胸元で浮くものは
「楽しみですっ!」
「良かったわね。無理しない程度にしましょう」
「はいっ!」
菜々美さんは朝ご飯を食べながら笑顔を見せた。
今後も歌を続けるモチベにしてほしい……そう思って連れて行ったライブハウスで音楽教室の人たちに出会った。
そこでドラムの練習に合わせて菜々美さんが歌った。どうやらそれがとても好評だったようで、今日はギターの人たちのリハーサルでも歌ってほしいと頼まれた。大手音楽教室からの依頼で、ちゃんとお金も支払われる。
菜々美さんは嬉しそうに、
「スマホの代金が払えます~~」
と言った。最後に持っていたのは手持ちの五千円のみ。それで携帯料金を払っていたけど、今月でもう払えなくなる……菜々美さんはそれを心配していた。
出先で連絡が取れなくなると困るから、お金が入るまで立て替えようかと言ったけれど、大きく首を振り「家賃も食費も出して頂いてるのに、これ以上申し訳ないです」と言った。もちろんそうだけど、妊婦だから何があるか分からなくて心配なのだ。
季節は九月になり、菜々美さんのお腹はもう間違いなく妊婦という大きさになってきた。
胎動がお腹の上からもわかり、そこに生き物がいるのだとはっきり分かる。
どうやら男の子らしく、菜々美さんは「男の子育ててみたかったんですー!」と毎日お腹を蹴られて嬉しそうにしている。
私もこの前菜々美さんのお腹の上に手を置いたら、ドンと中から蹴られて驚いた。菜々美さんは「すごい、めっちゃ全力ですよ」と笑っていたけど、楽しくて。私は凌がいなくて時間があるときは、いつも菜々美さんのお腹に触れている。卵子がこうなるの……やっぱりとても素敵。
朝ご飯を食べ終えて食器を片付けていると、凌が起きてきた。
「おはよう、凌」
それを聞いて菜々美さんはすぐに立ち上がり、客間に消えた。
すぐに出かけるから準備をするんだろうけど、三人でいるのを極力避ける姿はもはや清々しい。
凌は私に挨拶もせずに玄関に向かいマスクを取り出して装着して、
「なんかダルいし、胃が痛い」
「え、体調が悪い? 大丈夫? 熱は?」
「熱ははかってない。でもたぶん無いと思う。でも胃が痛くて気持ちが悪い」
「胃腸炎かも。え、じゃあ今日どうするの?」
「もうさっき断った。寝てる」
そう言って凌はマスクをしたまま寝室に戻っていった。
今日凌は雇均庁のOBが集まる食事会に出席する予定だった。
そこには凌の両親と、親戚一同が集まっている。凌は「親は親。俺は俺。詩織は詩織」というスタンスで、その会には一人で出ると言っていた。
だから今日私は菜々美さんと下北沢のライブハウスに行こうと思っていたけれど……。
その前に凌が体調不良で休むのに私がひとりで出かけるのも……。
悩んでいると客間のドアが開き、菜々美さんが私を呼んだ。私が行くと菜々美さんは正座して、
「今日は私ひとりで行くから大丈夫です。下北沢への行き方は覚えました」
「ダメよ、危ないもの」
「妊婦は赤ちゃんじゃないんですよ、私はしっかりしてます」
そう言われてしまうと、ただ私が菜々美さんと下北沢に行きたいだけだと自覚する。
菜々美さんの歌を聴きたかったし、今日も笹木さんと夕食を取るつもりだったのに。
仕方なく私はスマホを取りだして笹木さんに電話する。笹木さんは下北沢の駅まで菜々美さんを迎えにきてくれると約束してくれた。
それならバスに乗って吉祥寺まで行って、そこから井の頭線に乗り換えるだけだ。
私は、
「反対側の出口に出ると分からなくなるから気を付けてね。階段じゃなくてエスカレーターよ?」
「もお。私のこと本当に赤ちゃんだと思ってますね? 大丈夫です、ね? 見てください大人サイズです」
そう言って菜々美さんは両手を広げた。
なによそれ、抱きしめたらそれで大丈夫だって分かるわけじゃないんだから……と思いつつ、私は菜々美さんを抱きしめて、抱きしめられた。
菜々美さんはおばあちゃんが外国人だったこともあり、最終的にハグで終わらせようとするのが少し面白い。
抱きつくと、もう大きくなってきているお腹が私のお腹に当たる。菜々美さんはそのまま小さく笑い、
「お腹のなかでモゴモゴがめっちゃ動いてます」
「モゴモゴ?」
「胎児ネームです。モゴモゴ動くから、モゴモゴ」
「センスが皆無だわ」
「いいんですよ、もうすぐ生まれてくるんだから適当な名前のほうがお腹に執着が残らなくて」
その考え方があまりに菜々美さんらしくて少し笑ってしまう。
菜々美さんは着替えて家から出て行った。
私は玄関で菜々美さんを見送って……なんとなく玄関の掃除をした。
一緒に出かけられないなら、いっそ家事をする日にしよう。
出産したらそんな暇もないし……と玄関の靴を全部出して、履いてない靴をゴミ袋に入れた。
そして手を洗い、寝室を覗くと凌は横になってスマホをいじっていた。
私を見て笑顔になり、
「詩織。居てくれるの?」
「大丈夫? ポカリスエットとか買ってこようか?」
「いや、最近ずっと胃が痛くて朝起きると気持ちが悪い」
「胃が荒れてるのかも。去年の健康診断でポリープ見つかってたわよね、一回胃カメラしない?」
私がそう言うと凌は大きく首を振って、
「怖い」
「麻酔するんだから大丈夫よ。寝てる間に終わるわ」
「怖いんだ、怖い、すごく怖い」
そう言って凌は私をベッドの中に引き寄せた。
そして私の胸元で小さくなって目を閉じている。
私は凌の頭を優しく撫でる。凌は私にしっかりとしがみ付いていたけれど、その力が徐々に抜けてきてそのまま眠った。
私は凌の頭に軽くキスをして布団を出た。
正直下北沢に行きたかったけど、こういう時にいつまでもそれを引っ張らない。
朝ご飯も食べ終えて体調も良い休みの日に家にいるなら、普段しない部分の掃除を続けよう。
私は冷蔵庫の中身を全部出して内容を確認して、掃除をはじめた。なにより冷凍庫……離乳食がはじまった時に冷凍するかもしれないし、もうこうなったら霜取りもしようかしら。掃除をしてたら奥の方から冷凍しすぎて氷のようになったお肉が出てきてそれを捨てた。
離乳食ってたしか産後半年以降。
あと二ヶ月で菜々美さんが出産する。
凌の子どもだったら? 私はどうするんだろう。
私はもうこの部屋に居られないかもしれない。凌と暮らしてきたこの部屋には、凌と私で買ったものがたくさんある。
これを買った時も、あれを買った時も、あれを一緒に食べた時も、この凍ったお肉を冷凍した時も、菜々美さんを抱いていたと分かったら。
私はそのまま掃除をしながら白であってほしいと心の奥底から願った。
白だったら……私は最低でも産後一ヶ月は菜々美さんを家で見たいと思っている。だって彼女には誰もいない。
実家もないし寝る場所もない。だったら家に居れば良いと思うけど……結果が出たあとも菜々美さんを家に置く理由がない。
そもそも凌が絶対に納得しない。家の近くにマンションを借りてそこに菜々美さんに入ってもらって私が見に行こうかな。
面倒を見すぎだと分かっているけど、産後一ヶ月は絶対安静だ。
だったらシェルターに入ることを止めた私が面倒を見たいと思って同時にそんなの凌が許さないと思う。でももう私は彼女といるのが楽しくなりはじめていた。
私はこんな風に結末が出ない思考をこねくり回すのが好きで嫌いだ。
考えているのは好きだけど、答えが出なくて苦しい。
とりあえずスマホで付近のマンションの家賃を調べて、あまりの高さに絶句する。
菜々美さんは今日四時間歌って2万円を手にする。それでスマホ代金が払えると喜んでいるのに、家賃10万円……。
これで赤ちゃんが泣いたら怒られるのだろうか。うちのマンションでさえ隣人が出産した時はかなり声が聞こえて凌は憤っていた。
考えながらお昼ご飯を食べて寝室を覗くと、まだ凌は眠っていた。
日々の疲れが出たのかもしれない。ベッドに座ると凌が目を開き、
「……詩織。抱っこ」
と私をベッドに引き込んだ。
私はエプロンを付けたまま凌にベッドで抱きしめられる。
凌は私の首筋にキスをして、腰に手を回してきた。
「凌? 体調が悪いのよね?」
「うん……抱っこだけ。何もしない」
「もお、元気じゃない」
「詩織がいるから元気になってきた」
そう言って凌は私の背中に手を入れてブラジャーを外してくる。
もお全然元気じゃない……と思っていたらチャイムが鳴った。宅急便かしら。私は適当に服装を整えてモニター前に立つ。
するとそこに立っていたのは、凌のお義母さんだった。
私は慌てて家の玄関を開ける。
「お義母さん。お久しぶりです」
「詩織さん! あら掃除中? 凌は大丈夫? はいこれ凌の分」
「あ、すいません、ありがとうございます」
「上がっても平気?」
「はい、掃除をしていたので少し散らかってますけど」
「じゃあちょっと寄らせてもらうわね。お茶一杯で帰るわ」
そう言って凌のお義母さんは家に入ってきた。
持って来てくれたのは今日のパーティーで凌が渡されるはずだったお土産だ。
雇均庁のOBの方がお店を開き、そこで食事会があったんだけど、凌は体調不良で休んだ。
中に入っていたのは美味しそうなチーズとハム、それにオリーブ。私はそれを机に置いて、お義母さんが好きな紅茶を入れ始めた。
お義母さんは部屋をキョロキョロとみて、
「凌は? 今日は絶対来てほしいパーティーだったのに本当に体調悪いの?」
「え、ええ、はい。寝室に居ます、呼びましょうか」
「寝てるならいいのよ。あの子パーティーに呼ぶといっつも仮病使うからそうなんじゃないかと思っただけ」
お義母さんはそういって私が出した紅茶を飲んだ。
私の胸元でさっき凌が外したブラジャーが居心地悪くぶら下がっている。私はそれを誤魔化すように背筋を伸ばした。
お義母さんは私が出したクッキーを食べて、
「ねえ凌から聞いたんだけど、子ども出来る確率ゼロじゃないって」
「ああ……あのですね、それは本当に奇跡みたいな話で……」
凌、お義母さんにも話したんだ。
私は驚きながら確率が低すぎる都市伝説のようなものだとしっかり説明した。
するとお義母さんは「なーーんだ」と唇を尖らせて、
「ごめんなさいね……凌じゃなかったら子ども産めたのに。うちの家系にはそんな子ひとりも居なかったのにどうしてかしら。凌だけよ、そんなの」
「いえいえ、こういうのは巡り合わせです」
「凌の精子がダメなせいで詩織さんも大変だったでしょう。三年間くらい上野のクリニック行ってたんでしょ? 仕事場じゃ無理だもんねえ」
そこまでお義母さんに話していたのか……と少し驚いてしまう。
そう、私が働いているクリニック以外で凌の知り合いがいなくて、腕が良い病院を探した結果上野にたどり着いた。
顕微授精をするために私も何度か採卵して……正直二度としたくない、本当に痛くて辛い。
私のように本職が胚培養士で生真面目な人間に不妊治療は致命的に向いていない。
お義母さんはズカズカと入り込んでくるけれど、表も裏もなくすべて話すので、私はそれほど嫌いではない。
思っていることを全て言うタイプで、「精子が無いなら離婚してあげなさいよ」と凌に言った人だ。
麻布でブティックを経営していて、服装のセンスも良い。私ははじめてお義母さんに会った時から好きなタイプだと思ってた。
お義母さんは申し訳なさそうにスマホをいじり、
「あのねー、実は今日はねー、あなたのお母さんから、あなたの様子を教えてくれって言われてきたのよー」
「……なるほど」
「全然電話に出てくれないし、LINEはスタンプだけだし、寂しいっていっつも言ってるわよ。お母さん愚痴るためにうちのブティックきて服買ってくれるから断れないのよ。もう祐子さん全身毛皮買っちゃって、このままじゃマタギよ」
「っ……お義母さん、少し面白いです」
「鉄砲構えるのが似合っちゃう感じになってるから、電話してあげて。会いたくないならそれでいいから、ね?」
そう言って「病気うつされたくないから帰るわ」と凌の顔を見ずに帰って行った。
私は静かになった部屋で冷めた紅茶を飲みながらスマホを見る。
私は母が嫌いで大学の合格と共に家を出て、そこから10年、実家には一度も帰ってない。
嫌いだから家を出たのだ。これ以上嫌わないために、近づきたくない。そう決めている。
母は私を医者にしたがった。点数が上がれば褒めて抱きしめて、ミスをすると無視をした。勉強をしていると笑顔で、他の事をすると友だちごと遠ざけた。
ずっと思った通りに進むように機嫌でコントロールを続けられて、それがずっとイヤだった。
私はずっと人の機嫌を取って生きているし、嫌われるのが心底怖い。
でも一人娘だから……と三ヶ月に一度は電話に出るようにしていたが、菜々美さんと一緒にいるようになり、完全に連絡をしていなかった。
お義母さんの所で買い物をして、しなければいけないと思い込ませて、それで動かす姿を、前と何も変わらない……と心底苛立つ。
ため息をついていると笹木さんからLINEが入った。
そこには動画が添付されていて、ギターの横でやたらハイテンポな歌を歌っている菜々美さんが写っていた。
これは……ハードロックと呼ばれる領域のものではなくて……? 私はすさまじい速度の歌を楽しそうに歌っている菜々美さんを見て苦笑した。
やっぱり私が居ないと菜々美さんと笹木さんだけでは、ただ暴走するだけな気がする。
店長さんにもLINEしておこう……と苦笑して、力が抜けた。
そして思う。
菜々美さんが私の顔色を窺い、しがみ付いてくる態度は……そのまま私の子ども時代に重なる。
私は店長さんにLINEしようとしていたが、お母さんに切り替えて電話をした。
数コールでお母さんが出た。
『詩織! 元気?』
「……元気よ。お義母さんまで使わないで」
『だって電話に出てくれないから。お母さんもう全身曜子さんのブティックになっちゃったわ』
「まあセンス良いお店だから良いんじゃない?」
そう言うと母は『そうよね!』と楽しそうに笑った。
そして沈黙が訪れる。いつもそう。私が嫌いすぎて会話が続かない。
興味もないから、話すこともない。でもここで菜々美さんなら? 私は少しだけ菜々美さんになってみる。
きっと自分から新しい話題をふるだろう。
「……最近知り合いが出来て、下北沢のライブハウスに行ったわ」
『あら素敵。お母さんも最近合唱サークルに入ったのよ』
「えっ、なにそれ」
『病院を退院した子どもたちがしているサークルなんだけど、誘われちゃって。子どもに歌は全身運動だから良いわよって言ったら、じゃあ先生もって! 断れないでしょう』
「まあその流れだとそうね」
『私の声ソプラノなんですって、先生が』
「まあキンキン高いとは思うわ」
『年明けにコンサートがあるの、録画して送るわ!』
母は楽しそうに報告して電話を切った。
私はスマホ画面を見る。……実家を出て10年、はじめてまともに会話したかもしれない。
合唱サークルでソプラノ……、
「……絶対うるさい……」
私はスマホを台所のテーブルに投げて、再び掃除を始めた。
それでも心にあった巨大な荷物が動いたようで心が軽く、合唱って何歌うのかしら……それを今度は話題にしようとスマホにメモをした。
会話のネタをそこから広げて最低5分の会話からはじめよう。




