションに戻って歩き始めていた。
女の子が菜々美さんの所に走り寄り、
「お姉ちゃん……すっごいね……お姉ちゃん、きっとそのうち、超バズって有名になるよ」
「えへへ、ご清聴ありがとうございました!」
「お姉ちゃんすごーーい。これオリジナル曲なの? 自分で作ったの?!」
「そう。二年くらい前かな? 一番人気の曲となっております」
「すごーいすごーい、全然知らなかったけど、すごいね!」
そう言って複数の子どもたちが菜々美さんを囲む。
私は息が苦しくて、苦しくて、胸がわしづかみにされるように息ができない。
二年前に作った菜々美さんのオリジナルソングを、どうして凌が歌えるの?
ねえ、どうしてあんなに気持ち良さそうにこの曲をソラで歌えるの? どうしてなの?
どうして、どうしてこの曲を知っているの?
女の子たちは菜々美さんに向かって、
「ねえこの曲のタイトルはなに? TikTokに書く!」
「キラって言うの。雲に母って書いてキラ。ほら、雲の上の方が今も見て見て、キラキラしてる。あれって和紙の言葉で雲母っていうの。昔住んでた山からそれがいつも見えて綺麗だなって思ってたの。でも漢字通じないから、カタカナでキラキラ」
「おっけー! 雲母って演歌みたいだから、キラキラっていいけど、普通すぎない?」
「いいの。おばあちゃんが教えてくれた好きな言葉だから」
そう言って菜々美さんは笑った。
おばあちゃんが教えてくれた好きな言葉、雲母。
それは和紙を見た時に唯一知っていた凌が言っていた言葉で。
どうしてそんな言葉知ってるんだろうって思っていた言葉で。
私は胸の服を掴んで座り込む。こんなの気持ち知らない。
酷い、身体が気持ちが壊れてしまう。
私はここにいるのに、ここにいない。
苦しくて苦しくて息ができない。




