下北沢で
「これはちょっと……かなり分かりにくいわね、線路が重なってから……こうマップを見るのが正解かしら」
「わ~~下北沢下北沢、ちょっとインスタ更新していいですか? 私最近インスタ復帰して」
そう言って菜々美さんは下北沢の駅前で自撮りをした。
今日は日曜日。笹木さんが下北沢でライブする場所を持っている人……オーナーさんかしら……私はよく分からないけど……と会わせてくれるというので来た。
私は長く吉祥寺付近に住んでいるので、井の頭線はよく使うけれど、途中の下北沢は乗り換えで使うのみだ。
東京に生まれて住んでいても、用事がない駅に降りることはない。
でも音楽をする人たちの中では有名な町のようで、菜々美さんは目を輝かせている。
「下北のライブハウスなんてコネがないと歌えませんよ、私みたいな女は絶対無理だと思ってました」
「どの世界もコネが大切なのね。私も今いるクリニックは、みんな同じ大学出身よ」
「ほえー……やっぱ同じ飯を食べてる人は安心感が違うみたいなもんスかね」
菜々美さんがそう言った瞬間、昨日の夜シンクに残っていたふたり分の食器が脳裏に浮かんで小さく自分に絶望する。
凌とふたりでご飯を食べたと言ってくれたら良かったのに……と心に引っかかっているけど、それを口に出すと言わなくて済む事まで言葉になってしまうというのは分かっている。それに別々の場所で食べたかもしれない。ただ同じ夕食を食べた食器が二組、シンクに残されていただけだ。
そんなことをずっと考えてしまう自分が嫌いで目を固く閉じる。
菜々美さんは私の服の袖を、自分がここにいることを知らせるように引っ張り、
「詩織さん体調悪いですか? だったら今日は帰ります」
「ううん。大丈夫。妊娠中に動ける期間なんて短いのよ。大切にしましょう。それにやっと悪阻も終わったんだし」
私がそう答えると菜々美さんは眉毛を下ろしてふなりと微笑み、
「はい!」
と元気に答えた。そしてお腹に触れて、
「最近お腹の中でぽこ……って泡が動くような感覚があるんです」
「え、それ胎動じゃない?」
「ですよね? ずっと本当にお腹の中に赤ちゃんいるのかな……って不安になったりしたんですけど、ぱちん……って。たまに空気の球が動きます」
「空気の球」
「そうきっと、赤ちゃんが呼吸して吐いている空気の球」
子宮内で空気が振動するような呼吸してないけどね……と菜々美さんにいうのは野暮だ。
菜々美さんは知識で話をしない、これは感覚の話だ。
それでもどこか、子宮という宇宙のなかでぷかりと浮かんでいる赤ちゃんが月に向かって空気を吐き出すようなシャボン玉。
「……菜々美さんはそういう風に歌ってるわ」
「私、自分の父親って誰だか知らなくて。母親は私を産んですぐにおばあちゃんの所に預けて、お金を送っていたのは最初の三ヶ月だけで、すぐに消息不明になったそうです。私の家族はおばあちゃんだけでした。おばあちゃんは昔バーで歌う仕事をしていて、すごく歌が上手だったんです。山の隙間に建っている小さな家でおばあちゃんとふたり。おばあちゃんはドラム缶でいつもゴミを焼きながら歌ってました。薪にまだ水が含まれている時、パキンッ……って高い音を立ててはぜるんですけど、この感覚はそれに似てる。きっとお腹の中に火がある」
そう言って菜々美さんはお腹を撫でて、
「ドラム缶の火は消さないんです。24時間365日ついてました。地元の小学生とか、中学生が、親に見せたくない物を持って来て、勝手に焼いてました。点数が悪いテストとか、上手に描けなかった絵、着なくなった服、提出期限が切れた手紙、担降りしたグッズ、教科書、みんなよく燃やしに来てました」
「……10年以内の話なのよね? 今日本でそんなこと許されるの?」
「栃木のド山の中の話ですよ。ゴミの収集なんてあったかな? とにかくなんでも燃やしてました」
東京で生まれて育っている私には想像もつかないけれど。
それでも山の中に置いてあるドラム缶に真っ赤な火が灯り、その前に立っている菜々美さんが浮かんだ。
詩織さんはその火を思い出すように金色の髪の毛を揺らしながら、
「おばあちゃんが死んだ時に私はそのドラム缶でおばあちゃんを焼くのが正しいと思ったけど、それはダメだって分かってた。でもこの火を消すならおばあちゃんの一部を焼いてから消すのが正しいと思った。だから私は火葬前におばあちゃんの髪の毛を少し切っておいて、ドラム缶で燃やしました。真っ白な髪の毛が一瞬で真っ赤になって空に昇って散って消えてました。おばあちゃんは死んだんだってやっと理解して、火を消してそこを離れた」
壮絶な話をしているけれど、私の視界には真っ白な髪の毛がふわりと空に昇っていく景色が見えて、
「……それは天国にいった感じがするわね」
「詩織さんに話して良かった。私は腐った玉手箱で人に話せない言葉がたくさんあるけど、詩織さんに話して供養してる気がします。そう、たき火って綺麗なんです。子どもが生まれたら絶対したい。詩織さんも……って思うけど出産したら……私と詩織さんって……どうですかね。この子の検査次第かな」
そう言って菜々美さんは声を小さくしていった。
私は菜々美さんと話しながら正直分からなくなっていた。
季節は間違いなく進んでいて12月には結果が出る。
凌の子どもだったら……? そうじゃなかったら……? 何が正解なんだろう。
でも凌の子どもだったら離婚確定、それは間違いない、耐えられない。
ただ頭のどこかで分かってる、菜々美さんが産む子どもには、何の関係もない話だ。
私は毎日卵子を見ている。細かいことを言えば全て違うし、個人と感情を混ぜたりしないが、それでも卵子は卵子なのだ。
卵子と精子が出合って受精卵になり分割を続けて人となり生まれる。その入れ物が子宮である……それ以上でも、それ以下でもないと常に思っているし、その混じりけがない感覚こそが胚培養士として働く私に最も大切な感覚だと思っている。
ただ卵子と精子が出合って生まれた子ども。その感覚と、食器がふたつ並んだシンクが同じ世界にあると思えない。
菜々美さんは私の横を小さな歩みでついてくる。
菜々美さんの今は、私に生存権を握られている状態だ。
私が出て行けと言ったら出て行かなきゃいけないし、産院も私が移動させて払ってしまった。
人質だから。そう言っているけれど、それと私の母が私にしてきたことと、これと、なにか違うのだろうか。
違うとしたら……私は菜々美さんを見て、
「菜々美さんが産んだ子どもに、会いたいと思うわ」
「! あの、甘えすぎなのは分かってるんですけど、たまにでも気にしてくれると、あ、ちゃんとすぐに結果出たら家出ますけど……嬉しいです。最近私思うんですけど、一生詩織さんの人質でいいです。人質立候補……」
菜々美さんは俯いたまま小さな声で言った。
両親もいない、祖母も亡くなっている、そして妊娠中で仕事もない。
そんな状態だから私に頼っているのだろう。
菜々美さんは千葉で寮に入ろうとした。
それを止めてこんな状態にしたのは私、それで安心してるのは私、でもその状態にしたからには出産までは面倒みる。
たぶん私は菜々美さんを可愛いと思っている。だからこそ出来ればその先もしっかり生きてほしい。
「……甘えないで、何言ってるの。働きなさい、ちゃんと。子どものために」
「私。みんなは嫌がってたけど、精肉が好きで。リボンマートでも精肉をずっと担当してました。お肉って切り方ひとつで味が全然違うんです。料理好きだし……調理とか、そっち方面で頑張ってみたいなって思います」
「中卒でも入れる調理学校はあると思うけど、やっぱり基本は高卒から専門学校だと思う。子どもを育てながらどうやって生きていくか、考えましょう。認定試験の勉強進んでるじゃない? テキスト追加する?」
「はい! 11月の試験で国語だけでも取りたいです」
そう言って握りこぶしをみせる菜々美さんがどうにも可愛くて、私は微笑んだ。
学歴は「そこまでは理解している」という鎧で、最も簡単な共通言語だ。
人はみな鎧とラベルを確認してから、中を知る。腐っている肉は最初から食べない。
それは決して悪いことではなく、人を一瞬で判別するのに必要なだけだ。
こうして話していれば、菜々美さんが学ぶ機会を奪われただけの人だと分かる。
でもそんな暇も余裕も簡単にはない。人は結局卵子。ただ命のはじまり。
到着したライブハウスは、妊婦が下りるにはあまりに急な階段の下にあった。
私が手を差し伸べると、菜々美さんは蕩けるような笑顔を見せて私の手を握った。
そしてきゅうと強く握り、
「危ないからって、手を差し出してもらったの、人生ではじめてかも」
「落ちるのが妊娠中に一番良くないのよ。それにこれ……人が行き来できないわ。何かあったらどうするのかしら、建築基準法に完全に違反してる」
私がそう言うと菜々美さんは私の手を強く握ってケラケラと笑い、
「ライブハウスでそれを言う人、詩織さんがはじめてです。リボンマートではたまにおっさんが見に来てそういうこと言ってキレてた。階段にみっちり何かが置いてあったんで」
「危ないわよ、何考えてるの」
「山のように商品があるから置く場所がないんですよねー。わあこの空気久しぶり、嬉しい嬉しい!」
到着した地下一階がライブハウスのようで、到着するとそこに頭部と髭が同じだけ毛に包まれている人と、笹木さんがいた。
笹木さんは菜々美さんを見て目を輝かせて、
「セセセセセブン~~~~!!」
菜々美さんは両手をパチンと合わせて、
「あっ、なるほど、理解しました。いつも来てくださっている方ですね。わあ嬉しい」
そう聞いた瞬間に笹木さんは私の方を高速に振り向いて、
「認知、認知されてる! 認知! 詩織さん認知されてます!」
「良かったわね」
笹木さん……今日はプライベートとということで、セロハンテープがクルクルと巻き付いているような……よく分からない形状のGパンと、もう少し頑張ったら乳首が見えてしまいそうなTシャツを着ている。この前ホテルであった時はベージュの美しいワンピースだったので、そのギャップに驚いてしまう。
すると菜々美さんが目を細めて、
「そのTシャツ。去年のアドバンスパーティーの限定品ですね、ありがとうございます」
「セブン~~。ちょっと~~~歌えます? また歌えますよね? サインお願いします!!」
そう言って笹木さんはポケットから金色の油性ペンを出した。
私は状況が分からず驚いてしまう。
「今着ている状態で書くの? 服に文字を? 今ここで?」
「はい。下、捨ててもよい下着にしてきました。お願いします!!」
そう言って背中を見せた。
菜々美さんはこの状況に慣れているようでペンをカチカチと振って着たままの服にサインを書いた。
私はそれを横で見ながら、
「洗濯したら落ちるじゃない」
「洗濯なんて金輪際しないんですよ! 頭良いのに頭悪いな詩織さんは!」
サインを書いてもらっている笹木さんが私を睨んだ。怖い。
両肩を上げて苦笑すると、横に立っていた髭と髪の毛が同量の男性が私のほうに来て、
「はじめまして。サウンドマックスの佐藤です。保護者の方……という扱いでよろしいですか?」
「はじめまして。水城詩織です。はい、菜々美さんの保護者という立ち位置で今は問題ないです。すいません、営業開始前にお邪魔してしまって」
「いえいえ。俺もセブンが姿を消したと聞いて気になっていたので、女性に保護して頂けているようで安心しました」
佐藤さんはそのいかつい容姿とは似ても似つかない静かで丁寧な話し方でこれからのことを話してくれた。
曰く自身もセブンのファンなので、こっちとしては産後タイミングが合えばいつでもという話だった。
ここはライブハウスというより、お酒を飲むのがメインの場所のようで、舞台では誰かが常に歌っている……そういう場所のようだ。
ライブ単体で上げる利益よりビールや飲食の方が単価が安定するのだろう……と私はなんとなく思った。
入り口からドアを挟んだ奥の部屋から、ドラムの音が聞こえてきた。
菜々美さんは、
「入ってもいいですか?!」
と目を輝かせた。店長さんに促されて中に入ると、舞台がある部屋に繋がった。
舞台の真ん中にドラムがあり、横にギターを持つ人などがいる。
どうやら今日はここで音楽教室の発表会があるようで、ドラムを叩いているのは子どもに見えた。
それほど広くない空間で、空気が揺れるような振動が響いてくる。
これは妊婦に大丈夫なのかしら……と思ったが菜々美さんはすぐに舞台に向かい、
「ボーカル要ります?」
と話しかけた。
どうやらこういうタイプの音楽教室の発表会はドラムのみ教室の子で、ギターで歌は、他からお願いするようだ。
菜々美さんはそれを知っていたようで、ドラムの子の横に立ち、器用に歌い始めた。
どこかで聞いたことがある曲だけど、ドラムを叩いているのは子どもだし、テンポも速かったり……正直あまり上手だと思えない。
それでも菜々美さんはそれを合わせるように、助けるように、それでも引っ張るように、寄り添うように音を飲み込むように歌い、ただのリズムを音楽にしていく。
最初は不安げだったドラムを叩いていた男の子も、菜々美さんの声に引っ張られるように安定していくのが、素人の私にも分かる。
「……すごいですね」
横でそれを味わうように聞いていた店長は、
「彼女は身体全体で音を掴む天才です。とんでもなく良い耳とそれを出せるあの声。なにより本人がとても魅力的でアンバランス。それでいてこの世界にあまりに執着がない。明日生きていても、死んでいてもおかしくない人だから、みんな心配してました。なによりリボンマートを辞められたのが良かったです」
「……そんなにヤバイお店なんですか?」
「労働基準法ガン無視で働かせて、給料のほとんどを与えてない最悪の環境ですよ。俺も何度かセブンに東京で歌ってほしくて声かけましたけど、店長に訴えると言われて諦めました。もうこうなったらそれを良かったと思いましょう。産後いつだって良いです、僕はセブンの歌が聞きたい」
音が震える。
それを両手で掴む、編んで声を乗せて、添えて飾って返す。
音と歌はきっと会話で、それならばお腹の赤ちゃんにもそれが届くはず。
菜々美さんは今までを紡ぐように歌い、顔を覗きにいったら笹木さんは号泣していた。
もう怖いから近づかない、また怒られる。その後生徒さんが何人も希望して、菜々美さんは楽しそうに歌い続けた。
歌い終わるころには生徒さんもみんなファンになっていた。
本当に不思議な子。




