高校卒業認定試験
「はあああ……緊張します、歩くたびに覚えた漢字がポロポロ落ちてる気がします」
「懐かしいわ、そういう感覚」
「詩織さん!」
「ごめんなさい、茶化すべきじゃなかった」
私は素直に両肩を上げて謝った。
11月に入った。今日は高校卒業認定試験の日だ。菜々美さんはライブハウスでたまに呼ばれて歌う以外、すべての時間を勉強に費やした。
二教科なんて申し込みすぎかしらと7月の時点では思ったけれど、申し込んで正解なほど過去問もやり込めた。
胚培養士として日々勉強だと思っているけど、受験の勉強と、自分を磨くための勉強は別だ。
自分の興味ために開くテキストは興味深いけれど、久しぶりにみる英単語や、漢文は「こんなのあったわね」という気持ちになるだけで、ほとんど覚えていなくて、菜々美さんが聞いてきても、答えを見て一緒に考える……それしかできなかった。
菜々美さんは私が働いている間にひとりでしっかりと過去問に取り組み、申し込んだ国語と英語は合格圏内だ。
それでも不安なようで電車の中でずっと忘れやすい単語を見ている。
私は実家から出たくてわざと少し遠くの大学を選んだ。
そこは私の実力では少し厳しくて……それでも実家から通いたくなくて頑張ったのを今も覚えている。
私は菜々美さんの背中に手を置いて、
「大丈夫。両方昨日も80点取れてたのよ。合格は40点、落ち着けば平気」
「はいっ!」
菜々美さんは私を見て深く頷いた。
凌が体調を崩したと言ったあの日から、私は一緒に過ごす時間を減らしている。
体調が悪かったのは本当のようで、受けた検査の結果、胃はかなり荒れていた。
今は毎日胃薬を飲んでいるけれど、正直あの日は私が菜々美さんと出かけるのを阻止したかったようにしか見えない。
それにブラジャーを外してきた。お義母さんと話している時に胸元で浮いているブラジャーを感じながら心が泥沼に落ちるように絶望していた。
違うと分かっているけど、お義母さんでさえ凌が呼んだんじゃないかと思ってしまっていた。
空気が恐ろしいほどに冷え込んで、ここではない遠い場所でたくさんの雪が降っているような感覚。
見えないけれど空中に雪があり、それが徐々に身体に積もっていくように、服の中で浮いていたブラジャーがどうしようもなく気持ち悪かったように。
その違和感を拭えないまま、私は少しずつ凌と居られなくなっていた。
それでも凌に求められると嬉しくて、それでもブラジャーはずっと服の中で浮いたまま。
未来のために学んでいる菜々美さんの勉強を見ているほうが楽しくて、最近は菜々美さんがいると凌が来ないのを良いことに、ずっと一緒に勉強していた。
これを凌に話したら「ブラジャーを外して悪かった」と謝られるだけだ。
その前にある無数の違和感を上手に伝えることができない。
だったら最初から何も言わずに逃げたほうが良い。
私は乗り換えアプリから顔を上げて乗り換えホームを探す。
「……西武多摩川線。あっちね。これまたはじめて乗るわ」
「え~~、可愛い、短い電車ですよ。東京の電車なのに! うちの田舎の電車と同じです」
そう言って菜々美さんはホームではしゃいだ。
高校卒業認定試験……私も名前は知っているくらい有名だから、そこら中の施設で試験が受けられると勝手に思っていたけれど、東京では東京外国語大学のみで行われていた。調べると最寄りの吉祥寺から二駅先の武蔵境駅から、西武多摩川線に乗ると知った。
下北沢で降りたこともなかったし、次は乗ったことない西武多摩川線。
私はスマホを改札にタッチさせながら入場して、
「菜々美さんといると、知らない場所にたくさんいける」
「私が詩織さんの圏外から来た人間だからです。だって詩織さんの友だちは高校卒業認定試験なんて受けないですもん」
「それはそう」
私は軽く頷いて椅子に座った。
電車は短く、なんと単線電車で、町の中をそれでも結構な速度で進んでいく。
住宅街を結構な速度で抜けていく。菜々美さんは窓の外を見て、
「おおおお……! 楽しいですね! うちの田舎を走ってた電車は田んぼの真ん中走るだけで、こんなに臨場感ないですよ。わあ、すごく大きな公園だ」
言われて外を見ると、一気に青空が抜けて景色が開けた。
最寄り駅で降りると武蔵境駅から数分とは思えないほど視界が広がった。
菜々美さんは「わあ気持ちが良い!」とテンションを上げていたが、周りを歩いているのが皆自分と同じ受験生だと気がついて私にくっ付いて、
「みんなライバルですっ……!」
私は声を出して笑ってしまう。
「点数で合否が出るから、ライバルじゃないわ。一緒に戦う仲間」
菜々美さんは私の腕にしがみ付いてゆっくり歩きながら、
「私リボンマートの前はコンビニでバイトしようと思って受けにいったんですけど、私の前にすごく綺麗でしっかりした人が面接してて。もう面接する部屋に入ったら店長私なんて見てなくて。その次のコンビニも喫茶店も天丼屋さんも牛丼も全部ダメで、取ってくれたのはリボンマートだけでした。だから選ばれたいって気持ちがすごく強くて、同じ目標の人たちを見るのが怖いんです。自分が劣っているとひたすら見せられてる気がします。あの人より、あの人より、私のほうがダメです。何ひとつ勝ってないと思ってしまう。自分が誰にも認められない欠陥品だと見せつけられて苦しくなる」
私は菜々美さんの手を握り、
「試験は平等よ。頑張ったら点が取れて、それで頑張った証が貰えるの。面接より分かりやすい、感情論じゃない、だから私も好きだった」
「はい、とりあえず出来ることはしたので頑張ります」
そう言って菜々美さんは大きなお腹に触れながら、ゆっくりと試験会場の中に入っていった。
見ていると他にも妊婦さんがいて驚いた。それにかなり年配の方も、子どもにしか見えない子も、金髪の子も、学生にしか見えない男の子も、本当に色んな年齢層で、多種多様な服装の人たちが会場に入っていく。みんな菜々美さんみたいに勉強して資格を得ようとしている人たち。
ちょっと前まで私が知らなかった世界。
高校卒業認定試験は受験を申し込んだ科目のみ受ける。
菜々美さんは国語と英語のみ申し込んだので、来たのはその時間で、試験は二時間で終わる。
二時間なら駅前の喫茶店でお茶を飲んでいれば待てると思ったけれど、それらしい店は無かった。
だからもう諦めて私は大学構内のどこかで本でも読もうと歩き出した。
大学特有の無駄な広さと、無尽蔵に止められている自転車の山。
止められていた自転車のひとつが、昔凌が乗っていたスポーツタイプのもので懐かしくなる。
凌とは都が行っている公開シンポジウムで会い、その後すぐに個人的な連絡先を聞かれて、ふたりで会うようになった。
デートの時、凌はいつも私のクリニックまで来てくれた。
その時に何度か「家から自転車で来た」と言って、スポーツタイプのものに乗ってきた。
ご飯を食べてはじめてキスされた時も凌は自転車を持っていた。そして「このまま連れ去りたいのに……俺自転車だ」と心底悲しそうな顔をしたのだ。
今もあの表情を思い出すと胸の奥が掴まれたように痛む。私はあの瞬間に凌に恋をしたのだ。
自転車を持つ指先を握って、この人と生きていこうと決めたのだ。
ああ、また葉が落ちる。
今は銀杏の葉が青空を埋め尽くす勢いで空に広がっている時期だ。
ペンキをぶちまけたような青空に広がる黄金の葉が、ゆっくりと自転車に降りてきた。
最近凌のことを思うと、心の中にある池に葉が落ちてきて水面を埋めていく。
そしてゆっくりと沈んで色を失っていく。沈んでいく途中でまた葉が落ちてきて色を重ねてやがて色を失う。
雨が降ってもその葉に触れることはできない、ただ水中で重なって色を失っていくだけ。
ポケットの中でスマホが揺れて、見ると美穂だった。
「! ……良かった」
私は美穂からきたLINEをみて呟いた。
不育症の渡辺さんは先月末から管理入院をしていた。
一日でも一秒でも長く子宮にいてほしい……しかし状況はかなり厳しく心配していたけれど、さっき無事に1800gの赤ちゃんが生まれたようだ。
1800g。それは私と美穂を安心させる数字だった。
「……良かった」
私は落ちる涙をそのままに歩いた。
この涙も感情も間違っている。私は常に卵子に平等に接している。
私の手元に来た卵子にはいつも正しく同じ動きをして分割を願っている。
それでも三度私が洗浄した卵子で妊娠は継続されず、四度目の正直で出産できた。
個人的な感情を持ち込むべきではない、美穂は完全に私が渡辺さんを担当したと気がついていたけれど、特に経過を知らせてはこなかった。
当然だ。それでも一言『渡辺さん無事出産。1800、母子ともに健康』。それだけでどうしようもないほど嬉しい。
自分の成果を喜ぶのは間違っているけれど、それでもたったひとりでここで泣くことを私は私に許してほしい。
舞い落ちて池に落ちて色を失っていく葉が記憶だというならば、それでもまだ目の前で舞い落ちるならば、そこに色はあり続ける。
そうやって顔をあげているべきなのだ。
「うおおおお……! これは取れました、過去問すごい、詩織さんとした過去問から出てました」
「おつかれさま」
「過去問から、出てました!」
会場から出てきた菜々美さんは大きなお腹を揺らして完全にハイテンションだった。
菜々美さんは私を見て、
「まだ予定日まで一ヶ月あるので、このテンションのまま超絶モリモリに苦手な数学行きます!」
「数学こそ楽しいわよ。国語より英語より私は数学が得意」
「じゃあ詩織さん、まだ一緒に勉強してくれますか?」
菜々美さんは鞄を抱き寄せて私を見た。
私は軽く頷いた。
その時、普通に暮らしていたらあまり聞かないような空気全体を震わせるような音が聞こえてきた。
私たちの世界に突然音が響いてふたりで空を見上げる。
菜々美さんが「!」と顔を上げる。
「飛行機、詩織さん飛行機!」
「! 本当だ。飛んでるわね」
交差点で青信号を待っていると、目の空を飛行機が飛んでいった。
サイズ的にかなり大きい。私はスマホを立ち上げてマップを見る。
「あら……ここ、公園だけじゃなくて、そこに飛行場がある。飾りだと思ったけど飛んでるのね」
「飛行機?! 飛ぶの見えますか?! 見たいです」
「調布飛行場……へえ、知らなかったわ。今飛んで行ったんだから時刻表とかあるんじゃないかしら。それを見たら離着陸の時間が分かるはず。でもちょっとまって、そんなに本数がたぶん多くないし、そもそも飛行場って飛行機が離着陸するんだから広大な土地よ。近づいて見られると思えない……菜々美さん?!」
「あっちみたいですね~~~!」
そう言って菜々美さんは大学を出て公園のほうに歩き始めていた。
マップを見る限りかなり遠いけれど、美穂曰く「菜々美さん運動不足」らしいので、少し一緒に歩く。
でもこういう場所は都心部と違って、周りに店も何もないから歩くと結構遠く感じる。
飛行場があるような場所なら当然だ。
結構な距離を歩いてやっと公園の敷地に入った。
すると目の前にかなり大きな銀杏の木があった。菜々美さんは走り寄り、
「わあ……すごく大きな銀杏の木。臭い!!」
「まあそうね、銀杏はそういうものよ」
「! 詩織さんきた、あっちだ、わあ、飛んできた!! すごいすごい、飛行機が飛ぶ!」
私たちが見ていると公園の横にある飛行場から飛行機が飛び立ってきた。
どうしようもなく大きな音を轟かせて真っ直ぐに空に向かって飛び立って、黄色の銀杏の木を飛び越えて空の向こうに消えて行く。
その姿は小さいのに迷いがなくて力強く。
私と菜々美さんはふたりでゆっくり公園を散策した。都内にある公園より視界が開けていて30分も歩けば次の飛行機が飛んできて、予想より使われている飛行場だという事実に驚いた。歩いていたら調布飛行場自体にたどり着いてしまい、そこから出ていた調布行きのバスに乗って帰ることにした。
試験の結果が出るのは予定日後。
受かってると良いな。




